片山郷子―わたしの気になる人④

「パソコンはわたしにとって心をひらける友」というのは、作家の片山郷子である。60代で網膜色素変性症をわずらい、現在、視覚障害者用のパソコンを使って執筆している。口述筆記にたよらず、パソコンを駆使しつつ思いのうちを文章化するのだ。「ものを書くことが日々の喜びであり慰めとなっている」「人間に対する興味は尽きない」とも、片山郷子はいう。
 片山郷子からはじめて著書をプレゼントされたとき、視覚障害者がどのような方法で小説を書くのか、わたしは、ふかくは考えようとしなかった。読後感をメールで知らせただけだった。『もやい舟』(鳥影社)のつぎに『花の川』(鉱脈社)がとどく。2度目の読後感を伝えると、それがきっかけでメールを交換するようになった。小説をどのようにして書くのか。その事情も、わたしには少しずつつかめてきている。
 片山郷子は50歳を越えたころ、文章を書きたい欲求に駆られる。毎週1回、新宿の朝日カルチャーに通い「小説の作法と観賞」教室で学びながら、その志望を満たしていく。久保田正文に指導された。久保田は法大日文科の教師をやめて、文芸評論家として活躍していた。その生徒たちの発表舞台であった同人誌「よんかい」に、片山郷子も小説を掲載していく。寺の住職の妻のことを書いた「まだらの時」が処女作だ。1991(平成3)年のこと。
 95(平成7)年には、「柿の木」で、第2回、小諸・藤村文学賞の一般部門最優秀賞を受賞している。柿の木は8年で実をつけるといわれる。父が自宅の庭にその木を植えた。月日は過ぎていく。父は死に、土地が他人のものになる。業者がのこぎりを引く。柿の木は倒れた。ゴオーッという音とともに。人間の怒りと悲しみに満ちた風のような音だったと、作者は書く。過去とのつながりが断たれ、現在のささえが揺らぐような、人の不安の心情が印象的だ。片山郷子には『妥協の産物』という詩集がある。詩を書く人の叙情が、この短編にもほのかに漂う。
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 37(昭和12)年、片山郷子は東京都新宿区に生まれた。わたしが『書くこと恋すること―危機の時代のおんな作家たち』(社会評論社)のなかに取りあげた作家6人より30数年後、片山郷子はこの世に登場している。鷹野つぎ、八木秋子、平林英子、川上喜久子、平林たい子、若林つやは、いずれも明治生まれだ。うち4人は、昭和初期のプロレタリア文学運動にくわわり、女性の解放を求めつつ作品を書いた。昭和生まれの片山作品にも、現状からの脱皮の願望はよみとれる。6人の作家より社会的な問題意識は希薄だけれど、女の生きかたを真摯に追求するその姿勢に変わりはない。時代も世の中も変わったようでいて、女たちの現実のしがらみからの解放願望、という文学的モチーフは、両世代に共通しているのである。
 近ごろ、片山郷子からこんなメールがとどいた。〈わたしは成就しなかった過去に心を奪われているのです。過去にとっぷり浸からないで上半身を乗り出したいのですが、目が不自由になってから制限を受けます〉。
「柿の木」など8編を収録した短編集『愛執』(木精書房)が、片山郷子の初の著書である。生が死を照らし、死が生を照らしだす。その時間的経過のなかに、人間の生きて在ることの重みを描いて、たしかに読みごたえがある。ヒロインたちは、自分自身の生きかたを問う。おりしも、この国は高度成長期のさなかだ。これまでは、周りに合わせながら生きてきた。これからは「自分の足だけで歩いてみたい」。彼女たちは、不倫のハードルをかるがると越える。自立を願うものの、しかし、世間体や女の見栄に縛られている自分に気づくのだった。さらに、目的を明確につかめずにあがくのだった。だから、未来への展望は描けていない。妻たちが自分の内面をのぞきこむその意識的な姿勢は、あざやかだ。現代の女たちに共感されるところであろう。彼女たちの、求めても得られなかったその無念さは、これ以後も、作者、片山郷子の内面にくすぶりつづけることになったのであろうか。
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 失明後、片山郷子は、さまざまな他人との出会いを経験した。北区の団地の1室にひとり住まう。娘と息子は別のところに暮らす。1室には、南の窓ガラスから陽がさしこむ。窓を開ければ、木々に憩う小鳥たちのさえずりが聞こえてくる。日々の生活は、他人の手を借りている。炊事などは介護ヘルパーに、外出はガイドヘルパーに、デージー図書になっていない読書は対面朗読者に。中高年の女性ヘルパーたちもまた、「とにかく絶望の中から模索し生きようとしている」という。
 最新作『花の川』に収録された「白杖を持った紅子さん」。この書き下ろしの短編に、片山郷子の現在の一端はうかがえる。彼女は、障害を背負ってから「人の心のSOSに少しでも気づくようになった」。障害者のことだといって健常者から無視されれば、「人間のぬくもりを石に変えられるような淋しさ」を感じる。
 失明する前の作品よりも、他者の存在がくっきり浮上している。また、視覚にかわって聴覚、触覚、嗅覚が鋭敏になっている。
 昼下がり、「紅子さん」は、団地内の桜を見にいく。白杖をもって。木の根っこのあいだに咲いた桜の花を、しゃがみこんで両の手につつんでみた。「なんて薄くて柔らかい」思わず声がもれた。「羽衣だけを身につけた天女がそこに横たわっているよう」だ。「桜の花は女陰のよう」でもあった。しばらく彼女はその場に、ぼんやり佇んでいた。その姿を、その心のうちをも、ほうふつとさせるシーンではないか! 感銘ふかい描写だと思う。
 わたしたちが忘れている、失くしている、繊細な感覚を、片山作品はつよく打ってくる。毎日、ラジオを聴きながら片山郷子は何を想うのだろう。昨今の人間的荒廃には悲嘆をおぼえるという。この国の社会と政治のありように関心をいだいているともいう。
 

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