ここ十数年の社会の変化は、日常生活意識の変兆にはじまって、家族、職域、地域、果ては政治状況まで、断面をどこで拡大しても、人々の意識、感性、生活様式の深奥にまで垂鉛をのばし、わたしたちを従来とは全く異質な社会的環境の土台に連れ去ろうとしている。ところが、残念なことにわたしたちは、このような異質な社会状況の突然の襲来がどうして起こったのか、それがわたしたちの日常に何をもたらしているのか、また、その行きつく先がどうなるのか全く予想できないまま、ただ、「高度情報化社会」とか、「人間性不在の時代」とかの予言的言いまわしを使い古しているにすぎない。
状況はわたしたちの失語を尻目にはるか前方を疾走し、何も分からないとつぶやく遅れたランナーに向かって慰めの一言さえ与えず、ひたすら前方へ駆られている。それでいて、間違いなく見誤っているのは、わたしたち遅れたランナーの方である。会社ではうつ病などメンタル関係の病気が増加し、学校はいじめで荒廃し、家庭では子殺し、親殺し、幼児虐待、あげくの果ての赤ちゃんポストで示した人間の関係意識の表出は、凝集し屈折した関係への修復渇望と読むべきではなく、むしろ関係域そのものの意識的実体を「肉体」それ自体で打ち消そうとする他者との観念的な交通様式の異変を特徴づけている。おそらく当事者である彼らの心性を支配するのは、感性、意志の主張や表現ではなく、逆にそれらの性急な「肉体化」と手形交換された「なにもしない」空白感そのものにちがいない。そして、ひとごとではなく、環境さえちがえば、わたしたちの日常でも同じ必然性をもってもおかしくないのだ。
つまり、沖合いから陸地を眺めるようにみて社会意識の雪崩現象という比喩でとらえられているのは、資本主義がより高度化し、いわゆるソフト化社会の動向が時間ととともに、良い意味でも悪い意味でも、ほぼ「私」的意識と膨大に膨れ上がった観念的意識の乖離において「私的感性・意志の解体」に圧縮された姿であるということはまちがいない。もちろん、それは今回の東日本大震災の甚大な打撃によってGDPが落ち込んだり、電力が当たり前に供給されたりするものではないことみてもわかるとおり、生産力の飛躍的な拡充によってはじめて現実化したものである。今ではモノとの関係づけの側面で、わたしたちは経済的な取り分の多さや時間的ゆとりとして享受しつつある。自己が「自由」に使用できる時間は生産と消費の異和として、せりだしている消費活動の肥大化につれてうみだされているにちがいないからである。だが、人間と自然との不等価の交換関係の中では、生産が消費的生産と生産的生産に区別されるのと同じように、その消費は生産的消費と消費的消費にわかれ、それが矛盾となって「私」的意識をその外部の観念生活として疎外するようになる。
そのため、一方で「私」的意識は時間の極大化をもたらしたかとおもうのと、もう一方で、その極小化を裏面に貼りつける。そのことで、わたしたちの社会的関係においては、知識や富は、時間的な「偏在」化と空間的「分極」化としてあらわれることになる。つまり、一方で豊かさを志向するヒトやモノとのコミニュケーションルートを拡遠化する空間で表現しながら、その裏面で、拡遠した欲望が社会的生産力とともに時間として跳ね返ってくるとき、ヒトやモノとのコミュニケーションの隙間に余剰時間を堆積させ、日々、極小化する時間の重荷を引き受けざるをえなくなる。このふたつの相反する時間・空間意識はひとびとの心の中で共存して、「私的感性・意志」の社会的意識からの離反をうながしているのだ。
はたして、このようなコミュニケーション様式は家族、職域や地域のコミュニケーション方法とうまく和解できるのか、それが次のステップだった。だが、このまま家族や職域のコミュニケーションの関係を横にひきのばしても、おそらく、この消費時間の延長からもたらされる時間のゆとりは、その逼迫感の中に紛れ込まれるにちがいない。むろん、それにともない、人々の「私的感性・意識」においては生産的消費に対する防御的意味が増大してくるが、それが具体的に何に対する防御かは、人によって労働時間の長さや仕事の向き不向き、賃金に対する不満や人間関係の気まずさなどの不本意さであったりするのだが、どちらにしても、当体が時間の異和を本質とするかぎり、いちように漠とした不安に晒されることはまちがいない。しかし、たとえ、それが不安の拡大であったとしても、消費時間の拡大なくしては、わたしたちの「自由」の拡大は考えられなかったのだ。わたしたちは、この「自由」の拡大こそ、わが国の戦後の生産と消費をつなぐ経済活動の第一の指標であったとかんがえる。
そういうわたしたちの「自由」や不安の出所は何か、との疑義や焦りがうまれてからたくさんの時間が経過した。すでに1980年代には、この新しい「自由」をめぐっての問題意識がうまれていた。本棚の隅に埃をかぶっていた山崎正和の『新しい個人主義の誕生』を読みなおしてみると、時よりみせるイデオロギーのにがりは別にしても、他のハイテク讃美論者と同様、飛躍的な生産力の拡充にともなう人々の意識の未知の変化を日常生活に着地させようとする方向づけが読みとれる。つまり、人々の視界を抽象的な国家観から社会への下降をうながして、生産主導から消費主導への転換を、モノの飽食と時間そのものの消費が結合した豊かな社会の個人主義の確立に結びつけていることがわかる。
確かに、わたしたちには既知のものであるこの経済生活は、物質的繁栄か精神的安定かの二者択一の選択を無効にするほど膨張した。だから、このことを既得権であるかのように主張する根拠はありえる。また、物質的繁栄が、直接的にモノに対するよりも、むしろ個人の時間を消費するような消費のための消費をめざす方向で、心のゆとりの函数になっているのも事実である。理念だけは、一見、遠大にみえるが、その実、わが国の戦時中の配給制度同然の公平な分配を自賛していたかつての「社会主義」国家などよりも、豊かさを誰もにまき散らした現在の高度資本制社会は文句なく優れている。このことを認めようとしない人々は、物質的繁栄が先行した結果、心の問題がなおざりにされたとして、青少年の非行や風俗の乱れを例証してみせる保守的な政治家と同様、物質的な繁栄と心のゆとりのプラスの函数を不問に伏してしまっているのである。
こうして山崎は、自己が「自由」に使用できる時間の復権を前提にした上で、豊かな社会からこぼれ落ちる余剰時間の流れの通路を開き、いわば、絶対的な時間から相対的な時間獲得へのスムーズな移行を夢見ているのだが、その反面で、モノではなく時間の消費を競うかのような均質空間で、その同じ与えられた時間が余裕どころか、逆に停滞したり、空虚であったり、また、追い立てられたりする被虐感を与えるのはなぜか、ということに答えられていない。問題は、時間をめぐるものにちがいないが、一方を切り捨てただけの時間は、少なくともわたしたちの実感にはそぐわない。わたしたちはどこにあっても、このようなチグハグな当惑に身におぼえがあるはずだ。
わたしたちは、まちがいなく、この二つの時間、即ち、極大化へ向かう時間と極小化へ向かう時間の間にゆれ動き、その時間のたわむれをみつめて、引き裂かれ、または、立ち往生している。これこそが、「自由」を覆うベールであり、二つの時間をもつことで、「いま」、「ここ」でという時間と空間の根拠を喪失しているのである。それは心と体、時間と空間が交錯し、その組み合わせが幾通りもの心の襞を織りなしていることだ。この場合、推測できることは、世界がもはや概念としての概念によってではなく、「像」=イメージが「肉体」そのものに、直接、同化することによってしか自己表現を許されない、いわば、思想言語を、考える肉体として肉離れしているとでも呼ぶほかない実質に表現を転移させている事実である。逆の言い方をすれば、概念は「肉体」言語としてしか機能しえなくなっているから、現在の深い陥没が概念としての概念を停滞感に引きずり込むのは当然なのである。
西尾維新は推理小説の中にある思想を組み込んでいる。『きみとぼくの壊れた世界』を読むと、既に文学の方では世界は幾重にも壊われていることがよくわかる。まず、主人公の「僕」はいかにも饒舌で、自分自身をよく意識化しているのだが、別の言葉でいえば、自己の観念に忠実である。彼は、一見、どこにでもいるような高校三年生でありながら、それでいて稀有ということが境界線なくまじりあっているから、突然の契機さえなければ猟奇の影に肩を押されることもないだろう。つまり、どこでもいそうで、どこにもいない、そんな主人公として設定されている。そして、この高校生の周辺にはりめぐらされた恋愛や友情関係が軸となって、他者との間にかわされる生活と意識の糸が、あらすじの展開とともに、より大きなうねりとなってあらわれる。
この主人公には、はじめから相反する意識があった。「僕」は妹、夜月との間に擬似近親相姦的な関係意識を遊んでいる。その一方で、シニカルでどこか遠くを見ているような、自分が世界と関係していないのではないかという、とり残された関係の異和感も感じている。この相反する意識は、どちらが先行するでもなく、妹との愛情関係と世界との異和感とが同居している。そのかすかな揺れ動きの中に、作者のテーマのすべてが流れているとしかおもえない。そんな作者は次のように意識している。
≪不安、恐怖。自分は世界と関係ないのかもしれない、という不安。自分は殺されるかもしれない、という恐怖。それぞれ、病院坂黒猫、琴原りりすから口にされた台詞だが、案外、この二つは似通った要素を含んでいるのかもしれない。≫『きみとぼくの壊れた世界』 西尾維新著
いうまでもなく、この場面において世界と無関係かもしれないという不安と、誰かに殺されるかもしれないという恐怖の二面性が紙一重であるのは特異なことである。わたしの理解では、不安とは時間に対して空間意識の過剰を意味し、恐怖とは空間に対しての時間意識の過剰を意味する。つまり、それぞれ自己に対する関係意識の余剰をあやつりながらも、そのような異変が共存している点が注目されるのである。時間性とは、僕、妹、友達、恋人らそれぞれの顔がちがうようにもっている各自の堆積された経験の総体を指し、空間性とは主人公をめぐる彼らとの関係それ自体を示している。だから、この場合、時間は各人によって経験の蓄積の大小であらわされることもできる。そして、過剰としての時間は、空間を折りたたむように時間化し、登場人物がそれぞれ任意の匿名性にかえがたい思想をもってあらわれてくる。逆に、時間の空間化とは、任意の関係に置き換えられる思想を主人公がもっていることをあらわしている。この主人公に特異なのは、その両面を双方向に「同時」に別の時間性として意識にのぼらせていることなのだ。こうして作者は、主人公とともに、天空から世界を見わたしているように饒舌になっているのだが、その世界はまるで球体の中心から周りを見るような安易さでお喋りしていることに気づく素振りはない。
そんなところへ妹にちょっかいをだした同じクラスの男子生徒との確執がはじまり、やがて、その男子生徒の殺人事件にまで発展する。そこで、擬似近親相姦的関係は、殺人事件をつうじて、自分は殺されるかもしれないし、殺すかもしれないという濃密な関係に移り変わる。ただし、今まで同居していた相反する気持ちにさざなみがおきるが、それとて、作者からすれば、殺人事件がそういうさざなみをおこす契機でさえあればよかった。なぜなら、それから、だらだらと推理小説らしく、「僕」の恋人とも親友ともとれない保健室生徒の病院坂黒猫の口を借りて、犯人探しの種明かしがおこなわれるからだ。
結局は、「僕」と同じクラスの剣道部の親友と恋人の琴原りりすの二人が犯人ということになるが、それも単なる物語の風景であり、あくまで、特別、波立った事態ではない。ここでは殺人事件でさえ、日常の生活の一齣を覆うような大それた価値をもっておらず、主人公の意識のより奥にある不安感の所在を指し示すものでしかない。作者は二つの相反する意識をみつめることができる視線をもっているゆえに、殺人事件はこうして日常生活に組み込まれていく。しかし、「僕」は理性的であることを誇りに思って最大の能力を発揮しているが、現実は綻びから破滅に向かっていく。そして、まちがいなく確実に、喪失感や不安感の傷痕だけが残るのだ。
わたしには、この主人公の落ち込んでいるのは、いわば、空間の時間化と時間の空間化とを、考える肉体が「同時」にやってのけている場所のようにおもえる。これは、アナーキーとニヒルとが同居する場所ともいえるものであり、いわば、作者は現実でも理想でもないところから世界をみていることになる。わたしは、この主人公の背景には、多くのリストカッターやオーバードーズ依存症の人たちがみえ隠れしているようにおもえる。リストカッターの人たちにはどんな心の振幅があるのだろうか。
≪人はあまりにもショックな状況に慢性的にさらされると、目の前の現実を受け入れないように脳が働き、現実と異なる“べつの人格や記憶”を自分の中に作ろうとするらしい。現実とは違うニセの記憶を自動的に脳に入力してしまうのだ。…中略…これが「解離」。元の人格を「主人格」といい、<ウソ人格>は「二次的人格状態」と呼ばれたりもする。…中略…結局は、自発性(「~したい」という気持ち)のままに切ったり、やめたりしている点が重要だろう。切りたいから切る。見つかりたくないから、こっそり切る。怖いから切りたくない。別に切りたくなくなったから切らなくなった。家族への期待値を下げたら切りたいという気持ちが薄らいだ。自傷は、手近な依存対象(血、薬など)を消費することで、自分自身の<自発的な関心>に自分で「鍵」をかけている行為なのだ。≫『生きちゃってるし、死なないし』 今一生著
そして著者は、リストカッターは自分の十字架と一緒に他人の無関心という罪の十字架をも背負う二重のプレッシャーを受けるとする。しかし、わたしにはこれは二重のプレッシャーではなく、表裏の関係にあるとおもえる。ひとつは自己の希薄になった存在感から逃れて、自己確認しようとする行為である。もうひとつは、本来は他者に向けられるべき暴力(傷害行為)を自分に向けることで、あくまで、自己を抑制しているのである。つまり、ひとつの行為の中で相矛盾するものを同時におこなっており、自己確認と自己抑制を同時におこなっているのだ。ここでも注目すべきは、アナーキーとニヒルが「同時」に行われていることだ。これはアクセルとブレーキを同時に踏んでいるに等しい。特に、対象が自分になるか近親者のちがいはあるものの、親子、肉親間の殺人事件なども、おそらく同一の心的な構造をもっているにちがいない。
時代は滑走を終えて行きつくところまできたという感慨は、いま、あらためて、わたしたちを強く魅惑する。3.11前にはみえなかった稜線がおぼろげに姿をあらわしつつあるからだ。ただし、その感慨が復古的なメロディや無力感を伴走させたりすることは決して許されないのだ。わたしたちは、わたしたちの生活が逼迫しながらも、それが、もはや観念としてしか表現できなくなった例示を、ネット世界の繁盛に象徴させることができる。これほどまで社会そのものと社会認識の異和が落差にまで広がった時代は、かつてわが国の近代史上において戦争期を除いてはなかった。どちらにしても「像」=イメージや言語は意味を解体し、ただシステム価値としてだけで機能している。
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