海老坂武・著『戦後文学は生きている』講談社現代新書
戦後文学の名著からは、人間のせつない声が聞こえてくる。人生に真剣に向きあう姿も見えてくる。1945年、小学5年生だった著者の海老坂武氏は、長じて読書したその感想に現在の考えを添えながら20編を紹介する。それらはけっして過去のものではない。著者のすぐれた解読により今に訴え、語りかけてくるのだ。
原爆投下後、一命をとりとめた原民喜が、廃墟のあいだをさまよい歩く。一瞬、自分が生きていることに驚く。目の前で人が死んでいくその惨劇を書きとめた『夏の花』(1947年)。姥捨てという非情な世界を描いているのに優しさが漂う、深沢七郎の『楢山節考』(1956年)。帰属なき個人を主人公にした安部公房の『砂の女』(1962年)。大きな文学宇宙のなかに謎解きをせまる大江健三郎の『万延元年のフットボール』(1967年)など。
20編からは、戦後の風景が立ちのぼってくる。文学作品は社会や時代とのかかわりから
生まれるものだが、著者はプロットを説きつつ、作品たちを現代社会のなかに置いてみる。そして、そこから得た著者の結論にじっと心耳を澄ませば、20編はいっそう感動的に思えてくるのである。
永山則夫の『無知の涙』(1971年)。永山は、20人の作家のうち1人戦後生まれだ。19歳のとき4人を射殺した。少年少女の労働力が金の卵といわれた時代のこと。学校に満足に行けず書物とは無縁であった永山は、拘置所で猛スピードで勉強する。自分がこうなったのは、貧乏ゆえの無知によるのだと気づくのだった。この世への怒り、肉親への憎しみ、死への恐怖、愛の夢想をノートにつづり、1冊にまとまる。
永山の法廷での叫びに強烈な衝撃をうけていた著者は、永山がみごとな表現形式を獲得したことに驚嘆する。永山は詩も書くが、小説というかたちで長い「宛名もない手紙」を書きつづけた。それは、自分の人生をとりもどそうとした永山の自己回復の作業であったともいう。
そして、著者は結ぶのである。今でも「手紙」は世の中をぐるぐる回っている。今後も、自分の孤独をみつめ、世の中に怒りを覚える人がいるかぎりはなくならない、永山作品は生きているのだ、と。
(「信濃毎日新聞」2012年11月18日付より転載)
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