民主集中制の記憶

――八ヶ岳山麓から(450)――

はじめに
 共産党は、日本の他の政党と比べて、理論を大変に重んじる政党である。ところが、21世紀に入って指導者の不破哲三や志位和夫の議論に、マルクス主義か否かではなく、常識的にだれが考えても前後矛盾する主張が生まれている。これについては本ブログの拙論で指摘してきたが、来年1月の共産党第29回大会決議案にも、歴史上の事実とは異なる主張がある。
「わが党の民主集中制の原則は、外国から持ち込まれたものでなく、100年余の自らの歴史と経験を踏まえて築かれたものである」という文言である。

参考)現行の日本共産党規約では民主集中制は以下の通り。
1, 党の意思決定は、民主的な議論を尽くし、最終的には多数決で決める。
2, 決定されたことは、みんなでその実行にあたる。行動の統一は、国民に対する公党としての責任である。
3, すべての指導機関は、選挙によってつくられる。
4, 党内に派閥・分派は作らない。
5, 意見が違うことによって、組織的な排除を行ってはならない。

持ち込まれた民主集中制
 民主集中制はロシア革命の指導者レーニンによるが、それは1917年の革命前からではない。レーニンがこれを言い出したのは、革命後の内戦激化時代のことである。1920年7月第2回共産主義インタナショナル(コミンテルン)大会は、国際共産主義運動にヨーロッパ各国の社会民主党の中間派や無政府主義者が入るのを防ぐ目的で、加盟条件21ヶ条を決定した。そこには、「第12」として「共産主義インタナショナルに所属する党は、民主主義的『中央集権制』の原則にもとづいて建設されなければならない」と書かれている。
 日本共産党は、1922年7月15日、山川均・近藤栄蔵・高瀬潔らによって発足し、11月コミンテルンの日本支部として正式に承認された。これは政府の弾圧によって「解党」を余儀なくされ、今日まで続く党は、1926年12月山形県五色温泉での再建会議によるものである。
 戦前の共産党は、コミンテルンの日本支部として認められた存在だったのだから、規約は、「21ヶ条」の民主集中制によっていた。それはまぎれもなく「外国から持ち込まれたもの」である。世界中の共産党がそうしたのだから恥ずべきことではない。
  
6・1事件
 共産党第29回大会決議案は、民主集中制の遵守と分派禁止について大変熱を込めて書いている。松竹伸幸・鈴木元の除名問題があるからだ。わたしの記憶では、除名とか権利停止とか組織上の処分があったときは、その背後にかならずなにか論争があった。
 一番古い思い出は、1958年の「6・1事件」である。
 この年わたしは東京の大学へ入った。すると、いきなり高校同窓の上級生が共産党に入れといってきた。とまどっているうちに、6月1日学生党員会議があるとのことで、代々木の共産党本部に連れていかれた。
 そこでは、さすがに党員でないものを会議場に入れるわけにはいかなかったらしく、わたしは受付で待たされた。しばらくすると奥の方で怒鳴り合いや殴り合いらしい大きな音が聞こえ、間もなく2人が担ぎ出されてきた。一人は目が隠れ顔がゆがんでいた。
 殴られたのは常任幹部会員の紺野与次郎と学生部員の津島薫とのことであった。やったのは森田実や香山健一ら全学連主流派の党員で、事件後、まもなく彼らは除名された。
 このとき「鉄の規律」と民主集中制について上級生から教えられたが、わたしはそれどころではなかった。当時共産党を大変に尊敬していたので、党員が意見の違いで暴力をふるったのにいたく失望したのである。この事件は共産党の『百年史』にはない。
 森田・香山ら全学連幹部は、米軍立川基地拡張に反対する砂川闘争などを通して学生運動を急進化させたが、党中央はこれを危険と見なし、反対派を育成して全学連を統制下に置こうとした。森田らは党中央に反感を持つ学生党員を組織してフラクション(分派)を作り、彼らは6月1日不満を爆発させたのである。
 この事件は、反共産党・急進主義の新左翼集団登場のきっかけとなった。森田らはトロツキズムを取り入れて共産主義者同盟(ブント)を結成し、これから革命的共産主義者同盟(革共同)が分れ、それがまた中核派や革マルを生んだ。
 彼らは、60年安保闘争時には右翼から資金提供を受け、さらに見事に変節し、森田は保守派の政治評論家になり、香山は自民党のブレーンになる道を歩んだ。

綱領論争
 次に民主集中制問題に直面したのは、1950年代終わりからの共産党の綱領論争である。
 私のいた大学では、左翼の学生は、党員かどうかに関係なく、世界情勢や日本資本主義をどう見るかといった共産党綱領をめぐる論争に巻き込まれた。学生細胞(支部)は、宮本顕治起草の民族民主革命論を基調とする党章(綱領と規約)草案に批判的だった。わたしもそれに引きずられた。
 1961年帰郷したとき、小中学校の同級生が共産党の活動家になっていて、これと議論になった。わたしが幼稚な党章草案批判をすると、彼は「おまえの意見は党の上に個人をおくものだ」と批判した。わたしは驚いて、「個人の意見を言わなければ草案の議論にならないじゃないか」と反論したが無力だった。
 すでに共産党の中では、草案への反対意見は、民主集中制にそぐわない自由主義・分散主義として批判の対象になっていたのである。しかも党中央は、第7回党大会の代議員に党章草案反対派が選出されないように「合法的」に組織を動かした。論争の中、社会主義革命を唱えた春日庄次郎や神山茂夫、構造改革派の佐藤昇らの論客は、発言の場を奪われ離党した。幸か不幸か、この宮本綱領はその後40年間生命を保った。
 
伊里一智事件
 こののち思い出すのは、共産党の『百年史』にない「新日和見主義事件」や、わずかに触れた形の「原水協・吉田嘉清」問題だが、すでに本ブログに書いたので省略する。
 忘れられないのは、「伊里一智事件」である。
 1985年の第17回党大会に際して、東大院生支部の伊里一智らは党勢の停滞を問題にして、宮本顕治議長退任要求を出そうとした。このとき東大院生支部は東京都党大会の代議員として宮本議長解任派とそれに反対の者をひとりずつ選んだ。
 これを党中央は危機と受け取り、青年学生対策部員だった志位和夫は伊里一智を規約違反とした。彼が他の支部に支持を求めたのを分派行動としたのである。このため代議員は都党会議に参加できなくなり、伊里一智はこのなりゆきに対し、党大会会場の伊豆学習会館前で意見書を大会代議員に配布し、さらに翌1986年『気分はコミュニスト』(日中出版)を刊行して党中央を批判し除籍された。ロシア語通訳・エッセイストとして著名な故米原真理らもこのとき離党した。

おわりに
 レーニンの『何をなすべきか』など関連文献を見ると、彼の時代は批判の自由と分派の禁止、行動の統一については、現在の日本共産党よりずっと緩やかだったのではないかと思う。レーニンは激しい内戦によってロシア革命の危機が迫った時代を除くと、党内だけでなく党員による党外からの批判も認めているからである。
 今日市民社会では、政党が何を言っているかよりも何をやっているか、すなわち政党活動の公開の程度が信頼の程度を左右する。日本社会は識字率30%程度のロシア革命の時代ではない。
 決議案は民主集中制を熱をこめて強調しているから、これからも厳格に適用されるだろうが、これで共産党への信頼が高まり党勢が上向くか、多数者革命の理論が深化できるかは疑問である。                    (2023・11・26)

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