書評:戦中世代への熱い共感。村永大和『玉城徹のうた百首』

 「立ちあがり野ばらの花を去らむとき老いのいのちのたゆたふあはれ」。玉城徹は、野バラに感応しつつ何を語りかけているのだろう。

 玉城徹の8つの歌集から、村永大和氏が、100首を抜すいし解読する。冒頭の歌は、初句と三句が強く響きあう。その響きを四句が受けとめる。それらすべてが結句に注ぎこまれる。「たゆたふ」は心が動揺しためらうこと。老いのいのちは、野バラによってさえたゆたい、そして静かに心満たされているのだと。著者にこのように明かされると、難解な歌うたも読者のハートに迫ってくる。

 わたしは100首を朗読してみた。ことばの組み立てへの熟慮によるのか、心地よいリズムを感じた。また9首に白色が用いられていることに気づいた。その冷たさからは、悲哀が伝わってくる。歌人の自律のたたずまいも。

 著者は、関連の画集や文学書、玉城徹自身の解説書や波乱の経歴を紹介しては、彼の40年にわたる創作活動を批評する。さらに、生の軌跡も浮上させる。

 「ふれあひて鳴る骨の音夕ぞらにみちわたりけり騒(さわが)しきまで」。触れあった骨の音が空に鳴っているという。なんと、多くの想像をかきたてる歌であろうか。著者は説く、玉城徹は自分から離れた世界を作ろうと意図したと。玉城短歌は、われを詠む近代短歌のありように反省をうながすもので、島木赤彦のような生活体験をもとにした感情移入の歌の対極をなすとも。彼の卓抜した発想は、近代の知性と独特の感性によるものだとも。

 「かたくなに拒みて夜半を坐るとき流れはじめたり音楽われは」。本来の自分らしくない言動をこばみとおして、夜半にいたってやっと十全な感覚体としての自分をとりもどしたという。現代の複雑なシステム社会にあって、人たちは本当の自分を出しにくくなっている。しかし玉城徹は努めて、自身の感覚を研ぎ澄ましているのだと思う。視覚、嗅覚、聴覚、触覚のなかでも、ことに耳の鋭さが印象ふかい。

 戦中派世代の玉城徹が心の傷に耐えて生きる、その孤独で内的なたたかい。それへの著者の熱い共感。それが、玉城徹の歌たちをつらぬく、豊かな叙情と強い精神とを、解明してみせたのである。

 村永大和著『玉城徹のうた百首』角川学芸出版発行/角川書店発売

(「信濃毎日新聞」2006年2月26日付より許可を得て転載)

           

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