書評 『純粋な幸福』辺見庸・著 毎日新聞出版・刊

 辺見庸の詩文集『純粋な幸福』(毎日新聞出版)は、著者の才能と努力のみごとな開花にちがいない。読後、わたしは、鮮烈な印象をうけたのである。
 作家、辺見庸の感覚のすべてが、全開している。視覚、聴覚、嗅覚、触覚、とりわけ嗅覚への辺見庸の愛着は、ふかいものがある。軽視できない。
「だいたい、ピュアな幸福がにおわないわけがない。いったい、におわないしあわせがどこにあるというのだろうか。」
 ダイコンのぬか漬けのにおい。屁。土くれ。蒸れた藁。頭皮のにおい。泥んこ。汗のにおい。馬糞。くさい髪。股のにおい。スルメのにおい。ドブのにおい。納豆のにおい。
 しかし、これらのなつかしい臭いは、この世から、人間のもとから、日々の生活から消えていく。辺見庸は、わたしたちを毀損するものへ、つよく怒り、はげしく抗議するのである。さらに、わたしたちに報復するよう決起をうながしてくるのである。
 詩文集は4章から成立し、収録作品は14編。うち5編が書き下ろしだ。2016年から2019年までに書かれた、辺見庸の最新作である。なかでも「おばあさん」「グラスホッパー」「馬のなかの夜と港」「番(つが)う松林」が、感銘ふかかった。
 2010年、辺見庸は『詩文集 生首』(毎日新聞社)を刊行している。わたしは、その書評を「信濃毎日新聞」に発表したが、読後の感動は本書のほうがずっと大きかった。本書の言葉のかずかずは、鮮明に立ちあがっている。透明感も感じられた。しかし、辺見庸の問題意識と主張は双方に一貫しているのである。

 バスの中に小さな、白髪の「おばあさん」が消えいりそうに座っていた。隣に座り、彼女の指をさわる。冷たい指が細かくふるえていた。ぬか漬けが濃く臭った、という。翌日、辺見庸は、おばあさんに電話をかけようとしたがかからない。
 「いまどうなさっていますか?」「貧しく、寂しそうなおばあさん。」「いじめられているのですか? やさしい口調(笑顔)のひとびとに、とってもやさしく朗らかにいじめられているのですか。」
 「了解! 仕返ししましょう。てつだいます。どこまでも陰湿に報復しましょう。」「ぼくはぼくから引っ越そうとしているのです、おばあさん。」
 「おばあさん」は、本書冒頭の作品だ。いつぞやの「辺見庸ブログ」にちょこんと登場した、老女のその姿はほんとに孤独そうで、胸をつかれたものだ。
 ここには、人間が人間にむける対等なまなざしが、貧者・弱者・病者へのいたわりが、認められないか。辺見庸の身をかがめる姿勢も、明らかだ。
 さらに、作品最後のフレーズにしかと注目してほしい。「ぼくはぼくから引っ越そうとしているのです」。想うに、これは、自身からの脱皮を意味するものではないか。外界とのまじわりが近年ますます疎ましく、「自閉」ぎみでいる自身への訣別の表明かもしれない。
 本書2番目の「グラスホッパー」は、著者の「現在」の心境を述べている。
 辺見庸は、リハビリ施設に通いはじめて7か月だ、という。「老いるという避けがたい劣化と事実をどのようにひきうけるべきか。」「静謐な心もちになるにはどうしたらよいか、それをどうやって保てばよいのだろう。」「現在」、「世界の実相は気鬱にみちている。」「気鬱をはらうには怒り狂う他にはない。狂気といわれようが、怒気をあらわにしてなに悪かろう。所詮はバッタなのだから。」「いまは怒るべき時だ。」
 作品最後の「いまは怒るべき時だ」。とくと注目してほしい。わたしはふと思った。昭和初期のプロレタリア文学のかずかずの最後を。労働者による労働者のための作品の最後は、彼らの決起を訴えていた。非人間的な抑圧や、資本家の搾取や、貧富の差などへの怒りによるものであった。
 辺見庸の怒りは、「現在」へのはげしい抗議なのだ。辺見庸のうちから突きでる強烈な怒り。辺見文学のすばらしさのゆえんは、その率直な怒りにあるのだと思う。その魅力に共振しつつ、わたしは、心がふるえるのである。

 「馬のなかの夜と港」は、いちばんの傑作だ。「日本経済新聞」に掲載されたエッセイである。物語性、描写力のきいた文章であろう。
 辺見庸は都心のカフェにいる。わかい男女がスマホを使っている。細い指。顔はみな端
正で声も似かよっている。辺見庸の目に幼年時代の風景がうかんだ、という。
 重い荷をひく、老いた黒馬が、凍りかけた泥道でよろける。「ほれっ、ほれっ、ほうほう」。
馬方は叱咤し、鞭をやる。馬はつんのめり地を蹴って、倒れた。しけった藁、馬糞、いがらっぽい汗の臭い、剣呑なかけ声。「それらの混合」が「世界中のすべてをつつんだ。」「聖性さえはらむ生と死の気配に打たれた。」馬方は「全力で世界と戦っていた。」
 「その風景のなかにつつまれる」、自身をふくむ「すべての存在物(の実存性)」を、辺見庸は疑わなかった。「存在の不確かさなんかなかった」というのだ。
 辺りに潮の香りがただよっていた。遠くに漁船の汽笛が聞こえたのだった。
 そんな風景に立ち会えて「じつに幸運であった」とも、辺見庸は語るのである。
 生きるとは、幸福とは、こんな風景につつまれることをいうのではないか。人生をながく体験した人、「現在」を直視できる人、辺見庸にして書ける、すぐれたエッセイだ。

 「番う松林」は、「現代詩手帖」に連載された4編のうちの1つだ。辺見庸のうちからほとばしる語彙のかずかずに圧倒された。ピッチの速い展開もおもしろい。ドラマチックな進行も興味ふかい。わかりづらいディテールもあった。死者たちが登場する空想、想像の世界だが、そこには辺見庸の「現在」への悲嘆も批判も意見もこめられているはずだ。
 「いまここに在りつづけるもの」ではなく「かすみ、かすれ、消えゆくものだけが慕わしい。」と、辺見庸はいう。「どこまでも明けない砂丘を。さくさくと。はだしで」「純粋な幸福をもとめて」行く。そして松林に。「なんときもちがいい。」
 道中たしかに「純粋な幸福」は存在した。遠くのさやかな笛の音と、波間の紙灯籠のきらめきと。なつかしい。べつの連載作品にもある。松林をぬけてくる、鯨油くさい髪の毛の風。しかし、消えてしまった幻影もある。消えてしまうものもある。
 それらに、辺見庸は「つかのまの幸福のやうなものを感じる。」が、「純粋な幸福って、これなのかしら」と、疑問をおぼえてもいるのだ。念をおさざるをえないのである。辺見庸の「現在」の偽らざる感慨なのかもしれない。

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