書評『若き日の日野啓三―昭和二十年代の文業』山内祥史・著 和泉書院・刊

 どのような文学的プロセスを経て、作家・評論家は誕生するのだろうか。文芸評論家としてデビューし、のちに小説家として活躍した日野啓三について、著者、山内祥史氏は、その経過をたんねんに追跡している。本書では、日野啓三の昭和23年の出発点から昭和29年までの「文業」を、書誌的な領域から掘りおこして、その作品群を読解する。著者の誠実な文章は、日野啓三の文学をあざやかに浮上させていて、おもしろい。たしかに、日野啓三の「興奮」の20代は、光り輝いてるようだ。
 著者が日野啓三の文学に親しむようになったのは、昭和30年代半ばのこと。日野啓三の昭和20年代の業績についてはほとんど知らなかったという。文学関係者にもあまり知られていないだろうそれを、将来の研究者のために調べておこうと、著者は思いたち探索をスタートさせたのだった。
 日野啓三が晩年、がんという病をかかえながら執筆した小説集『聖岩』など何編か、わたしも、信濃毎日新聞で書評している。このたび山内氏の著書を読んで、あらためて、日野啓三の文学精神に触れ、その意欲的な姿勢と、さらに人間的な魅力もおぼえたのである。
 日野啓三は、1929(昭和4)年に生まれ、2002(平成14)年に他界している。 
敗戦後、朝鮮の京城から父親の郷里、広島に引き揚げた。地元の府中中学に転入し、卒業後、一高入学のため上京。1949(昭和24)年には東大に進学し、1952(昭和2
7)年に卒業している。
 どの作家・評論家にも、過去をたぐれば、文学へのめざめがあるはずだ。日野啓三にそのきっかけをもたらしたのが、じつは文芸評論家の荒正人であった、と知って、わたしはおどろいた。日野啓三が「ものの見方、考え方、生き方」を学んだのが荒正人だったとは、想像していなかったから。先輩や後輩との出会いと交流。そのなかで作家や評論家は成長していくのであろう。詩人の大岡信との出会いと交流についても著者は書いていて、意外な思いに打たれた。
 日野啓三は一高時代、ぐうぜん講演会に出かける。講師の荒正人という名前も、「近代文学」という誌名も知らなかった。荒正人34歳、日野啓三18歳だった。荒はその講演会で、エゴイズムとニヒリズムについて熱っぽく語った。「それまで後めたく後暗くどうしようもないものとして、ひとり自分の心の中に押しかくしていた黒々としたものがそれこそ新しいヒューマニズムの原基」だと。この講演会終了後のつどいで、日野啓三は、講師の荒に質問を浴びせた。「よかったら家に遊びに来給え」荒は真摯に、日野啓三に応えてきたのだ。
 それを機に、日野啓三は、荒の家に出入りする。荒はドストエフスキーの研究会を開いてくれ参加した。さらに、荒のアシスタントをつとめて給料を受けとった。文学辞典の下請けの原稿も書かせてもらった。荒が所属する近代文学社の事務局の手伝いもした。
「日野さん、あなたは学校で作文というものを書いたことがないんですか」荒からどなられた。その「みじめな思い」が自分にとって「唯一の文学教育」であったと、日野啓三は回想しているという。
 師の荒正人から日野啓三が学んだもの。それは、様々なものの価値と意味とを、本源的かつ主体的に問い直す、その内的必然の源泉ということになろうか。このように著者は指摘している。また、著者はこうも書く。「ぼくらがぼくらの眼でぼくら自身の周囲をみまわ」し「そこで明らかにみたことをぼくらの能力に応じて確実に実行にうつすこと」これこそ日野啓三の文学の核心となる基本姿勢だ、と。
 日野啓三は、「向陵時報」から「近代文学」「現代文学」とかかわり、作品を発表していく。そして「虚点という地点―荒正人論」で、新鋭評論家としてデビューを果たすのであった。東大を卒業した年の12月号「文学界」においてだ。すでに、日野啓三は読売新聞社に勤務していた。
 昭和20年代の日野啓三の「創造する精神」と「打開する心」は、鮮烈だ。後進国としての日本の過渡期にあって、知識人としてどのように生きたらよいか。どのように描いて現代小説を成立させたらよいか。日野啓三は苦闘している。
 日野作品をあらためて読んでみたいと、わたしはおもう。この時期の「文業」と照らしつつ晩年の小説群を読んでみるのも、日野文学にアプローチするよき手がかりになるであろう。
 本書には日野啓三の昭和20年代の「文業」がくわしく書かれていた。著者は、第5章には「日野啓三の著書」を、第6章にも「日野啓三創作一覧稿」という研究成果を付している。

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