ーー八ヶ岳山麓から(440)ーー
このたび日本共産党出版局から出版された 『日本共産党の百年』(以下『百年史』)をようやく入手することができた。専制主義的天皇制のもと、天皇制の打倒と労働者階級の解放とプロレタリア独裁をめざして出発した政党が、百年を経て今日なお存在するという事実には感服のほかない。
すでに共産党百年史は、いろいろな人が書いているが、わたしには、1950年代後半以後の断片的な事実について感想を述べる力しかない。
政治路線
宮本顕治は、1950年に分裂した党の結集を図り、61年綱領を起草した。綱領の「わが国は、高度な資本主義国でありながら、アメリカになかば占領された事実上の従属国となっている」という規定は長命を保った。この綱領は、「日本人民の敵は、日本独占資本とアメリカ帝国主義の二つである」とするとともに、次なる革命は社会主義ではなく、「人民的議会主義」による「民族民主革命」とした。
共産党は、60年代にソ連と中国二つの共産党の権威をしりぞけ、独立路線を歩んだ。毛沢東の文化大革命に際して言論人・マスメディアの多くが追随するなか、毅然として批判をしたのは、日本共産党と産経新聞だけだった。
東欧革命とソ連の崩壊に直面してヨーロッパ各国のマルクス主義政党は、あるいは社会民主主義に衣替えし、あるいは衰退し、あるいは消滅したが、日本共産党は衰えたとはいえ、今日なお命脈を保っている。
2004年不破哲三は、宮本路線を継承しながらも綱領を大幅に改定した。現行天皇制を肯定し憲法の全条文を擁護するとしたほか、「帝国主義」については、「その国の政策と行動に侵略性が現れること」を指標とし、「アメリカの将来を固定的に見ない」としている。伝統的なアメリカ敵視を改めようとした底意がわかる。
またマルクス・エンゲルスの社会主義と共産主義の二つの段階区分をなくし、社会主義変革をただ「生産手段の社会化」とだけ定義した。これをもってマルクスを根源的にとらえなおしたとか、マルクス主義の創造とみることは、わたしにはできない。
今日の共産党を見ると、コミンテルンの日本支部として出発した政党ではあるが、その遺産として相続しているものは、党名と党規約の民主的中央集権主義(民主集中制)だけである。
新左翼問題
『百年史』には、新左翼について「党は、また、ニセ『左翼』集団にたいして、彼らが『共産主義』を偽装する暴力集団であり、挑発攪乱者であることを示し」これと戦ったとしか記していない。だが、一時学生運動を席巻した新左翼は、1950年代スターリン批判を契機として学生党員のなかから反共産党集団として生まれたものである。
彼らは四分五裂しながらも、60年代から10年余は命脈を保ち、大学における学問研究を破壊し、殺し合い、労働運動にも一定の影響を与えた。共産党ほど彼らと対立抗争した政党はほかにない。これが生まれ、成長し、消滅した「わけ」をなぜ書かなかったのか。
新日和見主義事件
1972年、反党分派を形成したとして、民青(日本民主青年同盟)を中心に通信社や出版社の社員をふくむ600人余りが党中央によって長時間の過酷な取調べ(査問)を受け、そのうち100人以上が除名された。
この事件を共産党は「新日和見主義」としたが、関係者によると、分派活動は数人が企図しただけで、それも政策や組織ができあがる以前の「星雲状態」にあった。分派参加を疑われて処分されたもののほとんどは冤罪だったという。党中央とともに分派摘発の先頭に立った県委員長の何人かは、その後公安警察のスパイだったことがあきらかになった。
事件当時、民青は同盟員20万余を数えたが、この事件によって優秀な活動家が民青から去ったために衰退し今日の沈滞につながった。『百年史』は、この事件を一行も書いていない。
平和運動への介入
原水禁運動は、ソ連の核実験をめぐって63年に共産党系の原水爆禁止日本協議会(原水協)と、旧社会党・総評系の原水爆禁止日本国民会議(原水禁)に分裂したが、77年からは世界大会は毎年夏に統一開催されていた。
吉田嘉清は原水協代表理事として、原水禁と市民団体の統一行動を推進してきたが、1984年これに反対する共産党系理事から辞任要求が出された。
吉田は「大衆団体と反核運動への共産党の不当介入」などと反論したが、これによって彼は党の方針に従わないとして除名、吉田を擁護した哲学者古在由重は除籍となった。吉田の主張を出版した党員2人も除名された。
『百年史』は、「86年の大会を前に、総評・原水禁は核兵器廃絶を緊急課題とすることなどに反対し、脱落しました」と書いているが、事実を曲げている。結局原水協・原水禁は「再分裂」し、86年以降、別々の原水爆禁止世界大会を催している。
チャウシェスク礼賛
1971年に党代表団がルーマニアを訪問してから89年の天安門事件まで、日本共産党はルーマニアの党と兄弟党関係にあった。宮本顕治は、ルーマニアがソ連と一線を画し自主独立路線をとっていると称賛し、チャウシェスクと共同声明を発表した。
当時からチャウシェスクの悪政については、共産党のブカレスト駐在員から情報がもたらされていたが、宮本らはそれを無視したのである。
1989年11月ベルリンの壁が崩壊して1ヶ月半後の12月25日、独裁者チャウシェスクは銃殺された。『百年史』は、過去友好関係にあった事実を書かず、チャウシェスクの悪事だけを書いている。
ソ連礼賛の過去
91年9月1日、共産党の常任幹部会は、「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する――ソ連共産党の解体にさいして」 という声明を発表して、ソ連崩壊は「もろ手を挙げて歓迎すべき歴史的出来事である」といった。
だが共産党は、かつてスターリンを天才と持ち上げ、ソ連を天国のように宣伝し、米ソ冷戦のなか、平和、独立、社会進歩のために戦う指導者のようにあつかった。そして、日本人のシベリア抑留の過酷な生活について率直に語る人々を敵視した。
これは日本中に知られた事実だ。だが、『百年史』はむかしを語らない。
この声明で「過去、ソ連を持ち上げたのは間違いだった」と一言いえば、共産党はいさぎよいと感じた人もいただろう。ソ連礼賛の「わけ」を語ったら、この声明によって離党した人はもっと少なかっただろう。
中国びいき
不破哲三が主導した2004年綱領には、中国・ベトナム・キューバなどの「現存社会主義」について、「(この3国では)社会主義をめざす新しい探求が開始」され、「人口が13億を超える大きな地域での発展として、21世紀の世界史の重要な流れのひとつになろうとしている」 という文言があった。さらに不破は、中国は新しい社会主義に向かって社会主義的計画経済と市場経済を創造的に結合していると持ち上げた。
私は当時中国にいたが、そんな状況はどこにもなかった。新自由主義の下、権力とカネのある者は富み、無権無産の民はあくまで貧しかった。
2020年党大会は綱領から「社会主義をめざす新しい探求が開始された国」という文言を削除した。理由は中国が大国主義・覇権主義の間違いを犯しているからだという。
上の文言は、『百年史』の2004年綱領について論じたところにはない。20年の綱領改定を記載したところにはじめてあらわれる。
党大会で綱領改定の報告をした志位和夫は、「2004年に中国をあのように規定したことには根拠があった」とした。だが、根拠なるものを示すことはできなかった。
この誤った規定は、16年間下部党員を苦しめた。「日本共産党は中国共産党と同じだ」とか、「中国を支持している」という印象を日本社会に与え続けたからである。
米中国交回復以後、アメリカの対中国外交は、「関与(Engagement)政策」と呼ばれた。対中外交を担った人々は、「中国社会は経済成長によって中間層が肥大する、それは民主主義を登場させる」と期待していた。不破の対中国認識は、彼ら同様「夢」だったのである。そして見事に裏切られたのである。
おわりに
これは共産党の「自分史」である。だから気兼ねなく勝手に書ける。
『百年史』の筆者らは、共産党にとって都合の悪い事件や事実をあえて黙殺し、書いたとしても直接ではなく、「批判・克服した時点で書く」という手法を取っている。このために、今後の研究討論に堪えられるか疑われる部分が存在する。そのため、精彩を欠く、のっぺりした印象を受けたのはまことに残念である。(2023・08・28)
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