≪ヘーゲルにおける<他者>のドラマおよび、主人と奴隷のあいだの抗争は、ヨーロッパの拡大とアフリカ、アメリカ、アジアの民衆の奴隷化という歴史をその背景とすることによってのみ生じたものなのだ。言葉を換えるなら、ヘーゲル哲学の唱える絶対精神の内部への<他者>の回収と、世界史を劣った諸民族から発してヨーロッパで頂点に達するものとして把えるヘーゲルの歴史観とを、ヨーロッパによる征服と植民地主義が揮ったまさに現実の暴力と結びつけずにおくことは、とうてい不可能なのである。端的にいって、ヘーゲルの呈示する歴史は、内在性の革命的平面に対する強烈な攻撃であるばかりか、非ヨーロッパ的な欲望に対する否定でもあるのだ。≫『<帝国>』アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート著 水嶋一憲ほか訳
アントニオ・ネグリとマイケル・ハートがヘーゲルを批判しているのは、ヘーゲルが理念を実現する材料としての民族精神の役割を力説して国家こそが究極目的であり、一般的意思と主観的意思の統一体である「自由の意識」を実現するものとみなした箇所に集中している。ヘーゲルによれば、国家の秩序に反するものは自然状態とみなされ、近代国家以前のアフリカやアジア地域は不法と暴力、自然衝動と非人間的な感情が支配する世界として否定された。このような見方からすれば、国家は自己と「他者」が対面する手段としての疎外態とみなされているものの、やがて止揚された絶対精神に包み込まれるはずであり、「自由な服従」として国家は自己に敵対するものではないと考えられた。ヘーゲルの弁証法の場合、精神にとって外界のものは自らが外化したものであることを知っていることを媒介にして獲得される。つまり、人間は理性的に対象をながめれば、主観と客観が統一されて概念は概念にくるまれ、「他者」は外側には存在しないと言っているに等しい。そこでは、現実とは意識に映った現実であり、現実は哲学をとおしてのみ真実であるから、哲学を哲学することだけが自由である。なぜこういう思弁が成立するのかというと、最初から近代国家の理念があり、それが「自由の意識」であるからだ。いわば、ヘーゲルにおける哲学とは近代国家の主権の内容を手助けする形式なのである。
こういうヘーゲルの方法では世界史は時間が堆積された近代の高みから出発して、自分のところへ還ってくる歴史しか対象にならず、その時間の円環で歴史が流れないことになってしまう。この場合、マルクスなら人類の前史の死という未知によってかわすのだが、ついに時間の獲得に失敗したヘーゲルはそのことに気づかなかった。その点、近代国家の落日があらわになった現在においてこの行きづまりに気づき、ヘーゲルの後ろ向きの歴史を流そうとしているネグリとハートの必死さだけはわたしたちに確実に伝わってくる。
今度、ネグリとハートが2011年にチェニジアではじまったアラブの春の政変劇やスペイン、アメリカのウォール街の占拠運動を共有した「叛乱」を解説しているのを読むと、これらはたがいに呼応しあって「自由」と「平等」と「連帯」をもとめた水平的なひろがりをみせた運動であり、いずれも歴史の岩盤に穴を穿とうとした試みと考えられていることがわかる。このような運動は、現在の資本主義が資本と労働の関係を大きく変化させ、資本は工場の中ではなく社会全体に支配をおよぼして、わたしたちの生産能力、身体、精神コミュニケーション能力、知性、創造力すら搾取していることに対する叛乱であったことになる。その具体的なあらわれとして彼らは、①金融支配による債務・債権関係②情報、コミュニケーションの過剰によるメディア支配③セキュリティシステムによる監視④代表制による民主主義への妨害の4つの支配を挙げている。そして、彼はこの被支配の4つの形態は、反転させて支配関係を覆す契機を伏在させているとみなした。たとえば、ウォール街の占拠によって示した99%のひとびとの平等への志向につらなる債務の支払拒絶は、みずからの欲求を肯定して新しい社会的関係を発展させることができる媒体になるとされている。その場合、この社会的関係とは「ともに存在する」ことで再発見する主体化を意味し、彼らの政治運動への呼びかけは、はじまりは「特異なものへの生成変化」という言葉に要約される。
≪「ともに存在する」ということは、特異なものへと生成変化することだ。なぜなら、特異なものになることは、個人化されることとは対照的に、ともに存在する主体の力をふたたび見出すことを意味しているからである。特異なものとなった主体性が発見するのは、他の特異性とともに集合的な主体性をふたたび合成することなしにはいかなる出来事も起こりえないということである。それはつまり、叛逆することなしには特異な主体性がともに存在することはありえない、ということだ。したがって、特異化のプロセスは、ともに存在する状態に向かって開かれた自己肯定、自己価値創造、主体的な決断として、具体化[=肉体化]されることになる。すべての政治運動はこのように誕生するのである。まず、[悲惨や孤独をもたらす状況から自らを]きっぱりと切断するという決断を下し、それから[他の諸々の特異な主体性と]ともに活動するという提案へと向かうのだ。≫『叛逆』アントニオ・ネグリ マイケル・ハート著 水嶋一憲、清水知子訳
ここで言われている政治運動への導入口は、ひとびとがみずからの欠如を埋めることではなく、みずからおちいっている悲惨や孤独を切断することで、特異なものとしてみずからを生成させ、運動の中でほかの特異性としての他者と身体的に融合しながら、再びみずからのうちに導きいれる主体化運動のように読める。いかにも内面の化学反応に似たプロセスにちがいないが、このようなことが可能にみえる背景には、個々人の生活そのものの陥没意識が埋められていることに理由があるのはまちがいない。なぜなら、ここには世界と社会と個人の関係のあり方そのものが崩落して、自己の生活意識のアイデンティティが、直接、皮膚感覚にとどくほど縮小されているからだ。しかし、ネグリとハートはそれを縮小とうけとらず、逆に、そこに無限の空間的拡大を可能にする連帯の根拠を見出したのだとおもえる。おそらく、もはや個人と社会の通路を失って、退路なく選択肢もなくなったわたしたちには不可視になった連帯の根拠なのである。
ネグリとハートの思想は、マネー、テクノロジー、ヒト、モノが国境を超えて激しく往来しているポスト近代によりそい、今日の世界が以前と大きくちがった歴史的移行期をむかえているという認識に裏づけられた。そこで彼らは、従来の社会主義的な政治用語は批判的もしくは脱構築的なアプローチで訂正する必要があるとして、権力とはなにか、搾取とはなにかについてあらためて問いなおそうとする。そして、知的労働の全産業への構造化、資本主義の金融化と金融資本のグローバル化、通貨管理体制の不安定化、非正規労働の増大、移民による労働の移動化をまねいたプロセスそのものが、「帝国」という超国家的な権力を産みだしたと考えた。この「帝国」の支配は、国民国家である近代国家の枠組みの外側で発生したものであり、労働の国際的な組織化により、資本の価値増殖の形態と搾取のありかたに本質的な変化をひきおこし、近代国家はもはや資本にとって必要な存立要件でなくなってしまったのである。
情報産業や多国籍企業、金融企業の寡占化は、それ自体として第三次産業の非物質的労働、大衆化された知的労働の全面的な開花にささえられ、国民国家を横断して領土の境界線を易々と越えるようになった。当然、搾取の形態はマルクスの時代のままでは通用しない。個々の企業の利益は、生産部門間の関係と交換の社会的関係の中で、「帝国」的権力のありかたをとおして理解しなくてはならなくなったのだ。ネグリとハートは、この「帝国」の構成過程、支配系統の変容、新しい指導者階級と勤労者たちの政治的主体のありかをつきとめようとする。そして、古い帝国主義的段階を離脱した世界秩序から出発して「国民国家」、「民族国家」、「国民」、「人民」という近代的権力概念の出自をたどることによって、わたしたち人間と「帝国」の対立のはざまに「生権力」、「生政治」という新たな概念を提示した。
システムの支配権力にも似た概念である「帝国」に対するネグリとハートのアプローチは、①グロバリゼーションの拡延化②国民国家の危機③社会的、生産的存在論の変容の三側面からおこなわれている。そこにおいて権力は国民国家も市民社会とも無関係に、むきだしの生権力に転化したとされる。生権力政治がもろもろの出来事の全体性を包みこんで従属させており、グローバルな時間と空間において社会的協働を管理するにいたったと考えられているのである。マルクスのいう搾取が一国的な規模における労働者の時間の簒奪であるとすれば、現在はグローバルな関係の中での社会的価値の簒奪を意味する。
もちろん、権力の側は、マルクスの資本主義的危機論としての生産の不均衡論や流通の危機論のどれも、ケインズ的あるいはポストケインズ的管理をとおして意味をなくしていることを知っている。彼らにとって、かつての帝国主義的支配の危機の図式は、もはや完全に塗り替えられるべきものになった。従来の植民地支配と帝国主義はナショナルな資本主義が拡大したものにすぎなかったから、価値の過剰な生産であるポスト近代の支配においてそのまま適用しようとしたら、国民国家の破綻をひきおこすことになりかねないからだ。逆に言えば、「反帝国主義」、「反植民地主義」の闘争もまったく意味をもたなくなった。マルクスやレーニンの知らなかった危機は、ここでは一国規模の経済と世界経済の矛盾という図式をさえ完全に飲みこんでしまったのである。それでは現在の資本主義のほんとうの危機は何なのか。これは新しい「帝国」的な政治経済的構造が出現して、階級闘争が国民国家の古い形態に戻れないほど様変わりしていることから産まれている。それが彼らの言う「マルチチュード」という概念への入り口である。
≪マルチチュードとは多数多様性のことであり、諸々の特異性からなる平面、諸関係からなる開かれた集合体のことである。マルチチュードは、均質なものでもなければ自分自身と同一のものでもなく、自己の外部にあるそれらの特異性や諸関係を別個のものとして区別せずに、それらと内包的な関係性を保つ。これとは対照的に、人民は、外部に留まりつづけるものとの差異を呈示し、またそれを排除しながら、内的な同一性と均質性とをめざそうとする。マルチチュードがいつまでも閉ざされることのない構成的な関係性であるのに対して、人民は主権のために整えられたすでに構成済みの統合体なのである。≫『<帝国>』アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート著 水嶋一憲ほか訳
工場内や国民国家の枠内でおこなわれていた古典的な規律と管理は、すでにグローバルな資本主義的管理、つまり、資本とその「帝国」の管理にとってかわった。しかし、権力と人間のあいだの変形した関係に着目したネグリとハートにとって、グローバル化それ自体の後押しによって産みだされたこの「マルチチュード」の協働的能力は、おのずと権力を脅かすようになると期待される力でもある。ここで注意すべきはネグリの場合、「帝国」と「マルチチュード」は「両義性」の関係としてとりあげられている点である。いわば、「マルチチュード」は「帝国」を飲み込んでおり、その接点にマルクスの描いたような否定の契機がみられないのである。マルクスの場合、「プロレタリアート」は奴隷、臣民、封建小作人、小商工業者、ブルジョアジーなど諸階級の歴史をつうじて産まれ、その否定性として「最後性」の階級と位置づけられていた。それにひきかえ、ネグリの「マルチチュード」にはこのような否定の契機がなく、最後には「帝国」を完全に飲みこみ咀嚼してしまうことがその勝利になっている。問題は、マルチチュードからはじまって資本→マルチチュード→帝国→マルチチュードまで、そのあいだを埋める近代的な意味の主体形成の具体的なイメージを欠いたまま、一見、マルチチュードがマルチチュードへ回帰していく顔のない退屈な「反復」(屈折)しかないようにみえることだ。
だが、この「反復」はある意味では、資本主義の危機をもたらす共鳴板にもなっている。地域にちらばった「反帝国」の反復運動は、単に産業的な搾取への抵抗でも、一労働者階級の特殊な利益の表現でもない。社会的搾取にたいする多義的な抵抗であり、全勤労者にとって社会的な利益の表現としてとらえられる。それは、単独でありながら多数であって、単独的存在として同時にマルチチュードの総体でもある。ネグリとハートにとってマルチチュードは、唯物的な生産力を意味する関係のネットワークである。「帝国」が政治秩序の中で閉じた世界であるのに反して、その開かれた行動するマルチチュードはどこからでもさらなる解放をもとめることができる。この生産力は資本主義システムによる規制のあらゆる制限を逃れており、資本はもはやこの労働力の発揮する生産性を把握できなくなっているからだ。搾取される主体が構成する協働的な富は、資本には手につけられないほど膨らんでおり、その点にこそ唯一の可能性があるとネグリとハートは言っていることになる。彼らにとって問題なのは、その社会化したマルチチュードが、いかに協働的な行為によって主体化されるかにかかってくる。次には、「生政治的」な支配をこえて憲法を構成する権力にならなければならないのだ。
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