柄谷行人と「帝国」論の隘路 ――ウィットフォーゲルとマルクスの間で(上)

「わがヨーロッパの反動派が、すぐ目の前に迫っているアジアヘの逃亡のさい、ついに万里の長城にたどりつき極反動と極保守主義の堡に通じる門前にたったとき、門の上に次の文字をみないと誰が知ろう――中華共和国・自由、平等、友愛」(『マルクス・エンゲルス全集』、第7巻、223-224頁)。

はじめに
 柄谷行人の『世界史の構造』(岩波書店、2010年)は、前著『トランス・クリティーク――カントとマルクス』(2001年)で最初に提出された「交換様式」の観点から社会構成体の歴史そのものを見直すという方法によって、現在の<資本=ネーション=国家>を超える展望を開くことを主な目的としていた。柄谷にとって、「マルクスをカントから読み、カントをマルクスから読む」という行為は、ヘーゲルをその前後に立つ二人を「批判的に」読むということを意味している。ここで柄谷は、マルクスの「生産様式」にもとづいた社会構成体の歴史的諸段階をなお有効な分類としながらも、それを「交換様式」なるものに結びつけて再構成しようとするのである。近代資本制社会を商品交換が支配的な「交換様式」としてとらえつつも、柄谷はそれによって、他の「交換様式」、およびそこから派生するものが消滅してしまうわけではないという。いいかえれば、他の要素は変形されて存続するのであり、国家は近代国家として、共同体はネーションとして、つまり、資本制以前の社会構成体は、商品交換が支配的になるにつれて、<資本=ネーション=国家>という結合体として変形されていく(『世界史の構造』序説)。これまで「生産様式」論においてたんなる上部構造として理解された近代国民国家は、柄谷の「交換様式」論においては<資本=ネーション=国家>という三位一体的構造からなる社会構成体としてとらえ返された。そのうえで柄谷は、その作業はへーゲルの『法の哲学』における三位一体的体系を「唯物論的に」とらえなおすことでもあるとした1。

だが、柄谷はそれだけでは満足できなかった。さらに『帝国の構造』(青土社、2014年)では、前著『世界史の構造』では十分扱えなかったというヘーゲル「批判」をさらに徹底しておこない、<資本=ネーション=国家>という三位一体的構造を越えることが「帝国」概念の再評価として可能になるのだとしている2。だが、筆者の見るところ、それは「前近代的」帝国の概念を乗り越えるどころか、まったく逆に、ただたんにこの帝国のもつ「前近代的」性質を全面的に復活させる結果をもたらすだけのものである。それはいわば、ウィットフォーゲルのいう「アジア的復古」の正当化論そのものである。それ以上に、その「ヘーゲル批判」なるものも、筆者には、カントとマルクスという二人の言説の中間領域において、もっとも保守的(あるいは反動的)ヘーゲルを復活することに終始しているとしか思えない。そのことは、柄谷の「帝国」論をウィットフォーゲルとマルクスの間に位置づけることによって、より具体的に浮かび上がってくる。したがって、ここでは主に『帝国の構造』における柄谷の言説に内在しつつ、柄谷の「帝国」論をめぐる問題性を検討してみたい。

1.<資本=ネーション=国家>を越えて
フランシス・フクヤマによる「歴史の終焉」について柄谷は、<資本=ネーション=国家>が最終的なもので、それ以上変化がない事態としてとらえる。仮にこのトリアーデの中での変化があっても、この<資本=ネーション=国家>というシステムの中に閉じこめられているだけなのに、人々は歴史的に前進していると錯覚しているにすぎない。ここで「歴史の終焉」を越えるとすれば、それは<資本=ネーション=国家>を越えるということを意味するが、そのためには、資本・ネーション・国家を相互連関的な体系においてへーゲルを批判しなければならないのだ、と柄谷はいう。たとえば、へーゲルは『法の哲学』で、フランス革命で唱えられた自由・平等・友愛を理論的に統合しようと試みたが、その際、第一には感性的段階として、市民社会あるいは市場経済、つまりフランス革命でいう「自由」が提示された。第二に、悟性的段階として、そのような市場経済がもたらす諸矛盾を是正する「平等」を実現するものとして、国家(官僚)が見出され、そして最後には、理性的段階として「友愛」がネーションにおいて見出されることになる。かくしてへーゲルは、自由・平等・友愛という三つの契機、あるいは、資本主義経済・国家・ネーションという三つの契機を、どれも斥けることなく、三位一体的な体系として弁証法的に把握した。へーゲルはここで、政治的にイギリスの立憲君主制をモデルにして、経済的にもアダム・スミスを読んでおり、イギリスをモデルにして、さらにそれに対する批判も考えていた。いいかえれば、ヘーゲルは西欧近代市民社会の精神的真髄を内側から理解し、かつなんらかのかたちでその止揚を企図していたということである。

だが、柄谷は明らかにその「近代的」性格への言及を避けつつ、『法の哲学』がとらえた<資本=ネーション=国家>という世界がドイツには事実上、まだ存在していなかった、とだけ指摘する。それゆえに、それが「ドイツの社会を肯定するものではなく、現在でもまだ多くの地域で成立していない世界を描いていた」というのは、きわめてあいまいな表現だといわざるを得ない。ヘーゲルとともにある柄谷の考えでは、<資本=ネーション=国家>が確立されたのちに、もはや根本的な革命はない。もちろん、へーゲル以後にも革命はあったが、彼のいう「歴史の終焉」とは、この三位一体的な体制ができあがったところで、本質的な変化はありえないことを意味するのである。たとえば、マルクス主義者によるロシア革命、中国革命があったものの、それらが行き着いたのは<資本=ネーション=国家>であるがゆえに、もはやそこでは根本的な革命はない。のちに述べるように、ここで柄谷はこの三位一体的体制の閉塞状況を乗り越えるものこそが新たな「帝国」なのだ、といいたいのである3。したがって、かつてマルクスが「中華共和国・自由、平等、友愛」と皮肉をこめて記した警句は、柄谷にとっては奇妙なことに、「中華帝国・自由、平等、友愛」と同じインプリケーションをもつことになる。

柄谷によれば、マルクスは政治的次元が経済的次元によって決定されると考えたが、資本制以前、つまり「前近代的」社会にあてはめようとすると、とたんに困難が生じてしまう。たとえば、エンゲルスは、『家族・私有財産・国家の起源』など、資本制以前の社会について多くの仕事をしているが、そもそも経済的下部構造と政治的上部構造というマルクスの見方は、近代資本主義社会にもとづくものであって、それを資本制以前の社会に適用するからうまくいかないのだ、というのである。それはどういうことなのか。「たとえば、原始社会(部族的共同体)においては、そもそも国家がなく、また、経済的構造と政治構造の区別がない。このような社会は、マルセル・モースが指摘したように、互酬交換(贈与とお返し)によって特徴づけられる。これを生産様式(生産手段の共有)という観点では、十分に説明するとはできません。原始社会も遊動的な狩猟採集民のバンド社会と、定住した氏族社会とでは大きな違いがあります。前者では互酬交換がない。純粋贈与(共同寄託)があるだけです。ところが、生産手段の共有という観点から見ると、これらを区別することができないのです」4。このように、柄谷がマルクスにはなかった「交換様式」の第一次性を強調するとき、一つのキーワードとなったのが、この「互酬交換」である。だが、マルクスがその土台=上部構造論において上部構造の相対的自律性を指摘していたように、必ずしも経済的次元が政治的次元を一義的に決定しているわけではない。したがって問題は、土台=上部構造論の近代資本制社会への限定的適用がマルクスの歴史貫通的方法論には明らかに反していることはひとまずおくとしても、そもそもそれが現実認識との関係でどこまで有効なのか、ということにある。

2.生産様式と交換様式との間
柄谷のいう「生産様式」と「交換様式」とは、政治と経済の二つの領域で本来は深く結びついていたはずなのに、既述の土台=上部構造論では、近代資本制社会への限定的適用として、両者が切り離されてしまっている。たとえば柄谷は、「前近代的」帝国との関係性の濃厚なマルクスの「アジア的生産様式」について、アジア的専制国家の機構が経済的生産様式の上部にある政治的構造とはいえないと簡単に言い切ってしまう。さらに、皇帝・王とそれを支える官僚層と被支配者の政治的関係は、それ自体が経済的関係なのであり、ここで経済的次元と政治的次元の区別がないことは、封建制についてもいえるのだという。柄谷の見るところ、たとえば、領主が農民からの年貢の取り立てが政治的なことなのか、経済的なことなのか、はっきりとは区別できず、経済的下部構造=生産様式という前提に立てば、資本制以前の社会を説明できない5。だが、そもそもマルクスの土台=上部構造論は、生産関係を基礎とする生産様式の第一次性を強調しつつも、第二次的には上部構造の相対的自律性とその政治的次元からの「反作用」を扱う超歴史的な視座であったはずである。その意味で、これは柄谷がしばしば引用するウィットフォーゲル以前に、マルクスの基本構想そのものを覆すものであるといわざるを得ない。柄谷はいう。「「生産様式」(生産手段をもつ資本家階級とそれをもたない労働者階級)という観点から見れば、資本制経済を十分に説明できない。資本制経済はそれ自体、「観念的上部構造」、すなわち、貨幣と信用にもとづく巨大な体系をもっているがゆえに、恐慌(危機)が生じる。したがって、生産様式で見るだけでは、資本主義経済は理解できません」6。こう述べるときの柄谷は、資本と労働を前提にした「生産様式」だけでは「十分に説明できない」といっているにもかかわらず、ではいったいどこまで有効なのかについてはけっして触れないという点で、事実上、「生産様式」を全面的に否定しているにすぎない。マルクスが『資本論』において「生産様式」ではなく、「商品交換」という次元から考察を始めたことが仮に事実であるにせよ、だからといって、生産関係と上部構造との関係性そのものが「交換関係」でなりたっているかのごとく描き出すというのは、果たしてどこまで正当なのか。

柄谷によれば、資本主義的生産様式における資本と労働者の関係は、貨幣と商品の関係(交換様式C)を通して組織されたものである。それが信用の体系を形成することは、『資本論』第3巻に書かれているが、通常、マルクス主義の哲学者はここまでは読まない。第1巻だけを読んで、生産関係の物象化がどうのこうのと論じるのは、生産様式(資本家と労働者の階級関係)がいかに貨幣経済によって隠蔽されるかを論じているにすぎない。彼らは『資本論』が資本制経済の全体系を解明しようとした本だということを無視してきたのに対して、マルクスその人は『資本論』で商品交換から始めたのだという。

「だから、マルクスは、それを理解するために、あるタイプの交換様式、すなわち商品交換から始めたのです。資本制以前の社会についても同じです。それは生産様式から見てもそれらを十分に把握できない。では、それを交換様式という観点から見直したらどうか。もちろん、それは商品交換とは異なるタイプの交換なのですが。(…)あらためていうと、「生産様式」という考えでは、社会構成体の歴史をうまく説明できない。そのため、経済的土台(下部構造)による決定論が疑われ、放棄されるようになりました。確かに、「生産様式」という考えではうまくいかないから、それを放棄すべきです。しかし、それは「経済的土台(下部構造)」という見方を放棄することを意味しません。たんに、生産様式にかわって、交換様式から出発すればよいのです。もし交換が経済的な概念であるとしたら、すべての交換様式は経済的なものです。政治的関係も経済的なものです。つまり、「経済的」ということを広い意味で見るならば、「経済的下部構造」によって社会構成体が決定されるといってもさしつかえない。そこで、私は「交換様式」という観点から見ることを提起したのです」7。

このように柄谷は、資本主義的生産様式以前の「交換様式」の第一次性を強調するが、「交換様式」という考え方がマルクスの構想にはもともとないこと自体は率直に認めている。とはいえ、若きマルクスは、たしかに「交通」という概念によって、交通、交易、戦争、贈与、物質代謝など、さまざまなことを説明していた。すなわち、それはモーゼス・ヘスの影響の下で、生産ですら、人間と自然の間の交通そのものとして理解されていた。人間と自然の関係としての生産は、実際には、人間と人間の関係(交換関係)の下でおこなわれている。それゆえに柄谷は、労働を媒介に生産と結び付けられた交通ではなく、交通=交換を経済的土台とみなすにいたる。たしかに、マルクス自身は、経済学研究に深入りするにつれて「交通」という概念を通常の意味でしか使わなくなったものの、もともとは交通=交換として理解していたというのである8。だが、ここでの問題は、もともとは「交通」という概念が果たしてマルクスその人においても、柄谷の主張するように、「交換」を基礎にして構成されているのか、それとも「生産」を基礎にして構成されているのか、ということであろう。さらに、それ以前の問題としていえば、既述のようにマルクスは、上部構造の相対的自律性を論じていたにもかかわらず、それを知らないはずのない柄谷は、意図的に土台=上部構造論を「決定論」だとし、マルクスの基本概念を恣意的に操作しているようにしか見えないのである。

3.交換様式をめぐる四つのタイポロジー
 かくして柄谷においては、本来、マルクスにおいて「生産」と深く結びついていたはずの「交通」が、いつの間にか「交換」とほぼ同義語として使われていく。さらに柄谷は、ここで「交換様式」を四つのタイプに分類する。すなわち、A互酬、B略取と再分配、C商品交換、およびそれらを越える何かとしてのDである。この中で、通常「交換」と考えられるのは商品交換、すなわち交換様式Cである。だが、共同体の内部で見られるのは、そうした交換ではなく、贈与とお返しという互酬交換、すなわち交換様式Aである。第二に、交換様式Bは、一見すると交換とは見えないようなタイプのものであって、被支配者が支配者に服従することによって保護を得るといったときの交換である。国家はこのような交換様式Bにもとづいているがゆえに、ここでの交換は暴力的強制によるが、とはいえたんなる略奪ではない。ここで被支配者は支配者によって強制的に課税されるが、それはある程度、公共事業・福祉などを通して「再分配」された、服従‐保護という交換である。第三に、交換様式Cは、Bとは異なる自由で対等な交換であるが、この交換は物々交換ではなく、貨幣と商品の交換では対等でない。他方、貨幣と商品は異なるものであり、貨幣をもつ者と商品をもつ者との関係では、貨幣は商品になっても、商品は貨幣になるとは限らない点で非対称である。だが、労働力商品との関係では、貨幣で労働力を買う側は資本家であり、それを売る側は賃労働者となる。ここで資本は、この労働者に労働させることで剰余価値を得る。かくして、ここでは資本家と労働者という階級的関係が生じるものの、これはBのそれとは異なるタイプの階級関係として分類された。ここで資本が労働力商品を買うということは、双方の合意であり、その価格は需要と供給によって決まるのであり、資本が剰余価値を得るといっても、労働者を不当に強制するからではないことになる。そのことを前提にして、柄谷は次のように続ける。

「なぜいかにして資本は剰余価値を獲得できるのか。資本の蓄積は、生産様式の観点からでは、つまり、生産手段をもつ資本と生産手段をもたないプロレタリアの階級的関係というような見方によっては、理解できない。私の考えでは、産業資本の蓄積は、商人資本に遡って考える必要があります。商人資本(M-C-M’)は、ある価値体系の中で買ってきた物を、それがより高い価値をもつ別の価値体系で売ることによって差額(剰余価値)を得ます。商人資本は、安いものを高く売るといって非難されるけれども、そうではない。それぞれの地域では、等価交換がなされる。ただ、両者を媒介することで、差額が得られるのです」9。

このように柄谷は、もともと「商品」という交換手段を媒介として成り立つ商業資本だけでなく、「労働」という生産主体を媒介とする「生産関係」、そしてそれを基礎に成り立つ産業資本についても、「生産様式」ではなく、「交換様式」が支配的であるかのように描いていく。仮にプロレタリアの「階級関係」という見方が誤りだとしても、ここでは生産が労働によって媒介されて成り立っているという事実そのものが捨象されるのである。それゆえに柄谷は、商人資本と同様に、産業資本も価値体系の差異から差額を得つつも、商人資本とは違って、産業資本の蓄積が主として特殊な商品にもとづいていることをみて取った。つまり、産業資本は、労働者に賃金を払って協働させ、さらに彼らが作った商品を彼ら自身に買い戻させ、そこに生じる差額によって増殖するのである。ここで産業資本は、協働や技術革新によって、相対的に労働力の価値を下げていく。なぜなら、価値体系が「時間的に」差異化されるため、それぞれが等価交換であるのに、差額が生じてくるからであるという。だが、あたかも西側先進資本主義社会の一国の国民経済において、労働の「相対的」価値が生産と消費過程の「時間的差異化」によって「交換」が「生産」そのものと同じ価値を持ちうるかのように見えたとしても、ここでの労働力の価値とは、グローバリゼーションの下で存在している発展途上国で搾取され、隠蔽された、もう一つの労働力の価値(「差額」)によって「絶対的に」相殺されているというべきである。しかるに、ここでは柄谷のいう交換様式Cの浸透によって、国家も変化していき、Cのような形式を装うようになっていく。たとえば、封建的あるいは経済外的な強制は否定され、国家は全員の合意、社会契約によるものと見なされるようになり、近代国家としての<資本=ネーション=国家>の構造となっていった、というのである10。

最後に、交換様式Dとは、交換様式Aが交換様式B・Cによって解体されたのちに、それを高次元で回復したものである。いいかえれば、互酬原理によって成り立つ社会が国家の支配や貨幣経済の浸透によって解体されたとき、そこにあった互酬的=相互扶助的な関係を高次元で回復するものが、Dである。柄谷にとってDがとりわけ重要なのは、それがネーションと同様に想像的なものでありつつも、たんなる人間の願望や想像ではなく、むしろ人間の意志に反して課される命令=義務(カント)として生まれてくるからである11。だが、のちに見るように、この交換関係Dは歴史的事実にもとづく発展段階論をほとんど度外視した、いわば超歴史的「ブラック・ボックス」として扱われていることに根本的な問題があるというべきである。


1. 柄谷行人『世界史の構造』(岩波書店、2010年)、序文。
2. 同『帝国の構造』(青土社、2014年)、12頁。
3.同、12-13頁。
4.同、20頁。
5.同、21頁。
6.同。
7.同、23頁。
8.同、24頁。
9.同、26頁。
10.同、27頁。
11.同、28頁。

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