民進党は近代政党足りうるのか?(植草一秀理論の展開について)【中編】

22日、月曜日、それなりに僅かながら刷新するものが多くあった様にも思える。

ツイッターにて、ちきゅう座の一文【前編】について、植草一秀先生へと伝える形を取っていた。

自民党、公明党も野合であり、また、日本の政党政治そのものが未成熟な状況にあるのは周知のものである事から本来は、改革しなくてはならないのは、醍醐聡先生の自省論、そして、その後に、更新されたる植草ブログにも具体的指針としての選挙理性批判としての以下に辿り着いているわけである。

民進党は代表戦の前に基本公約明示すべき

http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-0339.html

田原総一朗氏のお世辞であったが、社会党から社民党は、欧州的影響を持っていたはずであり、本来は、近代主義的指標を持って、派閥政治である自民党(権力野合政治)に対して、対峙していたはずの論理を忘却してしまっている問題点を浮き彫りにしようとしている様に僕には思える。

小手先的には、維新と民主党の合体を持って、民進党となったと言うまさに小手先事情であったが、原型を辿るなら「近代主義政党」を目指す社会党が、現代的分裂して、民主党、旧社会党たる社民党へと別れた事情を明らかにしていく必要がある様に感じている。

どんな策略によって、

「一票を投じても何も変わらない」

「人を選ぶだけで政策を選べない」

この様になってしまっているのかのそもそも論を、民進党代表戦批判としての「近代主義」への回帰を明確に語ってくれたのが植草ブログの更新であったと見えない「対話」が続いている嬉しさもここには感じているわけであるのだ。

「近代主義」政党とは何か?

これについても、分っていない人が多い様なので多くを補足したいところであるのだが、

非民主主義的退廃は、「人治」としての派閥政治の流れであり、真の意味で、政治参加を拒んできたものの正体がこれであり、自民党そのものの体質、そして、生長の家から日本会議に至る圧力団体の持つ構造であり、それに対峙する人民側としての政治参加の方法論が、近代主義的政党としての定立として理解されるべきであったが、それが、社会党時代に万年野党と言われながらも基礎とされていたが、混乱させられていっている新しもの好き、名前は変わるが、「人治」政治から脱する事が出来ない分解、分裂をされてしまっている事について、言及すべきであり、醍醐聡先生の言う自省すべき最初の点は、ここではないかと僕も考える。

「人治」「派閥政治」の系譜である自民党、アベ政治に対して、統一会派とされていく社民党、生活の党、そして、日本共産党は、残像ながらもまだまだ近代主義政党としての一票を蔑ろにしない位置づけにあると僕も考察する。

問題は、民進党であると植草ブログは、指摘しているわけである。

更に、日本共産党は、党名を変えるべきであるの論を唱える者が、内外に出てきているが、それには、全く持って反対の立場である事は言うまでもない事であるだろう。

近代主義政党として、「人治」支配の政治、一票の重みを破壊する勢力に対しての対立軸であると明確な意思を持つなら、「野党共闘」は何ら、「野合」ではないと言う論理を広げていかねばならない。

ようやく、社会党の備えていた「近代主義」回帰として、手にしているのであり、この論理的後押しを、ちきゅう座及び、植草ブログ、更に、オールジャパン(平和と共生)界隈の知性は、理論的基盤として提示していかねばならないと言うのが筋道である。

社会党は、万年野党と言われ、潜在的「近代主義」としてあったとしても無意識から意識理論的理解に届いていなかった。

日本共産党も同様である。

この論理としては、既に、提示してある、キッピスキャスの『国家と革命』にも顕著に現れているものであるので、是非、聴いてほしいと考える原点であり、まさに、それこそが、花崎 皋平氏の『世界』論文、「民主共和制」の理解そのものとして問い続けなくてはならない共通の話題であると言う事である。

こんな基礎的な事さえ、再び、言わなくてはならない事が日本の政治の問題点であり、

形を変えて、繰り返し、語らなくてはならない点でもあったのだろうと考えている。

日本共産党論は、更に、別の主題として展開したい欲求であるのだが、今は、まず、民進党代表戦に対しての自省が先決されているであろう。

AKBの人気投票形式はもうやめよう。

「人治」から「政策選挙」へと、近代主義政党として引き締めていく、政治から教育へ卸していく、「民主共和制」及び、論理学、法の哲学、真の人倫へと国民を高める努力を怠らないようにしなくてはならない。

ただ、これだけで、対話も弁証法も変わるのであり、知の共有に、貨幣の介在なくとも十分出来うる「目的と方法」の一致は、あちらこちらにあったのであり、需要と供給の一致、生協と揶揄されたる柄谷行人氏の『可能なるコミュニズム』においてさえである。

熊王 信之さんへ。

文章に面白さがあったので、引用させて貰いながら論を進めています。

真の「保守」とは何か?この問いをいつもコッポラ映画、『ゴッドファザー』や高倉健任侠映画の投影からの逆説から考えさせられたものです。

何が、左翼的であるのか?これも時間があるなら仕上げたいのですが、

「現憲法に定める象徴天皇制を将来も守るべきとも信じている者」、岩田昌征先生の論もそれが伺えているのがちきゅう座の面白いところです。

リベラリストとしての「生前退位」?についても別な議論があります。

しかし、今の優先課題は、

TPPと緊急事態条項成立ならこの国は終わる

http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-7981.html

こちらであると言う認識です。

団塊の世代Wikipediaから。

《団塊の世代(だんかいのせだい)とは、日本において、第一次ベビーブームが起きた時期に生まれた世代[1]。第二次世界大戦直後の1947年(昭和22年)~1949年(昭和24年)に生まれて、文化的な面や思想的な面で共通している戦後世代のことである。第一次ベビーブーム世代とも呼ばれる。日本経済においては第二次世界大戦後の高度経済成長、バブル景気を経験している。》

この3年間にちきゅう座の誰が該当しているのかは、あまり興味がありません。

旧左派的ジェネレーションYにも限界を感じていますし、日本的には、 解散した SEALDsが、該当していた様に感じていますが、批判も多数、問題なのは、やはり、反知性であると一致している様に感じています。

厭世主義がはびこり、「無関心、無感動、無教養?(だったかな)」、生きている実感が得られないのが問題であるように感じています。

日本共産党もちきゅう座も未熟な側面はあろうかと思いますが、

《その私が、大胆に、武田様に御提案を申しあげたいのですが、まず、老齢の人々、中でも、団塊の世代と呼ばれる人達を見捨てられるべきです。》

この一派ひとからげの「団塊」とするのが、体制の策略に含まれているのではないでしょうか?

この枠の人だけを植草一秀先生も僕も中野@貴州さんも対象にしているわけではないと言う事です。

鳥越俊太郎氏さえ、排斥する批判の対象とすべきではなく、全員体勢として向かうべきであると考えを既に述べています。「共生」そのものです。

張一兵『レーニンへ帰れ』出版記念会

https://chikyuza.net/archives/65722

刷新されたる弁証法連携、「経済理論としての結集は如何にして可能か?」「聞く相手のことを考える」こちらに、大いに期待していると言う訳です。

手短に。あまり短くなかった?

【中編】終り