――八ヶ岳山麓から(337)――
いま日本の政治家の中で、「3・11」の教訓から社会保障、経済、外交・安全保障まで、しかるべき政策を一人で書き上げることのできる人は珍しい。一読して(口述筆記の感じもあるが)枝野氏のがんばりのほどに感心した。
以下、氏の「保守論」が示された「第1章」と、「外交・安全保障」を論じた「第11章」についてだけ感想を述べたい。
枝野氏は自分で「保守だ」と言っている。3年半前の立憲民主党結党の際も、「自分は保守であり、リベラルである」といい、本書でも「(氏が代表である)立憲民主党こそ保守本流の政党だ」と繰り返している。
「リベラル」とは何かというと、氏は「多様性を重視し、強いリーダーシップより合意形成と支え合いを大切にする」ととらえ、「保守」の考え方は、日本における「リベラル」とたいへん高い親和性を持っているという。
「保守」は、「あり得ない『理想の社会』を目指すのでなく、先人たちが試行錯誤しながら積み重ねてきた歴史を大事に生かしながら、そこから得てきた経験値を踏まえ、世の中を少しずつ良くしていく」
だから「『理性によって理想の社会像を作り上げその実現のために邁進する』という革新的な考え方は、本来の『保守』から見れば『人間の本性に反している』ことになる」
そして「リベラル」を「左翼」「革新」と一緒にするな、として「急激な革新や進歩を目指す考え方は、『保守』の立場からは否定される」と、旧社会党や共産党などの社会主義を目指す思想を否定する。
枝野氏の「保守性」は戦後日本の保守党支配に対する見方で明らかになる。
彼は、「戦後の日本で、『保守』を称する勢力が、圧倒的な長期にわたって多数派を占める中で、国際協調路線と必要最小限の軽武装路線が継続したのは、憲法九条の有無にかかわらず、それが日本の歴史と伝統を踏まえたものだったからだ……」とらえる。
そして、吉田茂から歴代首相の名前を挙げ、「彼らの手で、日本は高度成長を成し遂げ、『一億総中流』社会を実現することになる」「戦後『保守』政治のこうした側面を、私は高く評価している」というのである。
これだと吉田茂以来の支配者の多くは、みな民衆のための政治をやってきたことになりそうだが、日本の保守政治がそんなに褒められたものだったか。こう双手をあげて持ち上げられては、彼らも照れ臭いのではなかろうか。
教職員の勤務評定、警察官職務執行法、60年安保と三井三池などの戦後史を経験したものとしては、実に理解に苦しむ。ここには、高度成長を実現するために、「ウサギ小屋」に住み、残業と長時間労働に従ったもの、合理化・民営化によって首を切られたものの姿はない。農業だけでは食えなくなり、出稼ぎと兼業で休む間もなく働くはめになったものの姿もない。環境破壊によって生まれた障害や病気に苦しむものもない。
だいたいが75年間も対外戦争や内乱がなければ、かなり悪い統治が行われたとしても大概の国は成長を遂げるし、多かれ少なかれ社会福祉もやらざるを得ないものだ。
だが、彼は現今の自民党は「保守」ではないという。とくに第2次安倍政権発足以降の自民党的「保守」のありようは、右翼だという。自民党は、枝野氏のいう「保守本流路線」から外れて「右派」ないし「保守反動」になりつつあるという。つまり吉田茂以来の自民党政治の延長上には、現在の自民党ではなく、立憲民主党が存在するということになるが、そういう理解でいいのだろうか。
たしかに、自民党の改憲案を見ると、国民の自由権・社会権を制限する専制政治、独裁の方向へ傾斜している。これを批判するのは当を得ていると思う。
そして真の保守は「リベラルと称される私たち立憲民主党の政治姿勢に近い」という。もし自民党にリベラル派がいるとすれば、枝野氏はそれと同じだということになる。
枝野氏は、マスメディアなどによって立憲民主党は「『リベラル=左派=反権力』的な、意味不明のレッテルを貼られ続けている」と不満を書いている。
だが、私はこの「レッテル」は当然だと思う。立憲民主党は共産党などの古典的な左翼とは区別されるにしても、ことあるごとに自民党に反対してきたのだから、政治的な位置はだれが見ても、中間というよりは「立憲民主党=左派」である。またそうでなければ存在価値はない。
外交・安全保障政策については、私は枝野氏が1996年民主党の「東アジア共同体の形成」と「常時駐留なき安保」を提起すると思っていた。だが全く違った。氏はこういう。
「私は、短期的な外交・安全保障政策について、政権を競い合う主要政党間における中心的な対立軸にすべきではないと考える」
「外交・安全保障政策を真摯に考えれば、短期的に示し得る選択肢は、一見すると大きな違いにはならない。新しい立憲民主党の綱領も『健全な日米同盟を軸に』とその基本方針を明記しており、私はそれを進展させたいと考えている」
では、短期的な外交政策として対中国外交を見るとどうなるのか。
対中国抑止力としての日米両国の東シナ海における軍事力増強に同意し、日米両軍が共同行動をとることも肯定している。台湾との関係、香港・新疆ウイグルなどの人権問題、南シナ海における軍事増強など「懸念を抱える対中問題においても米国の抑止力、影響力は重要な意味を持つ」という。
特に尖閣防衛では、アメリカ軍による十分な関与が得られない場合に備えて「日本自身の対応力を強めることこそが求められる」としている。つまり自力防衛のための軍備増強である。この点、自民党とほとんど変わりがない。
しかし、中国は日本最大の貿易相手国であり、中国にある日系企業は1万3,600社、地理的にはいやがおうでも接近している。喧嘩だけしていればよい関係ではない。冷戦時代の対ソ戦略とは異なるはずだ。G7 の共同声明をまつまでもなく、環境問題や経済では協力関係が求められている。この厄介な巨人とどう付き合えばよいか、自民党と異なった「枝野ビジョン」を示してほしかった。
「中長期的には……私は、日米同盟を基軸としながらも、米国に対し地位協定の改定を粘り強く働きかけていく。……辺野古基地の建設を中止し、普天間基地の危険除去に向けた新たな協議を、米国に丁寧に求めていく。核兵器禁止条約について、……まずはオブザーバー参加などの余地がないか、米国等との調整を始める」という。
「日米同盟」という言葉は、1981年の鈴木善幸内閣以来、アメリカとの従属的な軍事同盟を意味している。立憲民主党の「健全な日米同盟」の「健全」の中身は何を意味しているのだろうか。
この75年間日本民族はコバンザメのように、アメリカの従属下に甘んじてきた。それを対等平等の日米関係にしようとするのならば、まさに「健全」であり筋が通る。いいかえれば、日米地位協定(ひいては日米安保条約)を独立国家にふさわしく改定するのならば、立憲民主党の中長期計画にふさわしいと思うが、そこまでは言及していない。
さらに枝野氏は、「平和や憲法九条を唱えるだけで平和を守れるかのような主張も、それはそれで地に足の着いていない議論」だとし、「集団的自衛権行使容認など、一見現実論のように聞こえる第二次安倍政権以降の外交・安全保障政策の方向も、逆の意味で現実離れしている」という。
ここでは左右の極論を切って、立憲民主党の独自性を強調しようとしているが、外交・安保政策にかぎっては、枝野氏の「保守・リベラル」は右に傾いていると思うが、氏の独自性が全体としてどんなものかは内政まで議論しなくてはならない。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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