ほとんどあらゆる国内外のメディアは、スーチー政権のこの一年間の実績に対して厳しい評価を下しています。内戦終結のための和平交渉、宗教紛争―わけても国際社会から厳しい批判を浴びたロヒンジャ問題、一般国民の生活向上、言論の自由拡大、外資導入と経済改革、行財政改革等、どれをとっても国民の圧倒的な負託に応えられなかったのです。
しかしそれもこれも、出発点において明確な政治ビジョンや政治戦略をもちえず、かつ国民各層に組織的に根を下ろさないまま、国民の過剰な期待感に押されて能力に余る仕事に取り組まざるを得なかった結果だといえます。このような事態に立ち至ったのは、アウンサン・スーチーという指導者の人柄や能力と同時に、指導者の指示待ちというNLDの幹部団や一般党員、さらには指導者に白紙委任し何かしてくれるのを待つだけという国民の側の政治への関わり方にも問題があったからでしょう。民主化勢力の立て直しのためにはこれらのファクターに分析のメスを入れ、迅速に弱点克服の仕事に着手しなければなりません。もし万一スーチー政権が2020年を待たずに倒れるようなことがあれば、そのダメージは取り返しのつかないものになるでしょう。
本日はNLD政権の問題点をスーチー氏の人柄や手法に限定して分析し、ミャンマー民主化勢力の立て直しのための議論に資したいと思います。
<政治家としての基本姿勢の変化>
政権発足一周年を記念してのスーチー氏の短い演説は、言い訳じみていて迫力にもメッセージ性にも欠けるものでした。内戦終結へ向けた和平交渉や経済成長などの諸課題が未達成ではあるが、変革のためには国民の団結と協力が欠かせないのでよろしく頼むという趣旨でした。正直な感想として、この人はもうどうしていいか分からないのではないかとすら思いました。貴族的エリート意識と向こう意気の強さだけでは、50年におよぶ軍部独裁に浸潤された反国民的な官僚機構の手綱をとりつつ、ただでさえ複雑な宗教・民族構成をもつモザイク国家を管理運営するのは困難です。氏の内実を欠いた自信過剰と国民の度を越した指導者への依存感情こそ、改革と前進を阻んだ主体的要因だという自覚と反省が必要なのです。
私はスーチー氏の権力者としての基本的な構えが、タンシュエらの独裁者のそれに接近してきているのではないかと憂慮しています。たんなる経験不足、力量不足だけではなく、国政に向き合う観点が民主化・近代化という側面でもずれてきているのではないかと危惧しています。例えば、スーチー氏は民政移行期には特に「法の支配」が重要だと、一つ覚えのようにそれを強調しました。宗教紛争の解決にも「法の支配」、内戦終結にも「法の支配」が重要だと。法の支配が貫徹されないから紛争が起こり人権侵害も起こるといいますが、どうもトートロジー(同義反復)のようで、問題解決のための提案にはなっておりません。犯罪が起きるのは法が守られないからだ、という言い方と同じで、何も言っていないに等しいからです。社会紛争にはそれぞれ固有の原因があり、その特殊性を見極めて解決の方向性を与えることが政治家の役割のはずです。
「法の支配」の近代政治における本来の意味は、権力者の専制、横暴をふせぐために権力行使に一定の縛りをかけるということです。ところがスーチー氏の用い方では一般的な法治主義の意味に傾いており、法の支配の対象に権力者と国民を同等におく風が見られます。国民である以上法に従えというニュアンスが強くなっているのです。ミャンマーの2008年憲法は、国軍が文民政府のコントロール外にあることを保障しています。したがって全政治領域ではないにせよ、国軍による実効支配を保障している憲法においてはただでさえ縛りをかけるのが困難なのです。こうした実態に目をつぶって、国民に法の遵守を求めるスーチー氏の「法の支配」観は、軍政時代の悪法も法なりという観点に近いものになってしまっています。
<政治家能力の検証>
政治家能力というのは、家庭環境、社会的職業的経験、高い見識と豊富な知識、そして決定的な要因としての政治活動の経験などによって培われるものです。なるほどスーチー氏は家庭環境においては申し分ありませんでした。国父である父亡きあと母親はインド大使を務め、それについて行ったスーチー氏は若いころから外交官世界に触れあうことになります。未知なる国際的な外交の舞台でも堂々と振る舞えるのは、こうした育ちから来るものでしょう。
しかしその他についてはどうでしょう、研究者生活を経験しているとしても職業的研究者とはいえず、実質は家庭の主婦だったといっていいでしょう。近代的な大組織のなかでの経験は、国連での短期の仕事以外ありません。知識知見についてはどうでしょう。15年にも及ぶ自宅軟禁生活では読書の時間はたっぷりあったはずですが、その点についての情報はほとんどありません。ガンジーは晩年はともかく、1910年代20年代は獄中で何百冊も読破したといいますし、著作活動も行ない書簡も数多く出しています。国民会議派の組織運営の実際に直接タッチしていなかったにもかかわらず、勉強は怠らなかったのです。
正直いって、スーチー氏の政治言語の乏しさは、経済をはじめとする社会科学系の知識を系統的に研究し、分析の道具として使えるようにはなっていないことを表しています。これは民主化・近代化を責務とする実際政治家としては大きな欠点となります。ただでさえ宗教的な風土の優勢な国柄です、民主化・近代化の理論や実践例に通じていなければ、ビジョンの策定や政策立案にも不自由します。
もともと軍部独裁国家においては、民間人から政治的リーダー候補を選抜し陶冶するシステムは欠けていますから、スーチー氏ら民主化勢力の背負ったハンディキャップは非常に大きかったのです。しかしスーチー氏は未経験なだけに政治の怖さ、難しさを認識していないせいでしょう、独善的に振る舞うことが多々ありました。私はそれを称して失礼とは思いましたが、「裸の王様」と定義したのです。しかしようやく難しさが分かったときには、それに対処する術(すべ)を知らず、沈黙に逃げ込む以外手はなかったのです。当然ながら改革も一般行政も停滞することになりました。
スーチー氏の犯した最大の戦略的ミスは、国軍との距離の取り方を誤ったこと、さらには仏教徒過激派に対して厳しい態度を取らなかったことだと思います。そのため政治的にも思想的にも深い傷を負いました。辺境エリアでの武力紛争の激化にせよ、ラカイン州での宗教紛争にせよ、当事者であったり黒幕であったりするのは国軍です。国軍に対し影響力を行使して譲歩を強制することができなければ、大きな問題は解決しないのです。あるとき、氏は「大きな問題から解決していきましょう、小さな問題は大きな問題に決着がつけば、自ずと解決するのです」と言いました。事情を知らない大抵の外国人は、この発言を戦略的課題に優先して取り組む決意表明だと好意的に理解しました。しかし実際のねらいはそうではありませんでした。ロヒンジャ問題を小さな問題扱いにし、その解決のための努力をサボタージュする言い訳にすぎなかったのです。緊急の人道的介入が必要な時に、氏は問題の複雑さやデリケートさを理由に拱手傍観していたのです。そして国際的な批判が厳しくなると、調査委員会を次々立ち上げて時間稼ぎをし、批判が直に自分に向かわないように知恵を働かせました。現時点ではっきりしたことは、国民の支持を背にして国軍と渡り合うという強い意思なしには、妥協は相手側に取り込まれるだけに終わってしまうということです。
しかしなぜスーチー氏は民主的改革を阻む非協力勢力であるはずの国軍に対し、こうまで甘く妥協的だったのでしょうか。この点での私の忖度はこうです。端的に言うと、スーチー氏にはアウンサン将軍の嫡子であることからくる強い自尊心と道徳感情(ノブレス・オブリージュ)とともに、独立国ビルマ国軍の創業家意識があるからです。それはビルマ国軍は父が創設したものであり、その遺業を継ぐべき責務を自分は負っているとする使命感に通じるものです。しかし過剰な使命感は、ときに人をして現実を冷静に分析することを妨げることがあります。創業家当主たる自分を中心に一種の大家族として国軍を囲い込みたい、自分ならば国軍に言うことを聞かせられる そういう思い込みが潜んでいたように思われます。
また独立の英雄を父とするところからくる貴族感情、エリート意識についてですが、これがあるからこそ、20年以上に及ぶ迫害にスーチー氏は耐えることができたのです。国民と強いきずなで結ばれているという感情よりは、おそらく「高貴なる使命感」の方が強かったのでしょう。なぜなら16歳で国を離れてから30年のブランクを経ての帰国であり国民運動への参加だっただけに、母親のドキンチー氏との親子のきずなを別にすれば、具体的にミャンマー国民と触れ合う機会は極めて乏しかったでしょうから。
人格の深層に根差したこの特権意識からすれば、人権や民主主義についての西欧仕込みの知識はメッキにすぎなかったともいえます。ロヒンジャ族の悲惨な状況やレッパダウン農民の決死の闘いに対し眉一つ動かさないようにみえたのもそのせいだと思います。いずれにせよ、反体制人権活動家から現実政治家への転換は、同時に西欧志向から土着志向への転換――これは戦前日本で、多くのインテリゲンチャアが共産主義や自由主義から国粋主義へ転じた「転向」現象と重なるところがあります――でもあったわけです。土着志向の中身はと言えば、たとえばNLDが全国民の党というよりビルマ族仏教徒の党たる性格を強めたこと、NLDが党運営の実態においては公党というよりスーチー氏の私党的性格を強めたことなど、いずれもビルマ的精神風土に強い親和性を持つものです。
さらにスーチー氏の政治的未熟さ、独善性が強くマイナスとなって現れたのは、NLDの党建設やリーダー養成の面です。経験がないだけに、近代政党の仕組みをつくることもできず、イエスマンだけで側近集団を形成し、思いのままに振る舞いました。信じがたいことですが、スーチー氏の意向に逆らったため、党内の民主的手続きを経ずに更迭されたり除名されたりした幹部は一人や二人でありません。また側近幹部の傲慢さや見識の低さは軍政とさして変わらないと言いたくなるほどです。一周年にあたってNLDのスポークスマンであるウィンティン氏は、ミャンマーは一年以内に貧困から抜け出すであろうと大風呂敷を広げました。理由は、経済制裁解除で今後西側からの貿易が増えるであろうからというものです!しかしたとえ貿易が増えても輸入超過であれば貿易収支は改善せず、貧困の解消につながりません。いや、貿易収支が改善しても、直ちに貧困解消とはいきません。いずれにせよ、この幹部氏はミャンマーにおいて貧困を生み出す構造的メカニズムを何も理解しておらず、だからこそ平気で大風呂敷を広げられるのです。世界銀行によれば、ミャンマーは貧困率(一日の所得が1.25米ドル以下)が40%近いのですから、5%下げるだけでも大変な事業となります。スーチー氏の逃げ口上を見習ってか、側近幹部の口吻も不真面目で、言い逃れが目立ちます。市民社会が未形成で、したがって自立した知識人集団(マスメディア、出版ジャーナリズム、大学、研究機関等)が存在しない国では、なるほど自分の見識を有し誰に対してもものをいえる勇気ある党幹部を育てるのは大変ではあるでしょう。
<国民的政治指導者の条件>
卓越した国民的政治指導者には、理論的には時代が解決を要求する課題に最も適切に応えられる人間がなります。そして客観的条件としては、時代が転換期・変革期にあたり、旧来の政治的慣習や手法では問題が解決できない状況が必要です。さらには強力な政治・社会運動が存在し、そのなかから潜在的に大衆指導者に相応しい人物が選別され練磨され指導者に押し上げられていく過程とメカニズムが必要です。その意味で指導者は突然には生まれない、卓越した指導者が生まれるにはそれなりの熟成期間が必要なのです。時代が要求する政治課題に対応した政治理念やビジョンを構想して国民大衆にそれを提示し、それに基づく大衆的な組織化を可能にする能力を持った人間、それが民主的な指導者像です。
1988年の国民的決起以降のミャンマー民主化運動をみるとき、スーチー氏は政治的な指導者というより民主化のシンボルの役割を果たしてきたということは明らかです。NLDをはじめすべての民主化勢力が弾圧され、合法的な活動の余地がまったくなかった状況では、スーチー氏ら運動指導者を政治指導者として鍛え上げる条件は皆無でした。フィリピンのコラソン・アキノ大統領は、あの「ピープルズ・パワー革命」によって一夜にして一介の主婦から大統領に押し上げられてみたものの、当然ながら最高統治者の任に堪えませんでした。今それと似たような状況にミャンマーがなりつつあるように感じます。しかしフィリピンの場合は、アキノ大統領の後見人として軍を掌握するラモス将軍がついていましたが、ミャンマーでは基本的には国軍は民主化に好意的ではありません。スーチー氏が国民の信を失えば、リバイバルするのに躊躇するはずがありません。そうした不幸の繰り返しは何としてでも避けなければなりません。
最後に日本人のミャンマー民主化運動支援者も含め、心に留め置くべきことを述べておきます。
どの国でもそうですが、真の国民的な政治指導者をつくり上げるうえで、特定の人間の偶像視や個人崇拝は百害あって一利なしです。特にミャンマーの様な宗教的風土性の強い国では、政治的プロパガンダのために人々の内にある聖者崇拝感情を利用しようという誘惑に駆られやすいものです。NLDの大衆向け刊行物をみればわかるように、スーチー氏はまるでトップモデル扱いです。ビジョンでも政策でもなく、シンボル操作によって大衆の支持を獲得しようとする手法が蔓延しているのです。当然スーチー氏も分かっていて、スタイリスト仕立てでモデル然と振る舞うのです。それは大衆向けだからある程度はやむを得ないのでしょうか。インテリや教育ある層はこうした流れとは無縁なのでしょうか。ソ連や中国の個人崇拝の経験からいうと、個人崇拝を先導したインテリも最後はミイラ取りがミイラになり、自身が個人崇拝のとりこになる運命を免れません。
政治神話がどのようにして生まれるのか、一つの実例をみてみましょう。
1988年7月、アウンサン将軍の遺児であったスーチー氏が、突然何十万という聴衆の前に現れて演説を行いました。新しい国民的指導者を求めていた国民大衆は、これに熱狂しました。
――独立の英雄アウンサン将軍の娘であるスーチー氏が、病に倒れた母親の看病のために帰国し、偶然にもネウィン独裁体制打倒の国民的決起に際会することになった。まるで運命の糸に手繰り寄せられたように―実際に糸を引いたのは将軍の妻ドキンチ—であった―三十年のブランクののち母国へ帰還し、父アウンサン将軍の遺志を継いで国民的決起の先頭に立ったのだ。
不可思議な運命の巡り会わせ、これだけでも救国神話の成立には十分でしたが、このあと教育ある層にはたまらない有名なエピソードが語り広められました。
――ある88世代の活動家が、スーチー氏の演説のあったこの日家へ帰ると、居間に父親が座っていて息子にこう語りかけたそうです。「われわれはこんどこそ本当の指導者を持つことになったぞ」このとき父親の目からは涙が溢れ出ていたそうです。アウンサン将軍亡きあと40年も指導者に裏切られ続けてきた国民が、ようやく真の指導者にめぐり会えたと、感涙に打ち震えたのです。おそらくこのエピソードを読んだ人は、何人であろうとたいていもらい泣きをしたことでしょう。この国民が味わった親子二代数十年にわたる苦難を思い、指導者を持てた歓びに共感を禁じ得なかったからです。
しかしこれはほんとうに美談だったのでしょうか。私はNLDが合法化してのち、次第にスーチー氏はかっての氏ではなくなりつつあるのではないか、と思い始めました。それこそスーチー氏が現実的な政治家になりつつある証拠だという人もいましたが、しかしその変化は、改革のためにやむを得ない一時的後退や妥協とは違ったものだと直観的に感じました。
そうした折、ベックの有名な「仏教」という著作―大乗中心でなく、上座部仏教を評価したもの―を読んでいて、はっと気づいたことがありました。それはスーチー氏の登場の仕方が、いかにも釈迦生誕にまつわる伝説にそっくりだということでした。
――釈迦の母親であるマーヤ—妃がルンビニの園で釈迦を出産したとき、天と地で誕生を祝う奇跡が現れた。母親は七日後に亡くなったが、そのあと赤子である釈迦は父親である王のいる城に連れていかれた。そこへ吉兆を見て、わざわざ城を訪ねてきた年老いた仙人が、赤子をわが手に抱き上げると、急に泣き出した。王がどうして泣くのかと尋ねると、仙人は答えたという。「太子はきっと仏陀になって最高の悟り悟り、無数の者たちを輪廻の海から救い出して、彼岸へ、父子の至福のところに導いてくれるであろう」と。(ベック「仏教」上 岩波文庫)
先の親子エピソードはこの仏教説話をなぞったような形になっており、同じ神話的構造をもつものでした。片や幼子の姿に霊的世界の救済者の将来を読み取り、片やスーチー氏の姿に現実世界の救済者の登場を読み取ったのです。ミャンマー人たちは無意識のうちに、宗教的神話をベースにしてスーチー氏登場の意味を理解しようとしていたともいえるでしょう。
しかし現実には奇跡は起こりませんでした。政治指導者というものは、生まれたときから運命づけられているわけでもなく、一夜にしては生まれるわけでもないこと、真の指導者が生まれるためには国民自身の絶えざる切磋琢磨が必要だということが、スーチー政権の一年間ではっきりしたのです。「政府は国民に値する」という西欧の俚諺があります。政府のレベルと国民のレベルとは究極的には釣り合っているというのです。同じく福沢諭吉は「愚民の上に苛政あり」として、抑圧的専制と愚かな国民とは相関関係にあると喝破しました。指導者神話や個人崇拝に頼るような国では、国民はいつまでたっても幸福になれないということです。この自覚こそ、まさに民主主義の魂であります。真の指導者の選抜には、国民の政治的成熟が欠かせないのだという、この自覚の上に立って2020年までの憲法改正を戦略的な中心課題に据え直し、闘いを再編成する必要があるのです。政権党であるからといって自己批判や改革努力を忘れて行政的措置に偏ったやり方をしていると、官僚主義のとりこになってやがては国民から見放される、その可能性は決して低くないことを肝に銘じるべきなのです。そして何よりも大切なのは、初心にかえって改革の党としての姿勢を取り戻すことでありましょう。
2017年4月3日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔eye3983:170403〕