河野多麻―わたしの気になる人⑫

 クチナシの花の香りがただよう季節になると、河野多麻のすがたが胸に浮かんでくる。背がすらりと高かった。ほの白い顔にうっすらピンク色がさしていた。〈勉強しても、しすぎることはありませんねぇ〉このことばも忘れがたい。学問の研究は、一生かかってもできないくらいたくさんある、というのであろう。〈自重してやんなさい〉とも、孤高の学者はいった。その日、わたしは、『歴史小品』(岩波文庫)を河野多麻からいただいている。そして、邸内のクチナシの花のひと枝も。
 河野多麻は、浜松高女の卒業生だ。現在は浜松市立高校といい、わたしの大先輩にあたる。作家の鷹野つぎ、昭和初期の活動家木俣鈴子も、浜松高女を卒業している。版画家の柳澤紀子、小説家の佐能典代、そしてノーベル物理学賞を受賞した天野浩の母天野祥子なども、高校の同窓生である。
 三鷹市の自宅に河野多麻をたずねた3年後、わたしは『平林たい子-花に実を』(武蔵野書房)を刊行している。それから何年か経って、「ひとの縁⑩」(「ポム・ドゥ・パピエ」)に河野多麻にかんするエッセイを発表した。フランス語を和訳して「紙のりんご」という小冊子は、アップルハウスが発行するものだ。アップルハウスは、生地を染めることから、婦人服に仕上げて販売するまでの工程を一貫して行なっている。社長の高畑啓子は、たかはたけいこ、というペンネームで知られるエッセイストである。
 その拙文をつぎに転載しよう。

 戸なだの上の大きな置き時計が15分ごとに心地よい音楽を奏でる。時計とは皮肉ですねぇ。前の年に大学を退職したその記念品の置き時計を指しながら、河野多麻はわらう。
 非常勤講師を85歳まで務めていた。そしてその春、多麻は大病を患い、白内障の手術も受けた。こんなに怠けものの生活をするのは初めてだという。学者の偏屈さを感じさせない河野多麻は、「宇津保物語」の研究者だ。20年かけて80歳で文学博士号を取得している。
 赤ワインがお茶代わりで、ババロアにもかかっている。しゃれてる、と思う。
 隣室から咳払いがきこえる。応接間とカギの手になったそちらへ目をやると、すだれごしに、シャツにすててこ姿が見える。白いシーツの敷き布団に横になったり。テレビをつけたり。さわがしい。その主は、「イソップ物語」の翻訳で知られる、哲学者の河野与一だと気づいて、わたしはそわそわしたものだ。
 ふたりって大変なんです。マンションに移ろうと提案すれば、いやだという。家政婦に毎日きてもらおうとすれば、その人のために生きるのがいやだと反対する。食事の好みもうるさい。ひとつ年上の妻は嘆く。
 平林たい子のなにに惹かれたのか。どこにスポットを当てて書くのか。河野多麻のやつぎばやの質問に、わたしはほとんど満足に答えられなかった。たい子には60点しかつけられない。自分がいちばん偉いと思ってる。冷淡だ。その冷淡さのよってくるものを探れ、と。河野多麻はたい子を、下田歌子や野上弥生子や宮本百合子と比べながら語るのだ。歌子は、なかなかの人物だった。研究してほしいと。弥生子には機会を作って会うようにと。百合子はきれいだった。活発ではつらつとしていたと。女子大の廊下ですれちがった下級生について河野多麻は追想する。
 女のためにたたかうのは女しかいませんよ。河野多麻がウーマンリブを主張する! わたしは心中ほくそえんだ。河野多麻は、「宇津保物語」の研究方法をめぐって5人の男たちにたたかれた。しかし、そのつど立ち上がってはやってきたという。
 まだまだ勉強したりない。勉強しすぎて病気になることはありません。自分を磨くこと。貪欲にやんなさい。
 先達のことばは、どんと力強い。勉強量が圧倒的にちがうのだ。高校の先輩ということで訪ねたが、短い時間に、実践したひとにして可能で貴重なアドバイスをもらい、わたしは河野宅を辞したのだった。
 河野多麻の訃報に接したのは、それから3年後のこと。一酸化炭素中毒による死だった。自宅の火事に逃げおくれたと新聞は伝えていた。書斎にあった縦長の電気ストーブが倒れたのかと、痛ましかった。
 いま河野多麻の偉大さを思うにつけ、頂戴した郭沫若の「歴史小品」(岩波文庫)のなかの「孟子 妻を出す」が気になる。読めば、孟子さまもマザコンか、とおかしい。が、問題は、二者択一が理想なのか。彼は、女色を断って聖賢の道をゆく。妻も、夫のために身を引いて実家に帰る。河野多麻は、どう解読していたのだろうか。あの日、感想を知らせるという宿題を提出されたが、わたしは果たさなかった。それが無性に悔やまれる。

 文庫の『歴史小品』は、1981(昭和56)年6月に発行された。原作は、中国の郭沫若が1935(昭和10)年に執筆したもので、平岡武夫が翻訳している。郭は1914(大正3)年に渡日し、1928(昭和3)年、日本に亡命。1937(昭和12)年まで市川市に住んでいた。171ページの薄い文庫には8編が収録され、河野多麻が問うた「孟子 妻を出す」はその1編だ。平岡の訳文が簡潔明瞭なので、わかりやすい。「孔子 粥にありつく」「始皇帝の臨終」「司馬遷の発憤」などのタイトルに明らかなように、古代中国の著名な思想家が登場する。郭は、彼らをひととして蘇生させた。文学、政治、史学と多岐にわたって活躍したが、「歴史小品」は文学活動のひとつだ。郭自身、文学作品として鑑賞されることを望んだという。「伝統的な見解」からの「自由」をもとめたのであった。
 では、「孟子 妻を出す」とは、どんな作品なのだろう。
 孟子は翌朝、いつものごとく深呼吸するが、頭はぼうとする。からだも手足に力が入らない。興奮している。先生、ご飯ができました。にこやかな顔で妻がよぶ。夫人は30歳くらいの、豊満にして新鮮な女性だ。孟子は貧乏人だが、儒者にちがいない。礼節をやかましくいう。もったいぶっている。妻をそばにひざまずかせ、ご飯をもらせる。妻は、夫といっしょに食事ができない。あとでこっそり食べる。
 孟子の脳裏に、昨夜一糸まとわぬ女身を愛撫した、そのなまめかしい感覚がよみがえる。燥気のあまり発作がおさまらぬ。と、心中から孔子の叱声がきこえてきた。孟子のさしあたりの大方針は、「不動の心」をもとめ「夜気を存すること」にあった。なのに。
 人間の生気の清いものは夜間に作られる。夜気が不足すると人間が禽獣と変わらなくなると、孟子は書いているそうな。「あーぁ、悪魔。わしは孔子さまの弟子である」「お助け下さい」「今日かぎり妻と関係を持たないようにさせて下さい」孟子は、聖人の仲間入りをめざして祈るのであった。
 聡明な妻には、孟子の心のうちがわかっていた。女色と聖賢。その両方を同時に入れられないならば、女房を捨てて聖賢をとろうとしていることが。「魚は我の欲するところなり。熊掌もまた我の欲するところなり」孟子が好んで口にする文句だ。「二者兼ぬるを得べからずんば、魚を捨てて熊掌を取る者なり」訳者の平岡は解説する。魚に生を、熊掌に義をあて、義が生より大切なことをいっているのだ、と。
 妻はいう。先生は天下のお手本です。独占してはいけない。自分は実家に帰って裁縫で暮らしをたてていく。先生の意志を遂げさせたい。先生が立派な聖賢になるように、と。
 そのとき、はたと、孟子は、ある真理に気づくのだ。ひとは聖賢になるにも、油、塩、米、薪など用意してくれる下働きのひとが必要なことに。妻は、母性愛を発動させる。みずから、そのサポートを孟子の弟子に頼みこみに行く。
 その弟子を連れて、孟子は、教義宣伝のため、国々の周遊に発つのであった。

 孟子は、妻に落ち度があって彼女を離縁したのではない。自身のからだを敗壊させないためにそうしたのだ。『荀子』の原文を読めばそれは明らかだと、平岡は解説する。また、孟子が禁欲主義者である、とも。さらに、不言実行の態度で応じた妻は、孟子の母にも、孟子にも劣らぬひとであると賞賛する。たしかに彼女は、仁を説く孟子いじょうに思いやりの深いひとなのかもしれない。ともあれ、孟子は、妻のきずなから解かれた。
 しかし、母の教えによるマインドコントロールからは? 孟子のマザコンがとても気になる。孟子の母は賢母の代表だという。まず、「孟母三遷の教え」がある。母は、孟子の教育にふさわしい環境をもとめて3度目にやっと見つけたというもの。もうひとつは、「孟母断機の教え」だ。孟子が学問を途中でやめようとしたとき、母は、織りかけの機(はた)の糸を切って、途中であきらめるとこのようになると戒めたというのである。進んで身をひいた妻。息子に教えをたたきこんだ母。おなじ母性愛でも、母のそれと妻のそれとはちがうはずだ。孟子はついに、母の教えからは放たれなかったのではないか。
 作者の郭は、孟子の心の葛藤を描いてはいる。孟子の気づきがおもしろい。平凡なことのようだが貴重だ。しかし彼の二者択一は、いっぽうを切り捨てることになった。これでよいのか。作者は、できすぎた妻の心のうちにも踏みこんでほしかったと、わたしは思う。

 河野多麻が、「孟子 妻を出す」について、どのような感想と意見をいだいていたのか。宿題の提出をサボったわたしには、わからない。だが、これでよいのかしら? というニュアンスの、結末への疑問は伝わってきた。その日、河野多麻が〈女のためにたたかうのは女しかいませんよ〉といったことばは、わたしには忘れられないものになっている。1つの家に2人の学者が住まう。女で妻の河野多麻のほうが、男で夫の河野与一になにかと譲歩してきたのではなかったか。河野多麻は、自身のことは話したがらなかった。しかし、さきの主張には、そんな男性優位への異議申し立てが秘められているにちがいない。
 河野多麻は、1895(明治28)年10月に生まれた。もう1人、わたしはそのころ、同年生まれの八木秋子とも出会っている。アナーキストで作家の八木については、拙著『書くこと恋すること-危機の時代のおんな作家たち』(社会評論社)を参照してほしい。2人とも、その道のパイオニアである。
 国文学者河野多麻は、東北大学を出て実践女子大学で教鞭をとっていた。浜松市立高校の後輩たちも進学して、大先輩の講義を受けている。1973(昭和48)年、『うつほ物語傳本の研究』(岩波書店)を刊行。全20巻の『うつほ物語』は成立年も作者も未詳で、ずっと後世にうつぼと濁音化したという。 
 河野与一は、人物事典によれば、河野多麻より1年おそく横浜市に生まれた。フランス語、ロシア語など10数か国語に通じた「語学の達人」だという。哲学の学識も深かった。『プルターク英雄伝』の翻訳書がある。法政大学などで教えてもいた。「悠々と学問を愉しみ、教え子や友人たちのために惜しげもなくその学識を分かちあたえ」たと、清水徹が『現代日本 朝日人物事典』のなかに書いている。1984(昭和59)年7月、他界。 
 河野多麻は、その翌年1985(昭和60)年1月、なくなっている。90年の人生だった。
 今年もまた、クチナシの花のかおる季節がやってくる。(2016・5・26)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0259:160525〕