東チモールVS オーストラリア その3 苦慮するオーストラリア

 一年前、わたしはこの「ちきゅう座」に「東チモールVS オーストラリア」と題して東チモールとオーストラリアの外交関係を、「難民中継センター案とガス田開発」と「割って入る中国」の二つのサブタイトルに分けて概説した。両国関係のその後を見てみよう。

不快感を隠さないシャナナ=グズマン首相

 東チモールとオーストラリアの外交関係で去年から大きな懸念となっているのは、オーストラリア労働党のジュリア=ギラード政権が唐突に発表した非現実的な難民中継センター東チモール建設案と、チモール海の「グレーターサンライズ」と呼ばれるガス田の開発交渉(東チモール政府とオーストラリア側のウッドサイド社)が完全に暗礁に乗り上がってしまったことである。

 結論からいうと、ガス田の交渉は暗礁に乗り上げたまま打開の兆しなし。天然ガスのパイプラインを東チモールにひくことを悲願とする東チモールと、洋上に浮かぶ船形の生産工場を実現させたいウッドサイド社との溝は深い。

 両国の溝の深さを象徴する出来事が今年2011年4月15日に起こった。この日、オーストラリアのステファン=スミス防衛相が東チモールを訪問し、ジョゼ=ラモス=オルタ大統領・ジョゼ=ルイス=グテレス副首相・タウル=マタン=ルアク国防軍司令官や野党フレテリン(東チモール独立革命戦線)のマリ=アルカテリ元首相など、東チモールの要人たちと会談したが、肝心のシャナナ=グズマン首相とは会えなかったのである。

 両政府は何もいわないが、オーストラリアの『ジ・オーストラリアン』紙は「ステファン=スミス防衛相、東チモールのシャナナ=グズマン首相に鼻であしらわれる」と報道し、シャナナ首相は意図的にオーストラリア防衛相との会談を避けた見方をしている。わたしも東チモールの新聞記者たちに「二人は会う予定がなかったのか、それともシャナナ首相が約束をすっぽかしたのか」とたずねると、「たぶん、すっぽかしたのだと思いますよ」という回答が返ってきた。

 シャナナ首相はスミス防衛相に会わず何をしていたのか。東部のビケケ地方で開かれたCPD-RDTL(人民防衛評議会-東チモール民主共和国)という政治団体の集会に出席していたのである。この団体は、フレテリン党旗を我が物のように使用するなどして我こそは正当なフレテリンの運動体であると主張して、インドネシア軍が撤退した1999年から2000年半ばごろまでのあいだ、フレテリンとの衝突を繰り返し頻繁に負傷者をだすという世間を騒がせる政治結社である。当時、せっかく侵略軍から解放されたというのに国づくりの方向性が見えない閉塞した東チモールの社会状況をCPD-RDTLとフレテリンとの物理的衝突は映し出していたものであった。最近はCPD-RDTLとフレテリンの仲は、あのときの衝突は一体何だったのだといいたくなるくらいに良好である。CPD-RDTLのアイ=タハン=マタク代表は、トレードマークの鼻眼鏡は相変わらずで小柄な体型の腹は満足したように出っ張ってきて、一人ぶらぶらと歩きレストランに入って昼食をとっても、さほど周囲の注目は浴びず、一般市民として溶け込んでいる。去年の国勢調査(*2010年の国勢調査の結果、東チモールの人口は106万6582人という結果がでた)のさい、CPD-RDTL幹部は調査に応じないことがニュースのネタになったが、社会不安を煽るイメージはCPD-RDTLにはもうない。

 したがって、オーストラリアの防衛相と会談するよりもCPD-RDTLの集会に出席することが東チモールの首相として重要だとはとても思えない。シャナナ首相はスミス防衛相をあえて冷遇し、オーストラリア政府に不快感を示したのである。それは「オーストラリア戦略政策協会」という政府系調査機関が発表した報告に原因があるといわれる。この政府系機関の報告は、2012年でオーストラリア軍(兵士約400人と若干のニュージーランド兵で国際治安部隊を構成)の東チモール駐留を終えてしまうと東チモール情勢がまた不安定になる恐れがあるために、同軍のさらなる長期の、場合によっては2020年まで、駐留を勧告しているのである。

 ラモス=オルタ大統領も、シャナナ首相のような露骨な態度にこそ出ないが、この報告には同意しない。国連も2012末までに撤退する、オーストラリア軍もそうなるであろうという立場だ。

 東チモール指導者たちは、来年2012年で国連PKOもオーストラリア軍も東チモールから撤退し、いよいよ自立した国家運営ができるぞと意欲を見せている。その意欲に水を差すオーストラリアや国際社会に内政干渉・主権侵害の匂いを嗅ぎとり不快を覚えるのである。

 ところでシャナナ首相がオーストラリアの大臣をすっぽかしたのはこれが初めてではない、去年2010年5月、オーストラリアの貿易相が来たときもやはりそうだった。去年の5月といえば、シャナナ首相は地方の遊説先でウッドサイド社を嘘つき呼ばわりし、東チモールの資源を盗もうとしていると強い口調でオーストラリア側を非難していたときであった。その翌月にシャナナ首相は、中国へ発注した巡視艇二隻の授与式典の演壇に立つや向きを180度回転させオーストラリア政府からの来賓を正面にして、限りなく直接的な間接話法でオーストラリア政府の干渉を批判したのであった。

 オーストラリアはその後も東チモールの巡視艇導入に参入できず、中国に続いて今度は韓国に割って入いられた。今年、韓国から三隻(あるいは4隻か)の巡視艇が無償で東チモールに提供される予定である。オーストラリアは東チモールの領海に遠ざかるばかりである。また東チモール国防軍はヘリコプターを導入する計画であるが発注先はインドネシアであろうといわれ、空の方もオーストラリアは相手にされない。オーストラリアは対東チモール政策で苦慮しつづけているようだ。

尻に火がついた難民政策

 東チモール側から見れば、難航するガス田開発交渉ゆえにオーストラリアと距離をおいているのかもしれないが、オーストラリア側から見れば東チモールを相手にしている場合でないのかもしれない。

 今年2011年5月5日、オーストラリア政府はパプアニューギニアのマヌス島にある難民施設を再開させると発表したとオーストラリアのABCラジオニュースは報じた。この発表も東チモールの難民センター案と同様にオーストラリアによる一方的な希望表明だろうとこのラジオを聴きながらわたしは思ったが、この施設は過去に利用されたものなので東チモールとは違った展開になるかもしれない。いずれにしてもパプアニューギニア案の発表は、オーストラリア政府が東チモールに難民中継センターを建設する案に固執するのをやめたことを意味する。事実上の断念といっても差し支えはあるまい。

 イラク・スリランカ・アフガニスタンなど紛争地からオーストラリアをめざしてボートで密航する人々は2009年から劇的に急増し、オーストラリア政府は対策を迫られている。東チモールに難民中継センターを建設する案で政府が非難されるあいだも、ボート難民が荒波を越えてやって来る。去年12月、インド洋のオーストラリア領クリスマス島沖で難民を乗せたボートが岩に激突しておよそ50名が死亡するという悲劇が起こった。紛争それ自体はいわずもがな、オーストラリア政府が適切な難民対策を打ち出せないことが暗躍する密航業者へつけ入るスキを与えることになり、難を逃れようする人びとの生命を脅かす。

 オーストラリアへボートで不法にやって来る人びとがオーストラリア政府に保護されると、難民と認証されるまでのあいだ中継地点としての施設に拘束される。前ジョン=ハワード政権(自由党・国民党)は、密航者を意志をくじくため不法侵入者をオーストラリア大陸から離れた太平洋(Pacific)の第三国へ移送しはじめ、一時的にクリスマス島やナウルやパプアニューギニアのマヌス島に収容するという措置をとった。これは語呂合わせで「パシフィック・ソリューション」(Pacific Solution、“平和的解決”とも訳せる)と呼ばれる。しかしこの措置は人道的に問題である。オーストラリアに避難を求め危険を冒してやってくる人にしてみれば、わけのわからない土地で精神的苦痛をともなう拘束生活を強いられからである。

 ハワード政権の難民対策を批判してきた労働党が政権をとると、当時のラッド首相(現外相)はクリスマス島の施設は継続させつつも、ナウルとマヌス島の施設を閉鎖させ「パシフィック・ソリューション」を停止した。だがボート難民問題に適切な対策をとることができず、ギラード首相の口からは非現実的な難民中継センター東チモール建設案が飛び出た。これではハワード政権下で設置されたナウルの施設を再利用した方がよっぽどマシだろうと野党は攻撃する。東チモール案は、避難民にとってさらに「わけのわからない土地」が増えるだけのことである。

 オーストラリア政府にしてみれば、ボート難民を一時拘束する施設の収容能力を増やさなければならない。クリスマス島の施設はその収容能力をはるかに超えて天幕をはってしのいでいる状態である。去年12月、この施設の避難民は拘束生活の不満を直接行動で示しはじめ緊張が高まってきた。今年に入って4月20日の夜、シドニーにあるビラウッド収容施設では、監禁生活に抗議する者たちが施設に火をつけ、屋根に昇り、消防士に瓦を投げつけるという大きな騒ぎが起こった。

 危機に継ぐ危機に見舞われている政府、実現できないことは誰もが知っている東チモールの茶番以外に何の政策もない政府、と厳しく批判される。労働党の支持率は低下し、ギラード政権を次の選挙で救うのはもはや奇跡以外にないと報じられる。難民問題にかんしてオーストラリアの報道を見れば、強調されるのはギラード首相の無能さである。

【1989年以降にオーストラリアに着いたボート難民数】
(括弧はボート隻数)
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1989年   26人  (1)
1990年  198人  (2)
1991年  214人  (6)
1992年  216人  (6) 
1993年   81人  (3)
1994年  953人 (18)
1995年  237人  (7)
1996年  660人 (19)
1997年  339人 (11)
1998年  200人 (17)
1999年 3721人 (86)
2000年 2939人 (51)
2001年 5516人 (43)
2002年    1人  (1)
2003年   53人  (1)
2004年   15人  (1)
2005年   11人  (4)
2006年   60人  (6)
2007年  148人  (5)
2008年  161人  (7)
2009年 2849人 (61)
2010年 6879人(134)
2011年 1675人 (28)  (6月30日まで)
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(www.aph.gov.auを参考)

 このようにギラード政権による難民政策は尻に火がつきはじめ、5月、東チモールに見切りをつけた。その5月、パプアニューギニア案だけでなくマレーシア案も浮上してきた。オーストラリアが800人の避難民をマレーシアに送る替わりに、4000人の認定難民をマレーシアから受け入れるという交換案である。この1対5の交換条件案も批判にさらされている。ナウルの施設再利用を拒むギラード政権の根拠はナウルが国連の難民条約に調印していないことだが、マレーシアも同条約に調印していないのであり、ギラード政権の主張に一貫性がない。なによりも交換される人たちの権利がなおざりにされる懸念がある。クリスマス島の施設では、この7月にとうとう暴動が発生し、警察が催涙ガスなどの武器で鎮圧しなければならない事態に発展してしまった。

 東チモールがだめなら、パプアニューギニアだ、マレーシアだ、ソロモン諸島も登場し、野党はナウルを再利用せよと……オーストラリアに密航するボート難民にどう対応するか、どこに収容するか、ギラード政権は非難の火だるまになりながら対応に苦慮しつづけているのである。

 東チモールとしてはオーストラリアに逃れる難民はオーストラリアの問題であると高みの見物をきめこんでいるのかもしれないが、そのへんはラモス=オルタ大統領がマレーシア案に支持を表明するなどして、ノーベル平和賞受賞者らしくオーストラリア政府を気遣っている。なお、7月25日オーストラリアとマレーシアはこの案に調印した。

 「難民中継センター」とはオーストラリア政府にとって早急に必要な収容施設であり、東チモールと外交駆け引きをするための駒にする余裕はないのである。

<編集部注> 過去2回の「東チモールVS オーストラリア」掲載記事はこちら
「東チモール VS オーストラリア その1 難民中継センター案とガス田開発」⇒https://chikyuza.net/archives/3205
「東チモール VS オーストラリア その2 割って入る中国」⇒https://chikyuza.net/archives/3490

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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