ひとがあるイメージを好きであったり嫌いであったりすることの意味はなんだろう、というような任意の設問をたててみる。そうすると、そのイメージに込められた人々の体験やこころの起伏によりそって、変化や屈折がプリズムのように放射されていることに気づく。それで何かがわかったような気持ちになる。しかし、イメージには必ず人の生涯と同じように、誕生と最期の軌跡がこめられていなければならないはずだ。そう考えなければ、イメージが現実の行為を引き起こしたり、生身の生そのものを傷つけたりすることの意味を理解できない。わたしたちは、イメージにかき回されたり翻弄されたりする人の生涯をつぶさに観察してきたのだが、大切なことは、イメージの生起が誠実であるかどうかだけを基準に選ぶべきだと考える。
江藤淳は、『退屈の美学』の中で、古井由吉が記憶の底に眠らせたまま、決して露わにしようとしないあるイメ-ジの懐かしさを呼び止めている。江藤の解釈によれば、このイメ-ジとは古井の心が安息と秩序を保っていた記憶の断片であるが、この記憶の中身こそが、ほかの誰でもなく江藤が自らに説得し、納得させようとした発ち帰るべき故郷の原イメージにほかならなかった。江藤の時間は、そこからはっきりと折り返し地点をみつけ、現在の家族や社会が置かれている危機感の行きつく先を断念した。
文体は回帰するものに押し流されていく分だけ安息と秩序に満ちていた。江藤自身の案内にしたがうと、このような回帰するものは、漱石にあっては「漢学の世界」であり、小林秀雄の中では「青い海」に象徴される日本の美しい伝統的儒教倫理の世界であった。これらは、それぞれの色合いの変化をもちながらも、いちように近代を通過することによってゆきづまり、それをのりこえようとした彼らの体験の傷跡を色濃くにじませたのである。つまり、もともと、イメ-ジが言葉に先行する江藤の文体論の原型は、イメ-ジの出自そのものよりも、イメ-ジの質が反転しながら回帰するものとして描きだされるところで、その方法論を着地させているのである。
漱石や小林秀雄に自らの分身をみている江藤の折り返し地点からすれば、敗戦による傷跡であった一度目の敗北体験も、反芻しているうちに、やがて分身の住む戦前世界の時間への接続にとどまらず、もしかしたら、まだ見ぬものへの飛躍であるかのように反転する瞬間をもった。そのことに気づいたのは、外見では戦争の傷跡も薄れ、高度成長経済が軌道にのり、世の中が一面の安定と半面の不安をかこつようになってからである。
というより、漱石や小林の回帰を知っている江藤にとって、半面の不安とは、目の前に繰り広げられている「近代」そのものというよりほかない高度成長期の猥雑ないまいましさの感覚よりも前の、戦前世界の安定と安息のイメ-ジを前提にして成立していたのだ。ここにおいて、もはや、彼を傷つけたのが「近代」という「他者」なのか、それとも戦争の「時代」であるかの区別は、先行するイメ-ジにとって意味をもたなくなり、要は、彼に違和感を植えつけたものが、戦前と戦後を結ぶ時間の「段差」として自覚されたことだけが問題になった。
だが、江藤にとって安息にちがいない二度目の敗北体験は、何によって撹乱され郷愁の対象にならねばならなかったのだろうか。通説では、漱石や小林秀雄の完結されたイメ-ジを想起させると同じく、江藤においても「近代」という名の「他者」の闖入にアンビヴァレンツな心理が働いたことになる。しかし、よくみると、漱石や小林の言語から江藤の言語へのつらなりは直接的ではない。その間には、江藤の敗戦時に味わった心の葛藤と漱石や小林の言語をとおして高度成長期の心にきざした戦前世界のイメージが介在しており、心の葛藤劇は複雑に絡みあって、「近代」の言語の交換関係を規定する。ともすれば、「近代」は、貨幣の魔術とともに強欲さの悲哀を秘めて立ち現われながら、メタフィジカルな成熟と喪失の神話にソフトランディングするのだが、もはやハムレットのような近代的悲劇は過ぎさったようにしか現われてこない。少なくとも、わが国の高度成長期の悲劇の質には似つかわしくないとおもえる。
こうして、そこにわだかまる齟齬は、「近代」の違いや「戦争」の爪あとの違いを内包して、記憶と原像の崩壊というイメージを浮かび上がらせる。これを指してルサンチマンと呼ぶかどうかは別にして、江藤は、敗戦を違和感や欠如として選択し、うしろ向きの表現を担って戦後を出発しなければならなかった。そして、確かなことは、そこで誕生した異和や欠如は、漱石や小林秀雄の直面した「近代」とのさらなる違和に直面したとき、「近代」の反芻は、やがて「戦争」の翳とともに、戦後の米軍占領史に固執する際の復古的なイメ-ジを結像する。この間の隠された経緯を仲介したのは、「言語」が「言語」に受け渡される際の危うい均衡のようなものだ。
江藤にとっては、現在と戦前世界を接続させる上で曲げられない前提条件があった。敗戦は絶対に「無条件降伏」ではなく、主権国家としての条件をもった終戦のイメ-ジがどうしても必要だったのだ。
≪日本は昭和20年8月10日の連合国に対する第1次回答で、ポツダム宣言の条件中には、「天皇の国家統治の大権を変更する要求」が含まれていないとの了解の下に、同宣言を受諾する旨の付帯条件提示を、明らかに行なっている。これに対して連合国側が、翌8月11日、直接これには答えず、単に降伏と同時に天皇と日本政府の「国家統治の大権」が、「連合国最高司令官の制限の下に置かれるものとす」る旨を回答して来たことはよく知られているが、記録によってみると、連合国側、特に米国は、日本の付帯条件提示を少なからず重視していた形跡がある。≫『「静かなる空」と戦後の空間』 江藤淳著
いうまでもなく、この箇所は、敗戦と米軍の占領が少年期の江藤にとって屈辱であったとされる根拠になっているところである。だが、そのこだわりの前に、少年の江藤にそのような屈辱のイメージがどのように植えつけられたかを考えてみる必要がある。それは、まず、占領期間をつうじて、自由に書くことを封じられ 被虐感を募らせた文学者、マスコミのそれであったこと。次に、敗戦が「有条件」であったがどうかを詮議する自由な法解釈を制限され、たびたびGHQの顔色を窺わねばならなかった、官僚組織の役人のものであったことである。
それをあたかも、日本人すべての敗戦体験のイメージとして固着してしまうと、誰もが死を身近にひきよせた戦争体験の意味を法解釈の中に溶解してしまうことになりかねない。それにもまして、戦争や敗戦をイメージの底に沈めてしまうことになる。彼は敗戦解釈が日本国家の主権の連続性への挑戦とみなし、占領体制の圧迫感として普遍化したのだが、実際に多くの日本人が敗戦によって味わったのは、戦時中の国家資本主義の肥大化のあと突然おとずれた、奇妙な空白感と放心状態であったのである。それは自分で確かめられなければ、父親や祖父に直接聞いてみてもわかるはずだ。きっと、本土決戦に備えて塹壕を掘りながらも、自分は生きて故郷に帰れるとはおもわないという意味では死ぬのは恐ろしくなかったが、突然の戦争の中断に実感がともなわず、これから日本はどうなるかさっぱり分からなかったというような散文的な答えが引き出せるにちがいない。
戦後生まれのわたしが、ちょうど父親が兵役についた20歳になった頃、北山修の『戦争を知らない子供たち』というフォークソングが流行っていた。その歌の詞に対して、当時、なんとなく違和感をもった。そういえば、最近見た『硫黄島からの手紙』で嵐の二宮君が塹壕掘りをさぼって「こんな島、アメ公にくれちまえばいいのに」と戦友と話していた場面にも同じような違和感をおぼえた。そのときは、なんとなくであったが、北山修の父親は戦争にいってないのではないかとおもった。実は、わたしはその前に、戦争体験をしゃべらなかった父親にしつこくせがんで、その体験を聞きだしていたからかもしれない。
わたしの父親は召集されたなんでもない初年兵として、徳島の連隊にはいった。召集される前から、その時代のすべての青年とおなじように、自分はあたりまえのようにお国のために死ぬものだとおもっていたという。それでも、満州へ行くことになったとき、船に乗り込んで、玄界灘から最後に本土をみたときは、さすがに涙がでたそうである。朝鮮半島をのぼって満州、ソ連の国境線までの汽車からみた情景はおどろくぐらい鮮明に記憶していた。プラットホームで遊ぶ朝鮮の子供たち、つらなる朝鮮の禿山。そして、満ソ国境についてからの荒涼たる地平線、訓練と塹壕堀りのこと。訓練中、手袋を忘れて凍傷になった兵士、当時、武器が一番整備されているといわれていたはずの関東軍が、対戦車戦として火炎ビンを使う訓練などである。
そして、ソ連が満州に侵攻する直前、満州に残るもの、南方戦線に行くもの、本土決戦に備えるものというように、兵士は振り分けられた。そのときはわからなかったが、あとでふりかえると、この時、運命がきめられたと父親は納得した。そういえば、父親に聞く前になにかの本で読んだことがあった。徳島の連隊の一部だけが、本土決戦に備えて高知へ帰り、九死に一生を得たとあった。満州に残った者は戦死し、あるいは抑留され、ニューギニアなどの南方戦線にやられたものは玉砕したという。父親は高知に帰るときも、本土決戦があるので、とうてい生きて実家に帰ることはできないとおもいさだめていた。ただ、高知と実家は近いので、最後は、実家まで後退してそこで死にたいとおもったらしい。 こうして、父親は、高知で終戦をむかえた。塹壕を掘りながら、食糧不足でしまいにはフラフラになって、8月15日のラジオ放送を聞いたが、雑音が多くて聞き取れなかったという。父親の兵役体験は、あの大戦の一番の最後の方で、おそらく、通算して数ヶ月にもみたないあいだに、もくもくと命じられるままに塹壕を掘っただけだろうが、たくさんのことを体験したと想像する。ひとつは、徴兵制は大衆に国民的政治体験を強いたということである。そして、その照り返しのように、戦友、親戚、家族の死はもちろんだが、一兵卒には侵略する意図はなかったものの、中国戦線にいった友人たちから、植民地になればその国民はいかに惨めなかを聞かされていたという。父親は、日本軍が大陸で酷いことをしたと口をきわめていう。中国や朝鮮の人たちが、なぜ、今になっても反日感情が消えないかよく理解できるとのことである。それでも、わたしは体験してないが、父親のような見方をする人間がいるかぎり、まず、日本の戦死した兵士、本土にいて空襲で被災してなくなった人、障害になった人たち、総じて父親が偶然によってそれをまぬがれた人々のことを第一に考えるべきだとおもう。それらの人たちに罪はないとおもうからだ。それから、次に、侵略された中国、朝鮮の人々のことである。
父親たちの世代は、敗戦後、いわゆる戦中派として、本当の意味で最初に戦後民主主義の洗礼を受けた。それにもまして、1960年代から70年代にかけて日本の高度成長経済を支えた。それに対して人々の意識は個々の生活に細断化され、もしくは風化しているかもしれないが、戦争が終わったときに感じた、二度とこのような体験をしてはならないという日本人の総意が、無意識の土台になっていた。
その総意は目に見えない糸でわたしたちに引き継がれて、アメリカから押しつけられた平和主義などというたわごとを蹴飛ばすものになっている。わたしは、父親たちの戦争体験のとてつもない大きさの痕跡は、なにより憲法第9条の理念に反映されているとおもう。この憲法の理念は体験思想として極北の価値があり、わたしたちの歴史とともに、日本人の総意だとおもっている。わたしの父親も今年89歳になったが、父親は戦争中、こんな体験を自分の子供に家族団欒の中で話すことができる時期がくるのか、夢におもったことがあったと言う。わたしたちは、そういう感慨と同じように、憲法第9条によって戦争がこの地上から一切姿を消す時期があるのか夢想しながら、それをいかに変革の思想にできるか模索していくほかない。
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