沖縄は独自の道を(上)

はじめに―個人的なこと
私は1939(昭和14)年沖縄の本島北部の今帰仁村(なきじんそん)に生まれ、戦争中は山の中を逃げ回り、東シナ海に面した洞穴に隠れたりして生き延びた。その洞穴には白骨死体が3体ほどあったが、それは昔の洞穴葬の名残だとも、1609年の島津軍侵攻の際の島津軍犠牲者の遺骨だとも言われていた。確かに島津軍は近くの運天港から上陸しており、今帰仁城へ攻めていく途中の島津軍との争いについてはいくつかの武勇伝が語り伝えられたりしているので、洞穴の白骨死体が「大和頭(ヤマトゥチブル)」であるという伝説はあながち間違いではないのかもしれない。もしそうだとすれば、私たち一家は島津軍の遺体と数か月間寝起きを共にしたことになる。
戦時中、私は3人の死に出会った。1人目は日本軍兵士である。洞穴の前にはマングローブが群生していたが、その向こうを軍服を着た日本兵がうつむいた姿勢でゆっくりと入り江へ向かって流れていた。その頃はすでにアメリカの上陸作戦は終わっており、あとは生き残った住民を収容する段階にあったが、日本の敗残兵がアメリカ軍の陣地へ切り込んだり、追い詰められて自爆したりする例は後を絶たなかった。その日本兵はどういう経緯で殺害されたのだろうか。
2人目は祖父である。彼は本家の洞穴に隠れていたのだが、私たちが収容所へ連れて行かれたという情報を村人から聞き、その確認のために夜陰に紛れて私たちの洞穴へ向かう途中、米兵に背後から銃殺されたが、遺体を発見した村人によって埋葬された。私たち家族はそのことを後になって知った。
3人目は祖母である。彼女は収容所の近くにある農家の物置で病死した。最初のころ収容所は有刺鉄線で囲まれただけの簡単なものであったが、後に村の民家へ分散させられていたのである。洗濯用の金盥にすっぽり入るまでにやせ細って小さくなった祖母の体に、家族の者がかわるがわる水をかけた記憶はまだ鮮明に残っている。収容所ではマラリヤが大流行し毎日死人が続出した、と記録は語っている。
これらの記憶は私の幼児体験として強烈に残っているが、沖縄本島南部の激戦地、「集団自決」のあったいくつかの離島などの悲惨さに比べれば物の数ではない。ただ、多くの戦争体験者がそうであるように、私もまた戦争の体験とその記憶から解き放たれることはない。
私のルーツについて。私の長兄は数年前、親族の人たちと協力して家譜を完成させたが、それによると私のルーツは「陳華(チン・ファ)」なる人物で、福建省の出身である。彼はインテリであったらしく、琉球王朝に召し抱えられた。ただし、1392年洪武帝の命によって来琉、・帰化し、琉球王朝の国事を助けたとされる「閔人(びんじん)三十六姓」とは別に、17世紀の初頭、個人的に渡航してきた人物であった。家譜完成を記念して、長兄と次兄は3年前に福建省を訪ねている。
そういうことがあって、私の中には中国に対する懐かしい思いがあり、基本的に反中的な感情は持っていない。「基本的に」というのは、共産党一党独裁の現体制を除いて、という意味である。私は定年退職後2年間天津の学校で日本語の教師を勤めたが、教師・職員・生徒・町の人びとは、当時の小泉首相の頑なな反中姿勢にもかかわらず、実にフレンドリーであった。天津と福建省は遠く離れてはいるが、私は陳華なる人物と同じ中国の大地を踏みしめ、快適な2年間を過ごしたのである。
なお、私が教えた子供たちは卒業後、北京、武漢、吉林省など中国各地へ散らばって行ったが、中には日本の大学へ留学している者もいる。現在早稲田で学んでいる者が2人いるが、1人は天津市で行われた日本語劇大会で浦島太郎を演じ、もう1人はナレーターを勤めた女性である。大学生チームと渉りあって三位に入賞した。浦島太郎氏は学生ながら何やらビジネスを始め、ナレーター女史は目下ロスアンゼルスへ留学中である。我々の間には国籍による障壁は何もない。今後もし障壁が生じるとすれば、それは一方が、あるいは双方が極端な国粋主義者になるか、国家間で殺戮合戦をする事態に立ち至るかのどちらかである。私も彼らもそういう愚かなことは断じて望まない。

丹念な歴史の検証を
5月29日付の本ブログで阿部治平氏が「沖縄は誰のものか」という文章を載せている。私も氏と同じく、沖縄の帰属問題に関する中国側論文の趣旨には賛成できないし、将来沖縄が中国に属するという結論に達する可能性もないと思っている。おそらく、中国側につけ込まれる最大の原因は「琉球処分」の最後の段階で持ち出された「分島・増約」問題にあると思われる。その内容は、尖閣を含む宮古・八重山諸島を中国へ割譲し、沖縄を独立させ、奄美諸島を日本に併合させるというものだった。その歴史的な経緯をここでは詳述しないが、要するに、日本政府は中国内で自由に商売ができる権利を得るかわりに宮古・八重山諸島を中国へ売り渡そうと考えたのである。この案に関してはむしろ日本側が積極的だったが、調印直前になって中国側が日本の勢力拡大を恐れて頓挫した。しかし、今になって中国はその時の外交交渉はまだ終わってはいないぞ、改めて交渉する時期がやってきたぞ、と言っているのである。
日本政府はいま、「琉球処分」「分島・増約問題」「サンフランシスコ講和条約」「カイロ宣言」「ポツダム宣言」を網羅した丹念な歴史的検証を行い、中国にグウの音も言わせぬ政府見解を国民と世界に向かって堂々と発信すべきである。「全く不見識な見解だ」とか「サンフランシスコ講和条約でけりがついている」などという菅官房長官の反論だけではきわめて不十分であり、中国はそう簡単に引き下がるとは思わない。

ヤマト離れの流れ
阿部氏はまた沖縄で独立運動を目指す運動が起こりつつある事実を紹介している。確かに独立運動の動きは最近目立ってきた。5月15日には「琉球民族独立総合研究学会」が発足し、社民党所属の衆議院議員・照屋寛徳氏が自分のブログで「沖縄、ついにヤマトから独立へ」という文章を公表したほか、辺野古で新基地建設に反対して座り込み闘争を続けている平良修牧師なども積極的に沖縄独立へのメッセージを発信している。平良牧師は1966年9月、アンガー高等弁務官の就任式で「神よ、願わくは新高等弁務官が最後の高等弁務官になり、沖縄が本来の正常な状態に戻りますように。100万市民の人権の尊厳の前に深く頭を垂れさせたまえ」という祈りを捧げた人である。そのほか大学教授や知識人などがメディアを通して沖縄独立を訴えており、「一国二制度の会」は沖縄の将来図をさぐってシンポジュウムを開いたりしている。
これらの動きの背景には、まず、日本政府、特に安倍首相の発言や行動がある。彼は「戦後レジームからの脱却」を謳い、憲法「改正」、国防軍の創設、集団的自衛権の行使、4.28主権回復記念式典の挙行、教育制度や教育内容の見直しなどなど、外国からも懸念される「右傾化」へ向けて急発進した。自民党の憲法改正案を見ると国家主義的な傾向が著しく、第二次大戦の悲惨とその後の苦難の道を歩んできたウチナーンチュにしてみれば、「神国」と軍国主義からようやく解放され、平和憲法のもとへ復帰したはずが、何やら歴史が逆戻りしようとしているのではないかという危機感を抱くのも無理からぬことである。それは大げさで過敏すぎる反応とは言えない。
ところで、「戦後レジームからの脱却」というプログラムは、憲法「改正」から始まって、米軍基地の完全撤退、そして日本の核武装にまで辿り着かなければ終わらないはずのものである。何故なら「戦後レジーム」の最たるものはアメリカ依存の安全保障だからだ。地位協定の条文1つ変えられず、ベトナム戦争、イラク戦争などのアメリカによる侵略戦争にも文句ひとつ言えないばかりか、尻尾を振り続けるなどということは独立国家としてあまりにも屈辱的で「自虐的」であるはずだ。
安倍首相が「戦後レジーム」を完遂できるとはとても思えないが、完遂に向かって邁進する彼にそのままついて行き、最終的には沖縄が核武装せざるを得ないプログラムを受け入れるほどウチナーンチュはお人好しであり続けられるとは思わない。

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