書評:長浜功著『「啄木日記」公刊過程の真相―知られざる裏面の検証』   

「オレが死んだら日記は必ず焼いてくれ」。石川啄木は親友に託して1912年に他界している。しかし日記の焼却は遠のき、戦後、娘の夫によって公刊されるのであった。
 著者の長浜功氏は、それまでの波瀾万丈の過程をじつに丹念にたどっている。その研究成果を通読すれば、おもしろい人間ドラマが浮上する。啄木の26年の貧困と苦悩の生涯もあざやかなのだ。啄木は日記に取材しながら短編小説を書いたが、それは執念の日記よりも劣ると、著者はいう。啄木日記は筑摩書房の『石川啄木全集』で読むことができ、啄木文学の形成過程と軌跡が明らかになり、その研究をさらに前進させてきた。
 啄木が死ぬと、妻も翌年に他界した。「明治四十四年当用日記」のみ親族に残され、あとは函館図書館に保管されていた。日記の存在は、啄木を守ろうとした金田一京助、土岐哀果などが知るだけで秘密であったのに、日記の一部が1931年に公にされた。存在がリークされると、その全容を知りたいとの機運が高まり、娘の夫の専断で公刊されたが、石川正雄は、その功労者であるいっぽうで、日記原本から切りとって啄木の直筆をほしがる第三者へ譲渡する背信行為におよんでいる。収入のとだえたゆえの窮余の一策であったらしい。
 日記はほかにも欠落部分がある。ひとつには、妻が読んで自分だけが悪者にされるのはいやだと怒って、ひき裂いたのではないか。著者の推理はたくましくはたらく。著者はまた、
 新たな資料を駆使しながら検証をかさねる。欠落ページは、2010年にも古書店で見つかっている。だれがいつ、どのようにして、著者のなぞ解きには熱がこもる。
 最終章の「石川正雄論」は、とりわけ感銘ふかかった。正雄は義父、啄木の重荷が背負いきれなかった。啄木の孫は、日記があるかぎり親族はそのしがらみからぬけだせないと、日記を寄託したという。短歌、詩、評論などの文学的業績の裏面にくりひろげられた、啄木没後のうちわの人生ドラマも、興味ふかかった。

長浜功著『「啄木日記」公刊過程の真相―しられざる裏面の記録』社会評論社刊
(「信濃毎日新聞」2014年5月18日付より許可を得て転載)       

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