「まなかいをかすめて/青く吹きわたる風の/その根は/そちらにわたらないと/視えはしない」。このような詩句をふくむ、46編の詩文集からは、悲しみがそくそくと伝わってくる。それが過ぎると怒りの心情が。著者の「際限もなくあさましい現在」への怒りははげしい。
著者の辺見庸氏は、最近のエッセー「水の透視画法」のなかに、青い花の青さには清冽にすぎるような「危うい気配」もないではないと書く。詩文集にはオレンジ色もでてくるが、ブルー系の色がじつに多い。「危うい気配」は、身を低くした人にして感じとれるもの。「音もなく近づいている災厄」、これを想えば、どきりとする。詩群からは怖さもまた、漂ってくるのだ。
しかし「電車は満目ヒマワリの群落を黄色いしぶきを浴びながらゆっくりとはしっていた」とあり、詩人の感覚は全開する。読み手の心身もひろがり青空にぬけていく。遠い記憶がよびさまされるようである。
とりわけ「挨拶」が、わたしには感銘ふかかった。小説もエッセーも評論も書く人ならではの、詩の厚みを思った。1944年生まれの著者の生きる姿勢がにじみでてもいる。36年まえの「夜陰の底の歴史」に着眼しつつ、現在の「底なしの偽善」を撃つ。革命幻想という「虹のイメージ」をいま「いったいだれがおのれの躰で引きうけるのか」。ひとつのできごとを「あくまでひとつの比類ない悲劇とし、こだわりぬくこと」。一般概念化するとき、もう嘘と裏切りがはじまっているというのだ。
著者は、わたしたちの、記憶殺し、言葉の身体との隔たり、言葉の魂とのかい離を指摘する。人たちが言葉を無化することに悲嘆する。かけがえのない言葉による表現への、著者の切望はふかい。だが、ここで注意すべきは、著者が「すさみだけの時」を傍観してはいないことだ。身をしゃがみこませつつ自分にも言い聞かせている。見るだけでなく、見られる意識をもつ。自身を律する個人のその緊張感が、辺見文学の魅力のひとつなのではないか。
詩文は読み手に想像力をかきたててくるものだが、努めて想像することでさらに、見えてくるものがあるはずだ。
(「信濃毎日新聞」2010年8月29日付より転載)
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