8.中国革命と「アジア的復古」
旧帝国で起こった二〇世紀の代表的革命が中国の革命であるが、柄谷にとって「高次の回復」の意味で重要なのは、「近代的」国民国家を目指した孫文の「辛亥革命」ではなく、ここでもまた、それとはまったく逆に、「アジア的復古」をもたらした毛沢東による「中国革命」である。そもそも、一九九〇年代にいたってソ連が崩壊し、ユーゴスラビア連邦でさえ崩壊する一方、中国の体制が崩壊しなかったのはいったいなぜなのか。柄谷によれば、孫文は最初西洋の近代国家の観念にもとづいて中国の革命を考えていたものの、清朝は辛亥革命(一九一一年)で倒れた。だが、その結果共和制はまったく機能せず、軍閥が乱立し、その一人、袁世凱が一九一五年には帝政を復活して、中華帝国大皇帝に即位した。それに対して孫文は、ロシア革命の影響の下、中国革命のヴィジョンを修正し、レーニンと交流し、また「連邦」による国家を構想していった。ところが、孫文の死後、彼の思想にあった西洋的近代国家建設と社会主義革命という二つの要素を蒋介石と陳独秀が受け継いだものの、結局、中国に社会主義革命を実現したのは毛沢東だった。だが、たとえ毛が農民・農村革命を主張したのが事実だとしても、柄谷のいうように、彼が「一貫して共産党指導部から排除された」というのは事実に反する。むしろ毛は、コミンテルンとの関係においてスターリンに忠誠を誓うかたちで「正統」の立場を確立したうえで、その後はじめて「独自の」(=異端の)路線を歩んだのである30。たしかに、毛沢東が農民による革命を考えたことは、それまでのマルクス主義の理論に反しているし、彼がそれを考えたのが、たんに現実に貧農が圧倒的多数の存在だったからだけではないのも事実であろう。しかも、柄谷がいうように、毛は中国の社会的政治的構造と歴史に通じていたのであり、王朝の交替期には必ず農民・流民の反乱があったように、農民らに支持され、また土地改革(均分化)を掲げることによって、新たな皇帝として歴史の舞台に現れたのである。だが、それらが仮にすべて事実であったとしても、この事実に対する以下のような柄谷の価値評価は、完全に倒錯しているといわざるを得ない。
「毛沢東の政権も同様です。孫文や陳独秀らが西洋モデルで考えていたのに対して、毛沢東は帝国の経験に立脚したといえます。中国では、王朝の交替は「易姓革命」であり、新王朝には正統性が要求されます。その正統性は、天命=民意にもとづくこと、また、版図を維持ないし拡大することにあります。毛沢東による革命は、マルクス主義から見ると異例のものですが、中国の「革命」観念には合致しています。その意味で、毛の社会主義は「中国的な特色をもった社会主義」なのです」31。
ここで柄谷が主張するように、毛の政策には、たんにマルクス主義にもとづくのではない「正統性」があり、ソ連でマルクス主義者の政権が滅んだのに中国で壊れなかったのがそのためだったことを仮に認めるとしても、問題は現在の中国共産党の「正統史観」とまたく同じように、柄谷がそれをそれでよしとしていることである。すなわち柄谷は、その統治を正当化するのに、「経済的発展と社会主義」という二つの条件が必要とされたが、これらは根本的に背反するものであり、経済的に発展しないならば、他国に従属することになるとした。さらに王朝としての正統性を失ってしまう一方、経済的に発展すれば、階級的・地域的不平等が生じ、それは多民族の不平等に帰結し、民族の自決、帝国の解体をもたらし、それによって「王朝としての正統性が失われてしまう」というのである。これはまさに、現在の中華人民「共和国」を否定し、「帝国」の復古を肯定しているという意味で、社会主義革命の否定であるだけでなく、アジア初の「共和制」を打ち立てた「辛亥革命」の否定ですらある。さらに驚くべきは、次のような記述である。
「最初の一〇年間に著しい経済成長があったのですが、それはまた階級の格差、都市と農村の格差、諸民族の格差をもたらしたわけです。それに対して、毛沢東は「継続革命」を唱え、急進的な平等化をはかった。それが「文化革命」です。この継続革命はたんにトロツキーないしマルクス主義者の継続革命(永続革命)の観念によるのではありません。それは中国における易姓革命の伝統に根ざしています。中国以外では、マルクス主義者の政権はそんなことを企てなかったし、しなくてもすんだのです。しかし、中国の政権はそれを実行しなければならなかった。それらの違いは、一九八九年の時点で明瞭になります。東欧やソ連圏では諸民族が独立しました。これらの地域で連邦国家が存続しえたのは、民族より階級を重視する社会主義を志向していたからですが、階級的格差が広がり、それが民族的格差に転化するようになってしまった。そうなれば、諸民族に分解してしまうことは避けられない。一方、中国ではそういうことにはならなかった。それは、すでに批判が起こっていたとはいえ、「文化革命」の遺産が実質的に残っていたからです」32。
1949年の中華人民共和国成立から1952年までの間にわずかながらの経済成長があったとすれば、たしかにそれは新国家建設と土地改革によって希望に燃えた農民や労働者による生産意欲の向上ゆえだったのかもしれない。だが、毛沢東による「農業の集団(人民公社)化」は、農民にとっては、ようやく自分のものになった農地を「公有化」の名の下で再び取り上げられることを意味していた。灌漑事業などの共同作業に協力した農民たちも「土地の公有化」に抵抗したのはある意味で当然のことであろう。ここで柄谷のいう「著しい経済成長」とは、「反右派闘争」(1957年)など、毛沢東の熾烈な反対派攻撃の中で、毛沢東が掲げる目標に反対できる者が誰もいなくなったうえに、各地方の幹部が失脚させられるのを怖れて虚偽の報告を行った結果としての、いわば見せかけの「経済成長」であるにすぎない。さらに「大躍進」(1958年~)では「イギリスに追いつけ追い越せ」と鉄を作ることを命じられた農民たちは、農作業そっちのけで「土法高炉」による製鉄に精を出した。農民に原料となる鉄鉱石や砂鉄が必要な量確保できるはずはなく、しかも作られた鉄の原料の多くがくず鉄であった。これによる食糧生産の減少は、中国国内に大規模な飢餓状況をもたらし、1,500万人とも、3000万人ともいわれる餓死者をだしていったのである。こうした苦難の10年のことを柄谷は、「著しい経済成長」をもたらし、あたかもそこに資本主義(新民主主義)的高度経済成長があって、その結果、まるで現在のような経済格差が生じたかのように描き出しているのである。しかもこのあとの文革(1966年~)とは、「大躍進」政策の失敗への政治責任を問われつつ、権力を失いかけていた毛沢東が発動した奪権闘争であったにもかかわらず、これを「「継続革命」を唱え、急進的な平等化をはかった」などと評するという言説は、あまりにも現実とそれに対する結果責任(M.ウェーバー)を無視した、ほとんど妄想に等しいものだといわざるを得ない。
鄧小平や趙紫陽らがそう考えたように、文革をいかに評価するかという問題は、これまで東洋的専制主義の問題を考える上でのきわめて重要な試金石となってきた。こうした文革に対する深い反省にもとづき、中国国内ではかつて80年代の初め、封建的専制主義をめぐる議論が活発化していた。だが、柄谷がターニングポイントとする1989年以降は、東洋的専制主義の問題を考える上でのさらに重要な試金石として、天安門事件(1989年)が新たに付け加えられた。たとえば、この89年の民主化運動に参加し、その政局の展開に重要な役割を果たした劉暁波も、反専制主義の立場を中国の知識人の一般的傾向としてとらえている。たしかに、知識人は文革後、誰もが文革に対して否定的な態度を取り、それが中国史上空前の大災禍あると主張したが、劉暁波によれば、この文革を否定している「主流」こそが、文革をもたらした専制政治を擁護し、その「人治」の伝統を擁護している人々である。それはこれまでの中国史において、長期にわたる専制主義社会の体制の根底には手をつけず、皇帝や貪官汚吏に対する批判と同じように、「名君」によって「暗君」を否定し、「清官」によって「貪官」を否定し、つまり専制主義の「精華」によって専制主義の「糟粕」を否定するものである。「中国は歴史上、秦代から現代にいたるまでの政治闘争は、すべて専制政権内部における権力と利益を争奪する角逐であった。こうした専制主義の内部闘争は、たとえどれほど非人間的なまでに残酷なものであろうと、いわゆる正義と邪悪、進歩と保守の是非の争いではなく、ましてや正しい路線と間違った路線との争いなどではない。それはただ最高権力を争奪する闘争にすぎず、中国の歴史上のたび重なる宮廷政変や農民蜂起と同じである」33。劉暁波はだからこそ、毛沢東のいう「上から」の「大民主」や恣意的「放縦」ではなく、規範性のともなった「下から」の自由や民主主義、そして人権といった普遍的価値の創出を主張したのである。
だが、驚くべきことに、柄谷はこれとはまったく逆に、共産党政権の中国を「王朝」に見立て、その「前近代的」帝国のあり方を基本的に擁護しつつ、世界の社会主義国家が崩壊していった1989年以降にも同政権が維持してきたことが「文化大革命の遺産」の残存ゆえであるとしているのである。つまり柄谷は、毛沢東による悪しき「平等」主義の原理にもとづく大衆動員(=扇動)という中国的「民主主義」概念を擁護しつつ、文革という「前近代的」非合理性の噴出をめぐり、そのことをもたらした執行政権の維持そのものを正当化していったことになる。しかも、天安門事件で民主化を弾圧した当局とともに、民族問題すら階級問題に還元し、本来は民主化ができないからこそ民族問題が発生しているにもかかわらず、まるで民主化そのものが民族問題を発生させ、その独立を回避するために天安門事件という武力弾圧が行われたかのように記しているのである。さらに柄谷は、現代の「東洋的専制国家」を間接的に擁護しつつ、次のように述べる。
「中国に必要なのは、近代資本主義国家に固有の自由民主主義を実現することではなく、むしろ『帝国』を再建築することです。もし中国に自由民主主義的な体制ができるなら、少数民族が独立するだけなく、漢族も地域的な諸勢力に分解してしまうでしょう。いかに民主主義的であろうと、そのような事態を招くような政権は支持されない。つまり天命=民意にもとづく正統性をもちえない。ゆえに、長続きしないでしょう。のみならず、そのような方向をとることは、世界史的な観点からも見ても愚かしい。しかし、その結果として、中国が多数の民族国家に分解してしまうとしたら、それによって近代的な国民国家ができるとしても、そこには「正統性」がない、つまり、天命=民意の支持が得られないでしょう」34。
ここで柄谷は、あたかも溝口雄三が「中国に独自の近代」を評価したように、中国と西洋という二元論の中でしか、中国における「自由民主主義」の具体的なあり方を模索できないでいる。それゆえに柄谷は、近代リベラル・デモクラシーの価値をもっぱら西洋近代独自の「自由民主主義」としてしか理解できず、それが本来的に有している一定の普遍的「規範性」を意識的に排除していった。その結果、柄谷はただでさえ人権抑圧の契機が「永続的政体」(モンテスキュー)の内部に根付いている「専制国家」のさらなる「長続き」に期待し、それを世界史の枠組みのなかですら擁護するという倒錯を、すんなりとやりとげてしまうのである。こうした柄谷による昨今の虚偽に満ち溢れた中国社会論は、既述のような、戦後日本の中国研究者らによって設定された「伝統と近代」というもう一つの対立軸の中で、「前近代」の問題性が「中性化」され、「前近代的遺制」があたかも「社会主義革命」によってすでに克服済みであるかのように扱われたのとまったく軌を一にするものである。
おわりに
これまで見てきたように、柄谷の「帝国」論においては、「東洋的専制国家」の成立がアジア的構成体の「交換様式」論によって解明されているように見えながら、実際のところ、それはあたかも「生産」なくして「交換」そのものが成立しているがごとき、いわば物象化された「錯視」を体系化した虚偽意識にすぎない。それゆえに、この「交換様式」によって成り立つ「社会構成体」には、「生産」を媒介する「労働」の概念が完全に欠落し、この「労働」の主体たる近代労働者=プロレタリアートが消失し、したがって、そうした「生産」に携わる近代的主体によって構成される「市民社会」も存在しない、ということにならざるを得ない。たしかに、柄谷は平田清明らがかつて強調したマルクスの「交通」の概念を多用してはいるものの、それをもっぱら「交換関係」に還元してしまい、その結果、人間の個体的労働によって媒介された「生産関係」と不可分ものとしてあった「交通」、さらに市民社会的アソシアシオン(連帯)を可能にする人と人との「交通関係」を完全にないがしろにしてしまったのである。だが、本来「交通」とは、「分業としての生産諸力が発展して、商品生産という形態での社会的生産の様式が成立・展開することによって、社会の支配的な交通様式になる」(平田清明)ものとして、「生産」そのものと切っても切れない関係にある35。これに対して、柄谷による「交換関係」にもとづく「社会構成体」とは、仮に存在しえたとしても、せいぜいのところ従属論的途上国にその生産拠点と市場を擁する西側先進資本主義社会においてのみであり、そこからアジア的生産様式を導き出すこと自体、土台無理があるというべきであろう36。つまり、ここには「専制国家と市民社会」(=「前近代と近代」)というマルクスのアジア社会論における対立軸が最初から消失しており、「前近代的」遺制が現存するという事実がまるごと隠蔽されてしまうのである。それは端的に一言でいえば、柄谷が「交換様式」の第一次性を強調することによって、マルクスの「生産様式」論をスターリニズム的なもう一つの「普遍性」概念によって完全に換骨奪胎してしまったことに由来している。
しかしながら、ネグリとハートが主張したように、本来、世界システムとしての「帝国」の生成とは、「帝国の頽廃と衰退を特徴付けるのと同じ条件にもとづいて実現するもの」であり、「今日『帝国』は、生産的ネットワークのグローバル化を支え、すべての権力諸関係をその世界秩序の内部に包み込もうと包括的な大網を投げ広げるような中心としてその姿を現している――だが、それと同時に『帝国』は、その秩序を脅かそうとする新しい野蛮人たちと反逆的な奴隷たちに対抗して、強力な保安(警察)的機能を配置する」という共通の「近代的」プロセスをともなうものである37。にもかかわらず柄谷は、世界システムとしての「帝国」概念が本来、こうした「下から」の市民社会的「反逆」を抑圧する単体国民国家としての「専制国家」に対する根源的批判を企図したものであるという事実を、完全に黙殺しているのである。
かつて「理性的なものは現実的なものであり、現実的なものは理性的である」と述べたヘーゲルは38、現存するすべてのものを「合理的なもの」として神聖化し、専制政治の支配する当時の反動的プロイセン政府を正当化する人物であるかのように理解された。当然のことながら、これに当時のプロイセン政府は大いに喜び、逆にリベラリストたちは憤った。これと同様に、すでに共産党一党独裁政権の下で『世界史の構造』と『帝国の構造』が翻訳、出版されている現代中国で、「紅い皇帝」と彼をとりまく人々は、これらの「大作」を大いに喜び、他方、その体制の下で抑圧されているリベラル(=改革)派の人々は、声を発することのできない閉ざされた地下空間でさぞや眉をひそめているにちがいない。エンゲルスはこの命題について、「この国家(=プロイセン国家)が合理的であり、理性にかなっているのは、それが必然的であるかぎりのことであって、そこで、その国家がそれにもかかわらずわれわれに悪いものだと思われ、しかもそれが悪いものなのに、存在しつづけるとすれば、政府の悪さは、これに対応する臣民たちの悪さのうちに、そうあるべき理由があ(る)」としている39。だが、皇帝の専制権力と権威とともにある柄谷には、そんな他国の下々の「臣民」のことなどおよそ蚊帳の外にあるのだろう。すべての社会的現実は、事物の運動と発展のなかで「非現実的なもの」となり、その必然的であったものがやがて合理性を失い、消滅してゆく運命にある一方、逆にそれらに代わって生成されつつある「現実性」が新たに立ち現れてくるからこそ、「理性的なもの」が「現実的」になるのである。したがって、「交換様式」によって基礎づけられた「帝国」論における柄谷は、つねに「現実的なもの」だけを「理性的」に見せかけているという点において、もっとも保守的なヘーゲルというよりも、むしろたんなる「ペテン師」(ウィットフォーゲル)にすら成り下がっているというべきなのかもしれない。
註
30. 前掲『帝国の構造』、168-169頁。なお、毛沢東がコミンテルンの正統派の流れを汲んでいたことについては、前掲『中国革命論のパラダイム転換――K.A.ウィットフォーゲルの「アジア的復古」をめぐり』、第2章「農民問題と「アジア的復古」」を参照。
31. 前掲『帝国の構造』、169頁。
32.同、170-171頁。
33. 劉暁波(野澤俊敬訳)『現代中国知識人批判』(徳間書店、1992年)、10頁。
34.前掲『帝国の構造』、171頁。
35.平田清明『市民社会と社会主義』(岩波書店、1969年)、57頁。
36. たとえば、柄谷の「交換様式」論と同じような論理構造を持つ吉本隆明の「消費的生産」(マルクス『経済学批判序説』)論は、一つの産業分野における生産工程の改善や付加とともに、生産と消費の空間的遅延や時間的遅延の共時化によって、新たな消費が生産そのものと同様の価値を生み出すとしている(吉本隆明「消費論」、『ハイ・イメージ論III』筑摩書房、2003年所収)。だが、吉本の「消費=生産」論は、高度資本主義社会(「産業高次化社会」)のみに限定して論じられている点で、柄谷の「交換様式」論よりもはるかに現実的説得力をもつものである。
37. A.ネグり、M. ハート(水島一憲[他]訳)『帝国』(以文社、2003年)、37頁。
38. 前掲『法の哲学』(中央公論新社、2001年)、4頁。
39.エンゲルス(森宏一訳)『フォイエルバッハ論』(新日本出版社、1975年)、14頁。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study751:160717〕