有賀喜代子―わたしの気になる人⑪

 朝のラジオから、心理カウンセラー、内田良子さんの声が流れてきた。NHKの子ども教育相談の番組で聞きなれた声だ。2006(平成18)年11月のこと。同局の日曜討論で内田良子は、文部科学大臣をむこうに、子どもたちのいじめの実態を調査する第三者機関の設置をうったえた。子どものがわに立つ内田発言は親身だ。教員も教育委員会も保身のため真実を隠している。事態は深刻化するばかりなのに、など思っていると、わが脳裏に、内田の母で作家の有賀喜代子(あるが・きよこ)がわたしの取材にこたえて語ったエピソードが浮上してきたのだった。有賀喜代子は、49歳のとき第1回「婦人公論」女流新人賞を受賞している。
 長男が、おばからもらった12色のクレヨンを、同級生にポキンと折って川に投げすてられた。転入生の長男は、村の子どもたちとちがい標準語をつかい、洋服を着ている。さらに、雪のなかに埋められた。雪まみれで下校した長男の姿をみて、母親の怒りは頂点に達する。いのちの危険を感じて喜代子は学校にのりこんだ。校長は、〈ニワトリも慣れないうちはおじけづいて、同級生にうまく溶けこめんのでしょ〉といって、お茶をにごそうとする。〈ここはニワトリ小屋ですか。先生たちは、ニワトリに勉強を教えているのですか〉職員室の教員たちをむこうに、喜代子はタンカを切ったというのだ。教員たちの反応はふた手にわかれた。共感派からは、村会議員か婦人会長に出てくれと請われる。
 1946(昭和21)年のこのエピソードこそ、有賀喜代子の面目躍如たる場面にちがいない。有賀文学をつらぬく義憤も伝えている。

 1909(明治42)年11月21日、喜代子は、東京日本橋に生まれる。3人姉妹の末子だった。父は問屋街に開業する医師で、20人の使用人をかかえていた。能楽をたしなむ風雅の人でもあった。母は短歌を詠んだ。若いころ御殿女中をしていたせいか物言いがていねいであった。喜代子が17歳のとき他界している。 
 幼少のころ遊びから家にもどると、喜代子はとつぜん結核を発症した。食卓には豪華なステーキがつく。家族には大切にされ、使用人にもかわいがられる。室内にこもりがちになり、夏目漱石や森鷗外や島崎藤村や志賀直哉などの文学作品に親しむ。田山花袋は、師が女弟子の蒲団にうずくまって泣くなぞ描いて、おじんくさくていやらしいと思う。
 良家の子女が作家を夢みるのは、10代半ばのこと。その導きの人が有賀秀久だった。彼は、女学校に通えず自宅療養中の喜代子の16歳から4年間、家庭教師をつとめる。当家に書生として住みこみ國學院大學国文科に通学していた。理科や数学の苦手な喜代子は、国語に力を入れる。師は女生徒の病弱を気づかい作文は書かせなかったが、小説について話した。
 秀久は、長野県諏訪の旧家に生まれるが、早くに両親をなくしていた。岡谷の旧制中学を終えてから代用教員を経て上京。英語学校に通いながら逓信省で給仕をしているところを、喜代子の父に認められ、その書生となった。大学では折口信夫に師事し、国文科を首席で卒業する。
 1932(昭和7)年、喜代子は5つ年上の有賀秀久と結婚。父は彼のきまじめさと成績優秀なのが気に入っていた。係累がないのもよかったが、なによりも彼が、〈喜代ちゃんでなきゃいやだ〉と哀願した。
 なにかの折、父は喜代子にこういったという。〈女給なんぞ品が悪い。堕落する人間のすることだ。かたぎの娘のすることじゃない〉と。父の剣幕がすごくて、喜代子はしゅんとなり反抗する気になれなかった。宇野千代、林芙美子 平林たい子など家出娘が、カフェ の女給をしながら文学界デビューのチャンスをねらっていた。大正末から昭和初めにかけてのこと。父は喜代子の作家志望をみぬいていたかもしれない。父の言うまま秀久との結婚に同意した。秀久への絶対的な愛はなくても、そのとき、喜代子の内面に向学心がうごめいていなかったか。夫を導き人にして勉強がつづけられる。そんな向学心が、喜代子を揺さぶっていなかっただろうか。女の学べる窓口は閉ざされていた時代だ。男との結合の背後には、女の向学心への欲求があった。拙著『書くこと恋すること―危機の時代のおんな作家たち』(社会評論社)を参考にしてほしい。
 当時は日本の植民地だった朝鮮の京城で、喜代子は、新婚生活をスタートさせた。夫は小学校の嘱託教員から女学校に勤めなおして、国語を教える。喜代子は、敗戦までの13年間に5人の子どもを出産する。が、東京から送金していた父親が他界すると、夫は威張りだした。妻が新聞に短歌を投稿したとわかるや、インクつぼを投げてくる。回想して喜代子は「阻まれて」(「短歌現代」)に書く。夫の暴力におどろきひざが立たないほどだった、と。夫のひょう変へのショックは深かった。書生の立場から解放された夫には、妻に知識を授けるなんぞまっぴらだ、という反発があったのかもしれない。なまじ妻に学をつけて自己主張されたらたまらぬ、という男の自己保身もあったろう。喜代子の願望は裏切られるのだった。しかし、女がものを書きたい欲望は、そう簡単にしぼむものではない。
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 敗戦を朝鮮の公州でむかえる。夫は釜山の部隊にとられていた。喜代子は、妊娠9か月の身で4人の子どもをつれ、1945(昭和20)年10月、夫の郷里に引き楊げる。八ヶ岳山ろくの農村は、喜代子にも子どもたちにも見知らぬ土地だ。村人が馬の鼻面をとって歩いている。女が道で立ち小便をしている。異世界は、あっとおどろく珍風景の連続だった。言葉づかいも習慣も服装もちがった。気候も風土もきびしい。ことに、彼らの貧しい生活には胸を衝かれる思いであった。しかし喜代子は、そこに生活の根をおろしていくしかない。300坪の屋敷の空き地にジャガイモなど野菜を作る。これも慣れない作業であったが、なによりも、喜代子を疲労困ぱいさせたのは、村の〈人足〉の義務だった。それを断れば、その代わりに米か金銭を供出しなければならない。
 村内に家事が発生した。その後、火防線の苗木を植える〈人足〉に喜代子もくわわる。
二男を背負って、さらに50本の苗木を肩にかつぐ。手には農具のくわをもち、その片手で三女の手をひく。誕生まもない二男がむずがる。あやしているうちに、ケモノ道の先をいく村人からはぐれ雑木林のなかを右往左往した。武石出身の作家、一ノ瀬綾のように、もともと農村の人であれば慣れていることが、都会育ちの喜代子には骨身にこたえた。帰宅して便所に入りしな腰をぬかした。脊椎分離症をわずらう。不治の病は一生、喜代子を苦しめることになる。
 それでも夫は、妻を助けようとしない。このころ、13歳になる長女が骨髄炎で亡くなった。小学校を終えるとき県庁から表彰された優秀な子だった。悲嘆にくれる喜代子を〈おまえがころした〉と夫は責めた。〈女って、なんとワリが悪いのだろう〉喜代子はしみじみ考えるのであった。
 日々の経過のなかで、喜代子は農村の実態にふれていく。13年間の京城での住まいは片田舎にあり、20人ほどの日本人が住んでいた。教員仲間や商人との交流はなかった。核家族をすごしてきた喜代子の眼には、しがらみのつよい、封建的な世界を当然のこととして生きる、村人への驚きが大きかった。ことに、姑の実権にくらべて嫁の忍従の姿が、哀れに思われた。嫁は子どもを産むための「道具」であり、産めなければ婚家を去るしかない。日がな働きづめの「労働力」でもあった。姑も、もとは嫁であった。喜代子は両方を気の毒に思う。
 農村で実感したカルチャーショックは、喜代子を書く行為へといざなっていく。「女は家の道具」を強いる夫の横暴へのくやしさと、村の女たちの苦しみとが、喜代子の内部で激しく共振しあった。女たちとの〈地を這うようなつきあい〉がはじまる。胸中の憂さをこっそり、チラシのうらや子どもたちのノートの余白にしるしていく。だれかに伝えずにいられない内的要求は、やがて、中編小説となって結晶するのである。

〈こだね、蚕だね? なんのことだ〉とつぜん押しかけた新聞記者たちに問われても、秀久にはさっぱりわからない。青天のへきれきだ。すでに転居していた岡谷の教員住宅にいる喜代子のもとではなく、彼らは、勤務先の工業高校にいる夫を直撃したのだ。1958(昭和33)年9月のこと。帰宅し、妻の受賞作が「子種」と知って、怒り心頭に発した夫はわめく。〈おれの知らぬまに、おまえはでっけえことやりぁがって、油断のならない女だ。子種だと。みだらなことを書いたもんだ。これからおれが、高いところから話せると思うのか〉むかしの教壇は一段高くなっていた。子種とは女たちのあいだでは日常の聞きなれたことばなのに、夫は知らなかったらしい。〈小心者〉は定年まぢかのリストラにおびえる。家長として一家を掌握しているはずの自信が、ぐらついたのかもしれない。
 夫の留守に書きためた100枚の小説「子種」が、「婦人公論」第1回女流新人賞を獲得したのである。49歳の主婦、有賀喜代子は、4人の子どもの母だ。翌日の地元紙「信濃毎日新聞」には、作家の平林たい子が談話をよせた。「性を愛情とか欲望の面からだけ書くのがこのごろの流行のようですが、この小説が描いているものはそんな都会的描写でなく暗い農村の生活です」。
「子種」はまず、1958(昭和33)年11月号の「婦人公論」に発表される。ほどなく11月末に「血」も収録して中央公論社から刊行された。じつは、「子種」にはこんな経緯がある。上京して中央大学に通う長男に〈そそのかされて〉喜代子は、小説を書いた。受賞前年のこと。それを「中央公論」第2回新人賞に応募している。10点の最終候補作に残ったが受賞はならず。だが、佳作にもならないこの作品を書き改めて、来年度新設の「婦人公論」女流新人賞に再応募するようにと、同社編集部から手紙で知らされる。のちにわかることだが、それは社長命令であったというのだ。
 さて、授賞式に着ていくきものがない。喜代子は事情を告げると、大阪に住む、大手製鉄会社の重役夫人の姉が和装一式を送ってよこした。当日おめかしして出席した喜代子の姿を、作家の宇野千代がじろりとみる。宇野は平林たい子、円地文子とともに同賞の選考委員であった。〈あの人のきものはセンスがある。サラリーマンの奥さんじゃないわね〉さすが着物デザイナーを兼任する人の目は肥えている。喜代子は、賞金の10万円と副賞にパイロットスーパーとペンシルのセットを手にした。その日のうちに、夫と子どもの待つ家庭にもどる。それが心残りだったと、喜代子がいつだか話したのが印象的だ。
 174ページで定価200円の『子種』は、売れに売れた。山ろくの人にも長野県下の人にも、全国の人に読まれて、5万冊のベストセラーとなった。喜代子が税務署に確定申告に行くと、署員が顔をのぞきこんできたという。賞金と単行本の印税は、子どもたちの大学入学金など学資に使われる。
 喜代子が受賞した1958(昭和33)年の6月、木下恵介監督の松竹映画「楢山節考」が上映されている。「中央公論」第1回新人賞をとった深沢七郎の同名作品の映画化だが、深沢作品もベストセラーになった。貧しい家の食糧事情を心配して自ら山に捨てられることを望んだ、主人公おりん。この老女とは対照的に、家と血と金の妄執にとりつかれて呪いのことばを吐く、「子種」の姑おけん。新しい光があてられた、農村という未知の世界に、多くの人が好奇心と関心をいだいたとしても、ふしぎはない。現在のベストセラー現象に似ているかもしれない。さらに深沢作品の映画化に連動して『子種』の販売部数が大幅に伸びたとすれば、中央公論社社長の商業的戦略は的中したことになろう。喜代子に「子種」を再応募させたかいはあった。
「週刊讀賣」も「サンデー毎日」も、『子種』を書評にとりあげた。前者は「重量感のある農民小説」といい、後者は「この老婆は、われわれ日本人のビテイ骨かもしれない」という。「毎日新聞」の「文藝時評」でも、文芸評論家の平野謙が、作品の「濃密な現実感を押しだして、文字感覚など一応忘れさせる」と、評価している。さらに、農村のことは「この作者のすみからすみまで心得きった世界なのである。手なれた世界を手がける作者に対する一種の安心感みたいなものが、まず読者の心に生じるのも自然であろう」とも。
 たしかに、推敲をかさねた丹念な文章は、今読んでも、ひきつける魔力のようなものがある。登場する老女たちのせりふも、方言だが、辛らつでおもしろい。作品の迫力は、今をときめく山田詠美、よしもとばなな、川上弘美など若手の比ではない。喜代子ののっぴきならぬ内的モチーフと書き手のとりわけ義憤とが、いかに強いものであったか。喜代子は、醜いもの、臭いもの、汚いものにふたをせず赤裸々に表現したのである。
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「子種」を読んでみよう。姑のおけんは、分家の主婦だ。夫の死後子どもたちを育てあげ、いま家を支配し得意の絶頂にあった。が、長男に跡とりのできないのが深刻な悩みだ。世間体が悪いし、なによりも本家の主に頭があがらない。その非を嫁になすりつけては嫁をばとうする。ところが、町の病院にいき産婦人科の診察をうけると、嫁はからだに異常のないことがわかる。いっぽう、姑は子宮がんに冒されていると診断される。姑は嫉妬心から嫁いじめをエスカレートさせる。因業で欲張りのおけんは、村人にもきらわれ孤立していた。胸のうちをだれにも打ち明けられず、悶々とすごしていた。だがある日、おけんの脳裏にある考えがひらめく。おけんは、分家の二男を、蔵のネズミ穴をふさぐ用事を口実によびよせた。長男は村の慰安旅行にでかけ、不在だ。おけんは、嫁のうでをつかみ、「しずえ、祐作に子種を貰ってくれ。頼む! 祐作にはおれからよっく話をしてある。祐作は承知だ。いいか、子種を貰うだぞ」といい、震える手で蔵の錠をおろすのだった。
『子種』は、村の青年団の若者たちにまわし読みされたという。彼らは、結末はこれからどうなるのか、激論を交わした。この続きを書いてくれと、喜代子に話しかけてきた。彼らが指摘する結末の迫真こそ、じつは「子種」のハイライトにちがいない。当時、この結末を事実とうけとった人は多かったようだ。ところが、喜代子がわたしに明かしたのだが、〈あの結末はフィクション〉であった。〈作中の平板さを打破しようと設けた〉、と説明したが、喜代子の苦心の作戦は、功を奏しているだろうか。
 これまでの姑の文脈からすれば、結末は思いつきそうなシナリオだ。また、結婚7年目のいま切実に自分の死に場所がほしい嫁が、姑の命令にのりそうなことも、読み手には想像される。平板さは最後まで平板になっていないか。先に引用した平野謙はつづけてこうも書いている。「しかし小説の問題はもう一歩先にある」と。そのとおりだ。人間のドラマというのは、じつは、この結末から発展する。姑の思惑を裏切るような事態も生じかねない。嫁と二男ができてしまうかもしれない。しかしここには、そのような波乱への作家的配慮は認められない。
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 喜代子は、受賞翌年の7月に「婦人公論」臨時増刊号に「おらが蕎麦」を発表する。同社の編集者がこういった。〈わが社の授賞作は直木賞に推薦しない〉と。新人作家を育てる気はなさそうだ。それよりも、37歳の嶋中鵬二社長の言いぐさが、喜代子には気に食わなかった。〈わが社は、ババアの作品ではなく、若い女性がこわきにかかえて街なかを歩ける、アクセサリーのような作品がほしかったのだ〉。
 出版界は、昭和30年代半ばから40年代にかけ、古い文壇ジャーナリズムの時代から新しいマスコミの時代へと、転換期をむかえていた。機をみて敏なる嶋中社長は、新しい時代の到来をキャッチしていて、喜代子にいやみな発言をしたのかもしれない。1959(昭和34)年4月には皇太子が民間女性と結婚している。この国は、高度経済成長へとむかっていく。その矢先での喜代子の受賞だった。「子種」のような地味なタイプの小説は、商業的ジャーナリズム台頭の波にうまくのっていけない。また、喜代子自身、作風をかえて方向転換するほど器用ではなかった。いや、そもそも実生活と密着したところに喜代子の執筆動機はあった。夫と農村がもたらしたその衝撃が、喜代子を文学の世界に踏みこませている。それを離れては、喜代子の作家たるゆえんがなくなる。アクセサリーになるような新奇な小説への転換なぞ、しょせんできない相談であったろう。
そんな折、平林たい子が下諏訪に文芸講演会のためおとずれた。前座を喜代子がつとめる。〈どうしてるの〉〈こけしの顔かきの内職をしてます〉〈まあ、もったいない。東京に出てらっしゃい。ゴーストライターの仕事だってあるわよ〉喜代子は、日に500個も信州みやげの顔を書いていた。〈今から考えると、あのころの自分は飛躍できなかった〉と、喜代子は、老いてしみじみ語っている。中学生になった二男が〈ぼくらが牛乳配達するから東京へ行こう〉と、暴君に耐える母を再三うながした。しかし喜代子は、子どもたちに大学教育をつけることを優先した。定年後の夫は、諏訪大社の神官に職をかえていたが、自分が稼ぐよりも〈夫の運んでくる〉給料のほうが多い。〈子どもを選ぶか、わが道を選ぶか。さんざん迷いぬいた。その心理的葛藤は、まさしく修羅場でした〉とも、喜代子は回想する。このとき、妻の座への執着はなかったか。現世のシステムから「転げ落ちる恐怖」があったかもしれない。心理カウンセラーの信田さよ子が『結婚帝国 女の岐れ道』のなかで、社会学者の上野千鶴子に述べているように。家庭のわくのなかで生きていくしかない。そう決めた喜代子は、夫にたいして、彼が1971(昭和46)年に胃がんで他界するまで〈面従腹背〉の戦術をつらぬいたという。喜代子が上京するのは、夫の死後だ。早稲田大学をでて都庁につとめた二男と同居する。

 有賀作品に登場する嫁にしても姑にしても、「道具」「役割」にだけ生きていないか。嫁は万能選手だ。野良仕事から家事までなんでもこなす。有能な「道具」である。などと思っていると、ラジオから「女性は子どもを産む機械」という、厚生労働大臣の失言を報じるニュースがながれてきた。2007(平成19)年1月のこと。大臣の少子化対策への発言である。50余年前の家の「道具」が、今国家の「機械」に変換されて、人間は「役割」とか実用とかの観点からみられている。大臣はすぐに女性は「産む役目の人」といいなおした。しかし、これとて失言だ。「役目」を果たせない女たちのつらい歴史があるのだから。子どもを産み「役目」を果たしてこそ女は一人前という神話を、大臣はなぞったにすぎない。現実への人間的なまなざしは、大臣には認められない。
 人間的な視座がほしい。人間は「ニワトリ」でも「道具」でも「機械」でもないのだから。人間の幸せってなんなの? しずえさん、あなたのほんとの気持ちはどうなのよ。わたしは彼女の胸をドンとたたいてたずねてみたい。その回答のなかに平板なリアリズムを打破するかぎはないか。文芸評論家の荒正人がいう。姑おけんが「きついならきついで、もうすこしきつさの内面に立ち入って描く必要がある」と。その視点で喜代子は描いていない。喜代子自身も妻、母という「役割」の渦中に生きている。実情を書くだけでは記録にすぎない。文学作品としての作家的格闘がほしかった。農村にスポットをあてて、存在感の希薄な女たちのつらい立場を代弁した功績は大きいが、作家として次なるステップは踏めていないようだ。

 わたしが喜代子にはじめて会ったのは、喜代子71歳のとき。開口一番〈白髪頭のババアでがっかりしたでしょ。男なんて愛せないわ〉という。そうだ。有賀作品はほとんど男性不在だ。男女、夫婦が直接むきあうシーンはない。対話や葛藤の場を、喜代子は設けようとしなかった。それでよかったのか。
 両者にコミュニケーションがない、といえば、「まぐそかぶせ」にもそれはいえる。60代後半に執筆された、喜代子の最後の力作だ。「海」にもちこまれた100枚の原稿だが、若い編集者たちが〈古いタイプの小説〉と異議を唱えた。3年間放置されて、1982(昭和57)年7月、「別冊婦人公論」夏号に日の目をみた。大原富枝や重兼芳子などの作品とともに掲載された。この作品とはべつに2作の原稿を、喜代子は、中央公論社に預けたが、編集者が自宅にもちかえり紛失するという不運に見舞われている。
「まぐそかぶせ」を読んでみよう。姑は息子によばれて、嫁の出産の手伝いに上京した。だが、歓迎されない。これまで後家にいいよった男は何人もいた。でも、息子の出世と親孝行をただ夢みてきた。それなのに、息子は嫁の言いなりで母親を無視する。「今更、こんなに馬糞っそかぶせにするなんて、あんまし、ひでぇじゃねぇかよお」姑は落胆のまま信州に帰る。姑は滞在中、なぜ嫁に声がかけられなかったのだろう。姑と嫁は、まったく口を利いていないのだ。嫁は最後まで夫の母とは気づかない。いや、気づいたかもしれない。喜代子のふでは伸びていない。
 喜代子が実際に嫁と激しいバトルを展開していれば、作中の両者の関係は変わってきたにちがいない。現状を突破していれば、新たな可能性をつかんだであろうに。
 喜代子は、長男夫婦がいとなむ、目黒のアパートの1室を借りて住んでいた。喜代子のもとに読者から身の上相談の電話がかかる。読者は打ち明けることでカタルシスをおぼえる。しかし、喜代子自身の悩みはもちこされる。喜代子は、室内の人形たちに語りかける。〈自分は愛情に飢えている〉と、喜代子はよく話したものだ。アパートの階下にいる嫁に近づきたい。でもできない。テレビに出演し不登校問題を論じる娘の社会進出は自慢できても、嫁の地域での活動はグチになる。なぜだろう。女が女の成長をけん制する。最高学府の女教授にもそれはある。ささやかな職場の女社長にもそれはある。喜代子にも、それはあったのかもしれない。
 ともあれ、有賀喜代子は、晩年まで一貫して、ぶれることなく、農村の女たちの生きたあかしとその存在感を濃厚に提示したのだった。
 1998(平成10)年12月15日、89年の人生を閉じる。日本文藝家協会の富士山ろくの共同墓地にねむっている。 

 2016(平成28)年2月のこと、わたしは、東武東上線の鶴瀬駅に降りたった。寒い日だった。この西口には、2度取材のため訪ねている喜代子の家があった。拙著2冊をもって、読書好きの、喜代子の二男の家へむかったが、道に迷ってうろうろしていた。と、高齢の男性がすたすた歩いてくる。たずねれば、おれが案内してやろうという。散歩で鍛えた彼の足はかなり速い。フウフウ言いながら彼のあとを追いかけ、目的地に到着する。玄関に現れた二男の顔を見てびっくりした。有賀さんによーく似ている! なつかしい。あのとき小学生だった2人の孫は、すでに家庭をもっているという。歳月の経過にがく然としたが、有賀喜代子は、わたしの気になる作家の1人であることに、いまも変わりはない。(2016・5・3) 
 

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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