わたしは3.11の東日本大震災の前後で戦後史を塗り替える必要があるとおもう。ここにきて、ようやく、わが国の戦後が到達した世界像について、3.11の後からみればどう見えるかということが課題になったとおもえるからだ。そのような課題がうまれるには、たくさんの材料がおもいだされる。電気のこない冷却システム、放射線で体内被曝する作業員、爆発の鎮火のため出動するヘリコプターの放水、人が入れない瓦礫の山をくぐりぬけるロボットの活躍、電気のとおらない避難所暮らし、ロウソクの火の節電要請etc。政府や東京電力に言わせれば、地震や大津波とおなじく、これらの場面は「想定外」だったのかもしれない。
だが、わたしたち人間が自然の猛威を前に、原始人のようにひれ伏したりさえしなければ、反対に、これら以外のわたしたちがつくったものすべてが「想定外」だったことを証明するものだ。作られたシステムは完璧だったというおもいは、人間の意のままに動かないシステムへの怒りをさそいだすばかりか、結局、プログラミングではなく、人間の生身の「肉体」をとおしてしか元どおりに戻らない悔恨につながっている。ロボットが人工頭脳をもって、人間に抗いはじめたかのようなSF映画程度の無意識しかないものだから、システムの内側がほんとうで、外側が偽物のようにおもえて、システムは電源を切られたらおしまいだということさえわからなくなる。福島原発事故後の放射能汚染で主にテレビが映し出す農家、漁民を見ていると、東北には第一次産業以外ないのかとおもわせるが、これも日頃、システムの陰に隠れている社会の生地が綻びのあいだから露出した証拠である。
この東日本大震災に対する問題提起にはいろいろな角度があり、地震や津波によって寸断されたのはどんなシステムかという点も論者によってさまざまなのだが、論者がそれぞれ日頃追いかけている論点の延長上でつかまえているニュアンスは伝わってくる。中沢新一ならおそらくこういうだろうな、と予想していたら、案の定という具合である。中沢の主張を一言でつづめると、今回の大震災と原発事故は、文明社会が根底からゆさぶられた事態であり、肝心なのは、元どおりに復旧させることではなく、新しい文明への転換のきっかけにしなければならないというものだ。わたしも中沢のこの意見にほぼ賛同する。ただし、彼が新しい文明という言い方をしている背景には独自の文明史観があって、「エネルゴジー(エネルギー存在論)」への問いかけが含まれているのだが、技術的問題から社会的問題への架橋の仕方については十分に検証されなければならないとおもう。
彼の提出したエネルギー存在論は、いまから約46億年前、太陽が形成する過程で地球が誕生するところからはじまる。そのときからウランは地球上に存在していたが、自然の力では濃縮されることなく臨界に達することもなかった。それから約25億年~20億年前になってから、地球に光合成をおこなう藻が発生するようになり、吐き出された酸素と結合し、濃縮ウランは臨界に達するレベルまで上がり、天然の原子炉がつくられる条件が整った。つまり、地球誕生の秘話までたどりつくと、原子の灯は太古にすでに存在していたことになる。中沢がいう原子力とコンピュータの時代と称するエネルギーの第七次革命の中身は、この太陽エネルギーの中に含まれていた原子炉から取り出したイミテーションにほかならないということだ。
中沢は、この太陽エネルギーの出所について、「媒介」と「無媒介」という差別を設けている。「媒介」というのは、石油や石炭に代表される燃料が、太陽エネルギーを浴びた植物やプランクトンの死骸が長い年月をかけ、生態系によって分解され、炭化されてできあがるプロセスを指している。つまり、石油や石炭は、同じ太陽エネルギーに由来しているにしても、それが植物やプランクトンの発生になり、その死骸が堆積するあいだに生態圏において何重にも「媒介」されてはじめて化石燃料になったのである。それにひきかえ、原子炉内の核分裂連鎖反応によってエネルギーをみちびく方法は、太陽の核反応過程そのものを、外部から生態圏の内部に、直接、「無媒介」に取り込んだものである。したがって、原子力発電は石油や石炭を利用した発電方法と根本的に異なっている。ここで、中沢が科学技術論の範囲で「媒介」という言葉と同じようにこだわっているのは、生態圏の内部か外部かという点である。このニュアンスは、映画の一光景さながらヘリコプターが海水を汲んで、建屋に放水している「肉体」のチグハグな光景の原因がどこにあったかを教えてくれる。多くの人たちが、原子核反応に対応するにはあまりに原始的な方法に唖然とした感想をもったことの説明をしてくれるものだ。
さらに、中沢は外部の思想が現代社会を象徴するという観点から、自然宗教からユダヤの一神教への転位、さらに一神教から貨幣の出現をへて市場経済が生まれ資本主義まで伸びていく軌跡が、ほとんど「超越的思考」によって推進されたということに着目した。つまり、原子炉の思想の背後を資本主義の内在システムが支え、また、その後ろには市場経済が控え、そのまた後ろには貨幣や一神教が折りたたまれて隠されており、ついには、歴史観の最後として初源の生態圏的自然思想が人間的な台座を占めるべきものになっている。
≪一神教が思考の生態圏に「外部」を持ち込んだやり方は、原子核技術が物質的現実の生態圏にほんらいそこに所属しない太陽圏の現象を持ち込んだやり方と、きわめてよく似ている。思考の型として、まったく同型である。一神教出現以前の人類の宗教は、生態圏の閾域の内部でおこなわれてきたが、一神教の出現とともに、そこに生態圏に所属しない神が組み込まれることによって、人類の宗教には不安定が持ち込まれた。≫『日本の大転換』 中沢新一著
中沢の意に反するかもしれないから、ここでは「自然」か「文明」かという二者択一のあてこみはしないことにしよう。たしかに、彼はエネルギー存在論の結論で、太陽光を利用した光合成を人工的につくる太陽光発電の技術開発がもっとも生態圏に適したものとし、矛盾なく「自然」と「文明」の調和ができると主張しているからだ。だが、この本でとりあげられているポランニーの市場経済批判と同じ論法をとるなら、「文明」や資本主義を規制し、制御する幅広い「社会」の原型が理想として掲げられているのは明らかである。この理想について、いままで中沢は、北米インディアンのポトラッチ、南米の神話の中に棲息する半獣半人の神話、オーストラリアのアボリジニの慣習、チベット密教僧の頭の中で組み立てられた渦巻状の「気」や鳥の言葉が理解できるブッダや神道などをとおして、さまざまなイメージをつないできた。それは母胎回帰に似た世界の横断におもえるのだが、その劇画めいた内容をしっかりした文体に翻訳した魅力はあるものの、わたしたちには、それらの神話的な共同性の親和力や共感に対するある種の違和感をぬぐえなかった。それを差し引いても、技術史観を社会変革論につなぐ手際は、原子力の専門家といわれる人たちの自戒や啓発くらいには役立つとおもえるが、すでにいやというほど資本主義や貨幣の自由さも不自由さの洗礼を浴び、頭の中にインプットされているわたしたちからすれば、時間の間尺があまりに大きすぎると言わざるを得ない。
というより、中沢は、地震、津波と原発事故を区別して、地震、津波は生態圏の治癒力で回復できると楽観しているのだが、いくら時間の間尺を長くとっても、身内を亡くした被災民の心の芯にとどくには、どちらも同じくらい難しく感じられる。なぜなら、地震と津波の被災民に対する直接的な救援の方法も旧態依然のものであって、社会的・政治的機能がまるで発揮されていない上、被災民が陥っている就職難や生活難を回復する手立ては、現在のわが国の経済全体を覆っている停滞感以上のものを映していないからだ。その点で、被災しても被災しなくても等価で演じられる悲劇こそ、被災民にとって一層息苦しいものと想像する。
わたしは今度の大震災は、敗戦時の被害とは同一平面で比べられないとおもう。敗戦時は資本制自体が試された試練であったのだが、今回は、資本制以後の世界像が試される節目だとおもっているからだ。つまり、商品の欠如が問題ではなく、ありあまる商品の欠如の問題だとおもっている。ありあまりながら偏在する商品がつくられるというシステムダウンが震災後の混乱をひきおこしたと考えるべきなのである。その後の政府の情報開示、情報統制のゴタゴタは、ただ、大元にあった原発推進派と官僚機構のプログラムミスの象徴でしかない。つまり、どこにもありながらどこにもないような高度消費社会、高度情報化社会というシステム社会の破綻を示す以外ではないのである。そのような観点は、単に、脱原発の政治的スローガンにまぎれさせるものではなく、本格的な論議に導かなければならないとおもえる。3.11であらわになったのは戦後史の到達点であり、その意味で、これから3.11後の目で見た戦後史を検証してみたいと考えている。
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