混迷から抜け出せない ―最新の社会主義研究を読んで

―八ヶ岳山麓から(80)―

むかし、私はマルクス主義のアホな信奉者であった。
ソ連のすばらしさを信じた時代があった。レーニンをあがめた。スターリン批判はあったが、彼がやった「大テロ」の半分も知らなかった。中国革命に感動し、毛沢東をたたえてやまなかった。大躍進政策で餓死者が出たというニュースは、日米反共主義者の宣伝だと思った。

1966年に中国で文化大革命が始まって、ようやく社会主義に対する疑問が生まれた。1970年代シベリアから中央アジアを旅行してソ連の貧しさに驚いた。
それからというものは、レーニンがいたのにスターリンはどうしてロシアを収容所列島にし「大テロ」をやったのか、毛沢東はなぜ皇帝同様の権力を持ち、勝手なふるまいができたのか、自ら科学的だと称したマルクス主義のもとで人類史の退歩現象が現れたのはなぜかという疑問が生じて40年余り。
1989年天安門事件・ベルリンの壁崩壊、90年レーニン時代の弾圧の解明始まり、91年ソ連の消滅と来て、あらためてこの疑問をもちなおして今日にいたる。

最近、親しい友人が『人びとの社会主義』(有志舎2013年)という本を私に与えてくれた。中国に10年余りいて最新の社会主義研究を知らず、昔ながらの疑問を発しているのを見かねたのであろう。この本は「21世紀歴史学の創造」シリーズ第5巻である。「はしがき」にみる執筆者らのこころざしは高い

「社会主義とは何だったか。また、何であるのか。これは1989~90年にソ連・東欧の『社会主義体制』が崩壊した今や、歴史的に議論しやすくなったテーマである。1980年代に進んだグローバリゼーションと新自由主義の広がりの中で、アジアの中国とベトナムは『市場型社会主義』の道をたどり、ソ連・東欧は崩壊の道をたどった。では、そこで共通して語られる社会主義とは、いかなる意味を持つ体制なのか」
私は、これだこれだと気合を入れて読んだ。

この本の構成は南塚信吾・古田元夫の「総論 世界史の中の社会主義」、加納格の「第1部 ロシアの社会主義」、奥村哲の「第2部 毛沢東主義の意識構造と冷戦」、南塚信吾の「第3部 東欧における社会主義と農民」、古田元夫の「第4部 ベトナムにおける社会主義とムラ」となっている。

私は、東欧社会主義についてはハンガリー事件や「プラハの春」以外全く知らない。南塚の論文はハンガリーのプスタの農村の歴史だが、「人びとは1968年から85年までの『長い1970年代』は『社会主義』の『輝ける時代だった』というのだった」という。社会主義時代にもいい時があったということだろうか。これはまったく意外だった。
というのは、最近私にもチェコのプラハを訪れる機会があった。そこで目にした本には、ナチスによる殺人と並べてソ連による迫害犠牲者の数字があった。チェコの人々は社会主義をナチ並みの災難ととらえていた。
ベトナムについても私は無知である。ニュースで政府高官の汚職を見るたび、あれほどの犠牲を出したベトナム戦争は何のためだったかとがっかりする。古田論文は1988年ドイモイ開始後、集団農業が解体された農村の様子を詳細に紹介している。
二つの論文で初めて知ったことは多かった。東欧とベトナムについてはこれ以上のことはいえない。

以下、ソ連と中国についての論文の感想を述べる。
加納格の論文は、論述の範囲がロシア帝政末期からソ連の解体まで及ぶ。加納はいう。「歴史上生成したひとつの体制は、常にその前の体制との『アマルガム』となる」と。
1917年の2月革命で帝政は崩壊した。革命後政局が混乱するなか、臨時政府が民主化に尽力したにもかかわらず、10月制憲議会選挙に敗れたボリシェヴィキは25日クーデターで臨時政府を倒した。
その後レーニンの指導下ですすんだ国有化、食糧徴発などの戦時共産主義、チェカ(のちのKGB)のテロによる「階級敵」の殺害、やむなくとられたネップ(共産党支配下の市場経済)など、論文はひとつひとつ先行研究や資料をあげて厳密に説明する。その注と引用は大変多く、邦語文献だけでも110前後もある。

記述をたどってゆくと、レーニンの統治方式は自然にスターリンによる穀物強制調達、農業の集団化、飢餓輸出、計画経済、1930年代の「大テロ」に連続していく。これではレーニンは正しくスターリンが悪かったなどと、どこを指してもいえた義理ではない。
稲子恒夫はこれを「スターリンの個人崇拝と個人独裁は、レーニン時代の党組織と党文化を基盤に生まれた。……レーニンの党は彼を中心に高度に中央集権的に組織されていた」「彼の神格化、党指導者の絶対化、党崇拝は始まり、スターリンは党崇拝を個人崇拝に、党独裁を個人独裁に変え、ネップをゆっくり手直しし、超工業化のため戦時共産主義時代の暴力的な食料政策を復活させ、農業の全面的集団化を強行した」という(『20世紀のロシア』)。
してみればレーニンが長生きしたとしても、プロレタリア独裁はスターリンとさほど変わらぬものになったかもしれない。
論文は「農民の抵抗は、(19)30年にかけて拡大し、表明された意見は、ソヴィエト体制の正統性を鋭く問うていた」「ピークとなった37~38年に政治犯として有罪になったもの、これに内戦期の犠牲者、飢饉死者を加えると18年から30年代末までに死者は2000万人を大きく超える。この膨大な犠牲の上にソ連社会主義は確立したのである」という。

奥村哲の中国論には、毛沢東のものの見方考え方が解明されるものと期待した。奥村はおもに薄一波(先日失脚した薄熙来もと重慶市書記の父親、経済官僚)の回想録『若干重大決策与事件的回顧』と、朱健栄(今年中国当局に拘束された在日大学教授)『毛沢東のベトナム戦争――中国外交の大転換と文化大革命の起源』によって議論を展開している。

毛沢東の最後の「あやまち」1966年から始まる文化大革命について奥村はこういう。
「文化大革命の発動で実権派はなすすべもなく打倒された」。実権派というのは毛沢東の頭の中にあっただけで実体はない。毛沢東の意図を理解できないとか、毛が戦略的意図から排除した人、気にくわない人である。「マリノフスキー事件を直接の契機として極端に肥大化した危機感から、毛が自分に敵対する陣営として一括したのである」と。
マリノフスキー事件とは、フルシチョフが追放された直後の1964年10月、周恩来を団長とする代表団がモスクワに派遣されたとき、歓迎宴で酔っぱらったマリノフスキー国防相が周らに、中国も毛沢東を追放するようにと放言したことである。

奥村は朱健栄を肯定的に引用して、この事件をきっかけに毛沢東はソ連だけでなく、中共上層にも疑いの目を向けるようになった。その結果が「修正主義」一掃、すなわち劉少奇ら上層幹部を追放と投獄と迫害死に追いやった文化大革命だったという。これでは、漢の劉邦、明の朱元璋が建国なったのち功臣を次々殺したのと同じではないか。しかも労農大衆まで巻き込んで、下々の生活までめちゃめちゃにしてしまった。
さかのぼれば、すでに1958年毛沢東は漸進的政策を一夜にして変え、人民公社と大躍進政策を実施することができた。その結果数千万の餓死者を出した。これを彼はまじめに反省しなかった。どういう意識構造だったのか?論文にはそのものずばりの答えはない。
文化大革命末期、李正天・陳一陽・王希哲3人の集団筆名で「李一哲の大字報」を発表し、毛沢東夫人らを批判した王希哲は、1980年の論文「中国革命と文化大革命」で、中国革命は農民革命に過ぎない、毛沢東は中国史上もっとも偉大な空前絶後の農民首領である、彼が皇帝になったのは農民首領の階級的必然性であった、と指摘した。そして15年の懲役刑を受けた。

『人びとの社会主義』の著者たちは、社会主義には希望がないと念押しをしているようにみえる。中国やベトナムの市場経済型社会主義の現実をみて、それが理想の社会主義に進み、人類史の新たな展望を切り開くと考える人は「西側」市民のなかにはほとんどいない。ではグローバリゼーションと新自由主義に変わるものはどんな社会制度か。かつて若者たちがあこがれた革命思想への失望はあまりに大きく、あらたなパラダイムへの希望は容易に開けそうにない。私はいま混迷の中にある。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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