書評 『歎異抄』を読む②

 親鸞の時代は天災による飢餓や貧困、病苦、戦乱によって、いわば死が日常化していた。それは、たとえば、念仏を称える間もなく急死する人々にとって、往生するための念仏は一声でよいのかという、一見、矮小といってもよい問いかけだが、実は浄土門の本質に関わるものとして、彼に具体的な回答を迫ったことでもわかる。親鸞は念仏によって自分の罪を消してから往生するのは自力の計らいであると批判する。彼によれば、いったん、念仏を称えることで本願におさめとられた者は、すぐさま往生できることを約束してもらったのであり、死に際して無用な心配はいらないと言うのである。
 当時は、人々が宗教に安息の理想を求めるのは、いつ死ぬかもしれないという日常的な危機感が生のマイナス価値として露出していたからであり、この意味で死の意識が胚胎するかぎりで、そんな日常における異様さというべきものの介在が不可欠であった。だから親鸞は、衆生の飢餓や病苦が、不可避に吐き出す死の意識に回答を与えることから出発しなければならなかったのである。
 その上、飢餓や病苦が衆生にもたらしたのは、身近に迫った死への怖ればかりか、汚濁した忍苦すべき現世への嫌悪感が蔓延して、死への希求が入り混じって、遁世を求める人々がいたのも事実である。そういう中、親鸞は、決して極楽浄土(死後の世界)において約束された理想生を前提にして、その思想を出発させていない。つまり、死をマイナス価値からプラス価値として希求することが、衆生にとって果たしてほんとうに救いとなるかどうかの境界線を内省しながら出発しなければならなかったのである。
 確かに、浄土教の理念は、平安末期の『往生要集』によって馴染みであったが、源信、法然とつづく宗祖の理念の天下りを信じるだけなら、思想家・親鸞でなくともよかった。ここに親鸞が単なる宗教者ではなかった最大の理由があった。
 親鸞は、念仏の信心を申す者は天の神、地の神、悪魔や外道も妨げることはないと言っておりながら、仏門につかえるはずの自分が、その理念を裏切ることが不確実な確信であるかのように、再三にわたって告白している。

≪「念仏申し候へども、踊躍・歓喜の心おろそかに候ふこと、また、急ぎ浄土へ参りたき心の候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらん」と申し入れて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり。≫『歎異抄』 唯円著

≪なんと悲しいことか。この愚禿釈の親鸞は果てもない愛欲の海に沈み、名声と利得の高山に踏み迷って、浄土に生まれる人になかに数えられることを喜ぼうともせず、仏のさとりに近づくことをうれしいとも思わないでいる。これを恥じ、これに心をいためなければならない。≫『教行信証』親鸞著 石田瑞麿訳

 法蔵菩薩が長い修行のすえに阿弥陀仏となった際、阿弥陀仏は四十八の願をたてた。そのうち第十八願は、たとえ自分が阿弥陀仏になっても、人々が阿弥陀仏の名を聞き知って極楽浄土に救ってほしいと願ったならば、その者を必ず極楽浄土に救ってやろうというという内容であった。その第十八願に対する仏恩報謝が繰り返されるフレ-ズの中に、突然闖入されるこの「信」の不確かさの根拠は何か。念仏を称えて浄土に往けることがわかっていながら、それを喜ぼうとしない、うれしいとも思わない自分がいるのである。親鸞はこれを煩悩のなせるわざとしているのだが、そのような浅ましい業の深い凡夫であるからこそ、弥陀が同情して救いの手を差しのべてくれるとされる。かえって、勇んで浄土に行こうとする方がおかしいのではないかと疑っているのだ。
 しかし、これは念仏者として専修念仏に帰してのちも、終生、抱きつづけた「信」の揺らぎの表明であった。親鸞においては、「信」そのものの出発点が、不可避に「不信」や懐疑に結びつくことをあらわしているとしかいいようがないのである。それほど、その言葉は衆生の現実意識の根底から発せられているのである。
 この言葉が指し示す親鸞の場所は、明らかに前提された浄土(死)の空ではなく、現実嫌悪を抱きつつも、「死ねば死にきり」という煩悩にまみれた現世の意識が倒れ込んだ地上の場所であり、善悪以前の場所でもある。おそらく、これらの言葉の背後には、飢餓や病苦におちいった衆生が、一刻も早く娑婆の苦しみから解放されたいと浄土に憧れつつも、源信の時代のように素朴に、念仏を称えれば浄土へ必ず掬い取られるという確約を信じきれない懐疑が隠されていた。自分の死は想像の中にしかなく、一方で生の反面であると同時に、生の代償ではありえなかったからである。
 こういう衆生の懐疑に向かって開かれていた親鸞の思想は、念仏門に心が定まってのちも、この「不信」に面して、絶えず、意識的な相対化を忘れなかった、というよりも、むしろ、はじまりにおいて、「不信」につながる「信」を不確実性の意識として包みこんでいたとおもえる。もっと極端にいえば、この箇所では、親鸞に現世利益という思想が果たしてあったのかどうかさえ疑いたくなるのである。これは彼においては浄土門という仏門の世界が、現実意識として人間の実存の内奥に感応した単なる方便でしかないと考えていたことを滲ませるものである。したがって、まず、浄土があり、それにどう近づくかということのみに心をくだいていたと、俗に流布されている易行の念仏者の面影とは全く別の顔をもっていたことをあらわしていた。
 それでは、衆生が現世に対して嫌悪をもよおす「不信」とは、どのような時代を背景にしていたのか。
 親鸞の伝記によると、その生涯は次のようにたどられる。
 親鸞は、1173年(承安3年)に、下級貴族の出である皇太后宮大進日野有範の長子として生まれた。その後、父母を失い9歳の時(養和元年)、慈円を師として比叡山に出家した。修行僧として厳しい修練を積んでゆけば、悟りの境地にたどりつくと信じていたのだが、次第にこのような修行に疑念を抱き、29歳の時、六角堂に篭り、聖徳太子のお告げを通して、法然の専修念仏門下に入ったとされている。
 1207年(承元元年)興福寺の僧の朝廷への訴えにより、法然、親鸞らの専修念仏は禁止されて法然は土佐に、35歳の親鸞は越後に配流された。すぐに、流罪は赦免されたものの、法然が1212年(建暦2年)に死去したこともあって、京には戻らず越後にとどまる。そこで恵信尼と結婚し、子供が生まれている。
 その後、1214年(建保2年)、越後から東国に向かい、常陸の地に落ちつき布教をはじめた。関東についた親鸞は、村々の生活の中に深く根をおろした山伏や修験者など既存の仏教勢力と戦わなければならなかった。関東の領家、地頭、名主、つまり武士や百姓の心をつかんでいたのは山伏であったから、念仏布教の成否は、山伏との論戦に勝つことにかかっていたのである。だが、親鸞の命を狙っていた山伏弁円は、対面するなりすぐさま念仏に帰依したと語り伝えられている。また、親鸞は、関東で布教をはじめてから二十年の間に、煩悩具足の悪人のただひとつの救いを証明する理論を書物にまとめることにした。それで生まれたのが六巻の『教行信証』である。
 そして、1235年(嘉禎元年)63歳の時、妻子や門弟と別れ、20数年住み慣れた関東から京に戻ったとある。なぜ、京へ戻ったのかについては、倉田百三のように、知らず知らずのうちに教団の中心人物になっていい気になっている自分を反省したという形而上学的動機をみとめた見方がある。満ち足りた関東での生活の偽善性に耐えられなくなり、自身のもっと深い信心をめざしたというのだが、実際には、笠原一男のいうように、信者が増えるにつれて、念仏門に対する弾圧が強まってきたという事情があったのではないかとおもえる。その後、京においては隠居の身として東国と消息をとりながら執筆活動をおこない、1262年(弘長2年)90歳で大往生したことになっている。親鸞は法然によって他力の念仏者に帰依した29歳から90歳までのあいだ、仏恩報謝の布教をおこなってきた。既存の宗教勢力、政治権力から激しく弾圧されながらも、柔軟に対応して、阿弥陀如仏の慈悲を人々に伝えることが、自分を救ってくれた阿弥陀仏に対する報謝であると信じつづけた人生であった。
 ところで、『方丈記』の作者である鴨長明によれば、親鸞がもの心ついた頃の京の街角では、飢饉、疫病、大火、旋風、大地震が相次ぎ、何千、何万という餓死者、病死者がほうぼうに横たわり、浮浪者があふれる惨憺たるありさまだったとされている。それに、末法の世にふさわしく、盗み、汚辱と世相は目を覆いたくなるような罪悪がはびこっていた。それでも、人々は俗世への執着を断ち切れず、財産や権力の亡者のような醜悪さをむき出しにしている、と鴨長明を嘆かせている。
 もちろん、このような世相の描写は、遁世している鴨長明にとって、仏教的無常観を紡ぎだす格好の案内板になっているのだが、それを割り引いても、いわば、恵まれた出家隠遁を行い、自然に囲まれた庵に風雅に閑居している趣味人の心象だけでない内省を含んでおり、世相に蔓延した厭世観をうかがわせるものがある。
 また、親鸞が生きた時代は、ちょうど血なまぐさい源平の合戦の後につづく鎌倉時代に当たっている。当時、保元・平治の乱にはじまる武士の台頭と主導権争いは、やがて、平家の没落、源氏内の争闘にひきつがれ、その後、鎌倉幕府の成立時、親鸞は20歳前後だったと想定される。その間、京に入城した木曽義仲と平家との合戦から壇の浦までの戦乱、やがて、源氏の凋落までを目のあたりにして、おそらく、武家社会の成立期に遭遇した人々は誰しも、死の意識とともに確からしい生がないことを、心に強く焼きつけたことだけは想像できる。
 親鸞の現実意識が、ここから何を得たかを直接確かめるすべはないが、ただ飢えて、明日の命を保証されない衆生がうごめいているにもかかわらず、このような世相になんら答えるすべもなく、加持祈祷を繰り返しているにすぎない既成仏教は、自らの涸渇した理念の内側に佇ちつくしている醜悪な無力さと映ったことだけはまちがいない。この場所から、親鸞にとっての宗教理念の内と外の格闘が出発したはずだった。

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