柳条湖事件記念日に思ったこと

――八ヶ岳山麓から(267)――

今年9月18日の柳条湖事件(「九一八」)記念日は、日本ではどこにも記念行事はないけれども、中国でもあまり盛大ではなかったらしい。瀋陽市の「九一八歴史博物館」で約1000人が参列して記念式典が開かれたが、最高指導部は出席しなかった。現在日中関係の改善基調が続いており、習近平指導部は対日批判を抑制したとみられるという(時事2018・09・18)。
今年中国の記念行事が抑制的であったとしても、わたしは9月18日をむかえると、何かをいわずにはいられない気持になる。
いまから87年前の1931年9月18日、日本関東軍は中国遼寧省奉天(現瀋陽)近郊の柳条湖付近の満州鉄道を爆破し、これを中国軍によるものとして、ただちに満洲(遼寧・吉林・黒竜江の「東三省」)領有をめざす軍事行動を起した。満洲事変である。謀略の首謀者は板垣征四郎、石原莞爾ら関東軍高級参謀である。
満洲防衛の中国側責任者は、国民政府東北辺防軍司令の地位にあった張学良(1901~2001)である。彼はいったんは抗日を主張し、不満を持ちながら国民党蒋介石の「まず中国共産党を殲滅してのち日本と戦う(先安内後攘外)」という方針に従って東北軍を西に退かせた。
その後のことは去年「八ヶ岳山麓から(236)」に書いたのでくりかえさない。

馬占山(1883~1950)という土匪上がりの軍事指導者がいた。彼は張学良と違い、蒋介石に従わなかった。馬は吉林省懐徳県の貧農の子であった。少年時代に家出し土匪の群れに入ったが、その利発さからたちまち小集団の指揮者となった。
辛亥革命後治安が混乱するなか、自衛武装組織が満洲各地に生まれた。彼らは一種の任侠集団であり、守備範囲の郷村ではその務めを果たすが、外に出るとしばしば略奪、誘拐にはしった。これを中国では「土匪」というが、日本では匪賊とか馬賊という。区別はし難い。
日露戦争(1904~05)後、懐徳県の彼の馬賊集団は清朝に帰順した。彼は他の「土匪」討伐に功があって清朝正規軍の指揮官(少尉)となった。辛亥革命後は大小の武装集団を吸収して自軍に加え、戦功によって順調に出世し、26年には騎兵第17師団長、翌年には騎兵第2軍団長に昇進した。
1928年張学良の父張作霖が関東軍に列車を爆破されて死んだとき、彼の上官呉俊陞も犠牲となった。彼は号泣して親切だった上官の死を悼んだ。張作霖の地位を継いだ張学良によって、彼は黒竜江沿岸の黒河備司令官に任命された。対岸はブラゴベシチェンスクである。
1931年日本関東軍は、柳条湖事件発生とともに迅速に遼寧・吉林両省を制圧したが、黒竜江省攻略はソ連と国境を接するため慎重になった。さいわい洮遼鎮守使張海鵬が日本側についたので、彼の部隊武器を援助して軍事行動を起させた。

九一八以降、張学良は北京で情勢を観望していた。だが馬占山は黒竜江省軍総司令官に任命されるや、黒河から南下し、10月19日省都チチハルに到着した。張学良の東北軍がほとんど無抵抗で退却して、中国人を落胆させたのに対し、馬占山はチチハル防衛、抗日の旗幟を鮮明にした。
10月26日張海鵬の3個連隊が戦略拠点の嫩江(どんこう)鉄橋対岸に近づいたとき、これに砲撃を加えて満州事変最大の戦い「江橋抗戦」を開始した。馬軍はこの戦いに勝利して、抗日を望んだ中国人の熱い期待に応えた。
しかし関東軍が本格的に参戦すると、武器などの補給が得られないなか、馬軍はじょじょに敗北をかさね、残存部隊2万は海倫に後退した。関東軍は匪賊上がりの張景恵を傀儡の黒竜江省省長とし、馬占山にも帰順すれば高官として処遇すると誘ってきた。張景恵はのちに満洲国国務総理となった人物である。
1931年末馬軍が関東軍に包囲されるなか、翌年1月には錦州が陥落、満洲全体が日本の手に落ちた。馬占山は孤立し屈服を迫られた。そして彼は屈服した。32年2月にはチチハルで満洲国黒竜江省省長に就任して抗日を切望する中国軍民をいたく失望させた。

ところが彼は40日足らずで、再び抗日の道に還ったのである。なぜか明確な理由はわからない。日本の傀儡となった満洲国高官らの醜態、日本人の傲慢さに嫌気がさしたともいうし、息子の父の変節を咎める手紙がきっかけともいわれる。
32年4月彼はひそかにチチハルを脱出して黒河にもどり、各地の義勇軍、救国軍、「大刀会」といわれる集団、つまり馬賊・土匪の類もふくめた愛国勢力を結集して抗日連軍を作り、5月には再び抗日に決起した。
馬軍は、一時はハルビン郊外に迫る勢いだったが、7月関東軍との3昼夜にわたる激戦ののち敗走した。このとき関東軍は馬軍指揮官韓家麟が戦死したのを馬占山と誤認し、これを昭和天皇に上奏した。
馬軍兵士らはすでに疲労困憊していた。やむをえず1932年12月彼らは黒竜江を渡りシベリアに入った。部隊の一部は新疆へ行ったが、馬占山はその後ヨーロッパ、シンガポールを経由して33年6月上海に上陸した。馬占山生還のニュースは日本軍を驚かせ当惑させ、中国人を喜ばせた。
35年12月には学生の「一二九抗日救亡運動」が起きた。蒋介石が日本の侵略に妥協するたびに中国では反対運動が起きてきたが、これはそのひとつである。
36年馬占山は西安にゆき、張学良、楊虎城に歓迎された。だが彼ら二人はその2日後の12月12日蒋介石を軟禁し、敗北主義を捨て抗日に立上るよう要求した。いわゆる西安事件である。
1937年7月7日盧溝橋事件が起きた。戦火は中国本土に拡大した。馬占山は東北挺進軍司令官となり、8月山西省大同に司令部を置いたが、9月には大同が陥落した。彼が東北に帰ったのは、1945年に日本が無条件降伏をしてからのことであった。
48年彼は病のため北京に行った。国共内戦に中共が勝利すると、馬は人民解放軍の北京無血入城のために尽力し、1950年11月29日一生を終えた。

今日中国の近現代史では、光はおもに中共系の人物とその行動にあてられている。たとえば東北における抗日ゲリラの指導者、中共党員の楊靖宇(1905~1940)は、1940年2月関東軍に追い詰められて長白山(白頭山)中で戦死した。抗日英雄として彼を記念し吉林省には靖宇県がある。
だが国民党系の軍に属したものは抗日戦に参加しても、文化大革命期には迫害を受け、悪ければ殺された。文革終了以後、馬占山系の元抗日兵士らはどんな扱いを受けているだろうか。いまも日陰者だろうか。
10万の東北軍兵士は東三省から山西、陝西へ退いた。彼らは抗日を望んだが、蒋介石の「剿共(中共殲滅)」作戦に動員され、陝西省を中心に中国各地を転々とした。西安事件以後は張学良という指揮者を失い、国民党からは厄介者として分散され消滅した。中共支配下で、彼らもまた迫害されたのだろうか。
故郷をしのんで彼らが歌った歌はせつない。

わが故郷はスンガリー川(松花江)の彼方
はるかなる黒龍江のほとり
懐かしい小さな家
粟黍、大豆、高粱
……
父よ、母よ
幼い弟、妹よ
また会えるのはいつの日か
また小さな部屋で共に暮らせるのか
(J.バートラム『西安事件』太平出版社、1973年)
(2018・09・29記)

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