最新の「毛沢東伝」を読んで

――八ヶ岳山麓から(457)

 毛沢東(1893~1966)の経歴は複雑である。
 1922年、彼は共産党結成に参加した。国民党との闘争と協力をめぐって党内で浮沈を重ねながらも、コミンテルンの支持をえて党指導部の一人となる。1927年4月蒋介石による反共クーデターが起きると井崗山に逃げ込み、31年に瑞金に移動した。のちに中共中央もここに避難したが、国民党軍に追い詰められ、西北への逃亡を図る。いわゆる「長征」である。
 北上の途中、貴州省順義で紅軍(共産党軍)の指揮権を奪取し、陝西省北部延安に達した。のち革命根拠地において1942年「延安整風」(党内再教育運動)を発動して党内のソ連帰国派を追い落し最高権力を握った。しかも中国の「救いの星」として崇拝されるように党を誘導し、「毛沢東思想」を絶対のものとした。

 興梠一郎氏の近著『毛沢東 革命と独裁の原点』(中央公論社 2023・12)は、何が毛沢東を共産主義者にし、皇帝の地位に登らせたか、その原点を明らかにしたものである。
 本書の帯に「建国の父・毛沢東にとっての共産主義は、究極の『選択』だった。しかし、たとえ『救国』のためであっても、民主主義の理想をかなぐり捨てて暴力革命を選んだツケを、中国は今日まで払い続けている」とある。
 若き日の毛沢東は曲りなりではあるが、「ブルジョア民主主義者」だった。
 毛沢東は1920年まで故郷湖南省自治運動を通して民主政治を実現しようと奮闘努力した。だがそれは結局軍閥の力に勝てなかった。この経過は本書に詳しいが、わたしにはこれを要約して記す力がない。
 1920年末彼は大衆運動のゆきづまりから「革命」を期待するようになり、共産主義に近づいた。当時、毛沢東は北京の友人にあてて「中国の悪い空気はあまりにも深い。我々が勢いのある新しい空気を作ってこそ転換できる。そのような新しい空気は、一生懸命頑張る人が必要であり、特に全員がともに信奉する『主義』が必要である」と書いている。
 著者興梠氏は「ここでいう『主義』とはロシア流の共産主義のことだろう。彼はこの頃、陳独秀の呼びかけに応じ、社会主義青年団だけでなく、共産党組織の設立準備に取り掛かっていた可能性がある」という。
 フランスにいて、毛沢東よりも早くにロシア流共産主義に心酔していたのは、蔡和森(1895~1931)である。蔡は毛沢東に手紙を送り、「最近、各種の主義を総合的かつ詳細に考察して感じたことは、社会主義こそが真に世界を改造する治療法であり、中国もその例外ではないということだ。社会主義に必要な方法は、階級戦争―無産階級独裁。いまの世界は、革命こそが唯一の勝利を制する方法だ」と書いた。
 毛沢東は蔡和森のこの主張に深く賛同した。

 わたしは本書を読みながら、習近平政権の今日、中国で毛沢東思想の原点を探る著作が許されるだろうかと思わずにはいられなかった。胡錦涛政権時代はある程度は毛沢東批判ができた。当局から「最高の歴史教師」に選ばれた袁騰飛という若い高校教師がネット上の講義番組「十年文革」の中で、こう発言した。
 「毛沢東の自然科学の水準は小学4年生くらい。こんな程度の知識で国家を治めたらめちゃめちゃになるのは当然だ」、「彼が一番好きだったのは『資治通鑑』だ。『資治通鑑』から人をやっつけ陰謀をたくらむことをたくさん学んだ」
 ネット上では、袁騰飛支持がかなりあったが、中共中央がこれを放っておくわけなく、毛沢東批判の行き過ぎ=歴史ニヒリズムを正す論文を発表した。
 しかし、袁騰飛よりもまともな毛沢東批判もあった。杜導正(1923~?)の論文「新民主主義への回帰と発展」である(雑誌「炎黄春秋」2009・04)。杜はこういった。
 「毛沢東は1944年に中国に最も欠けているのは民主だ、いま最も必要なのは民主だ、民主があって初めて抗日戦に勝利できる、いい国家をつくるためにはやはり民主が必要だ、と説いていたのに、全国執政の地位にのぼると、自分の空想的社会主義を追求し、意見が異なる人々をほしいままに叩いた。どうしてこんなことができたのか。これこそ政治体制の問題だ。彼を制約する政治体制がなかったからだ」
 杜は毛沢東が権力を握ってから変わったというが、それは歴史事実と異なる。
 『中国の赤い星』で知られたジャーナリスト、エドガー・スノーは文化大革命のさなかに毛沢東と会談し、毛が皇帝の地位にあることを自覚しているのを知って、以後中国を訪問することはなかった。
 だが、習近平政権のいまとなっては、毛沢東思想なるものの評価の試みをだれができようか。

 陳独秀(1879~1942)は、1921年コミンテルンから派遣されたヴォイチンスキーや李大釗など共に中国共産党を結成して初代総書記となった人物である。毛沢東は彼とともに活動し、大きな影響を受けた。陳独秀はのちにスターリンの中国政策とそれによる干渉に嫌気がさしてロシア共産主義に失望し、トロツキズムに近づき、共産党から除名され、中国革命を知ることなくこの世を去った。
 晩年友人にあてた手紙につぎのように書いた。興梠氏の引用は氏自身の考えを率直に示していると思う。それを要約して記す。

 スターリンの罪悪の中で、ソ連の十月革命以来の秘密の政治警察大権、党外に党がない、党内に派閥がない、思想、ストライキ、選挙自由を許さないといった一連の反民主的な独裁性が原因で発生しなかったものがあるのか?
 民主制を復活させなければ、スターリンの次に台頭する者は、誰であっても「独裁魔王」になることは免れない。……スターリンが倒れても、無数のスターリンがロシアや他国から生まれてくる。
 十月革命以後のソビエトロシアでは、明らかに独裁制がスターリンを生んだのであり、スターリンがいたから独裁制が生まれたのではない。
 レーニンは当時、「民主は官僚制に対する抗毒素」と気付いていたが、秘密警察の廃止、野党の公開の存在、思想、出版、ストライキ、選挙の自由の許可といった民主制を真剣に採用しようとはしなかった。

 歴史の経過を見れば、レーニンの民主主義軽視がその後ソ連・東欧の陰惨と貧困を生んだことは明らかだ。スターリンを毛沢東に、ソ連を中国に置き換えることは容易であろう。さらに陳独秀の筆力は今日の共産主義運動における官僚専制体制をも貫いている。それは偶然ではない。

 毛沢東が共産主義者になってからの記録と人物評は、数えきれないほどある。本書のように、若き毛沢東の思想転の全体像を明らかにした著作は、わたしにとっては初めてであった。
 興梠氏は「あとがき」で、「本書を書き始めたのは、前世紀の1990年代である。かれこれ30年になる」と記している。本書は膨大な 資料を駆使した精密な分析を通して毛沢東という存在の起源を明らかにしている。その辛苦は報われたと思う。 (2024・01・06)

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