目先の損得に一喜一憂する愚かさ

人は安物商品を買う時にはいろいろ漁って、価格に不相応なほど時間をかけるが、高額のマンションを買う時などは印象だけで、短時間で判断してしまう。マンションなどは建設現場を見ていないから仕方がないが、価格に比してあまりに短い査定時間しか費やさない。残念ながら、人は身近で目に見え手で触れられるものでしか判断できないから、五感で感じ取れない、現象の背後にある実体や本質を探ろうなどとは思わない。

だから、国民経済の将来がどうなるのかは、雲をつかむような話。国家債務が増えて国家危機を惹き起すリスクが高まることより、退職金をつぎ込んだ株式の価格が上がることの方がどれほど大事か。だから、「アベノミックス」がどういう将来経済をもたらすかより、自分の持ち株が上がるかどうかに一喜一憂する。しかし、いずれ日本の国家債務危機は必ず到来する。原発事故や大地震が起きる確率より、比べ物にならないほどの高い確率で、それも何百年とか何万年の単位ではなく、10年単位の時間でやってくる。だが、多くの人々はバブルがはじけて、証券価格が暴落するまで、その重大性を認識することができない。もっとも、政治家や政府も暴落するはずがないという前提で政策を推進しているのだから、一般の人々がリスクを推し量るのは難しい。

これでは「原発は百%安全」と推進してきたのと同じではないか。バブル崩壊とそれに続く長い不況を経験した日本だが、経済停滞が続くので、「バブルでも何でも良いから、行け行けどんどんでやって欲しい」という気分が勝ってくる。原発事故が終息してもいないのに、事故は次第に過去の出来事になり、やはり電気代が高くなるからと、人々は一時の反原発から、再び原発容認へと回帰する。世論に定見はない。バブルを経験して苦労しても、またバブルを期待する。人々の意識は移ろいやすく、過去は次第に記憶から薄れ、他方で将来を見通す力もない。だから、その日その日の目先の損得に囚われてしまい、とりあえず、「今日と明日が分かれば良い」ということになる。

こうした人々の日常意識を超えて、現在と将来の社会を分析するはずの社会科学がまったく当てにならない。場当たり的な経済政策は存在するが、現在と将来を見通す経済理論が存在しない。日常的な利用に供される分析は、実物経済の分析を省いた、金融市場をベースにした不完全で偏った経済分析だけ。物理学に比して、経済学はニュートン力学以前の段階にあると断言する学者もいるが、経済世界の全体像を解明できる理論が存在しないことは事実。だから、経済学にノーベル賞はあっても、現実経済の指針にすらならない。こういう状態だから、経済の世界は同じ過ちを何度繰り返しても、懲りることはない。

「辞任」で済まない責任 
現在の経済政策論議の不思議さは、政策目的やその解決策の検討が十分に掘り下げられないまま、当面の手段が目的化されていることだ。いつの間にか、円高とデフレは「悪」で、円安とインフレは「善」という単純な議論がまかり通っている。いかなる形で産業の再生を図るかという難しい問題の議論を避けて、「とにかく円安とインフレになれば、後は何とかなる」という単純な議論が蔓延している。だから、後先を考えず、とにかく通貨をジャブジャブ流して、インフレと円安を惹き起すことに全力が注がれる。インフレと円安を惹き起すことが日本経済を救う道になるはずもない。国債を限りなく買い入れ、マネタリーベースを2年間で2倍にして生じる後年の結果について、誰が責任をとるのか。

日銀副総裁に就任した岩田規久男氏は「2年でインフレ目標を達成できなければ辞任する」と明言した。さすがに麻生副総理は、「学者とはこういうものか」と疑問を呈したようだが、そもそもひとつの政策目標にすぎないインフレ目要達成を金科玉条にする考え方そのものが、学者の言動とは思えない。政治家に看破されるようでは先が見えている。いくら金融経済の専門家とはいえ、実物経済を含めた経済全体を描く議論が必要なはずだ。にもかかわらず、物価目標達成のためだけに職を賭けるというような言動は、学者としての知性が問われる。物価目標達成のために、国家財政赤字の急増と国債の暴落からバブル崩壊や超円安状態が生まれ、国民経済が再び混迷の道を歩むことに、責任を取れるはずがない。目先の結果を追いかけて、日本経済を再び危機に陥らせたら、日銀副総裁を辞任したぐらいでは済まない。目的であろうはずもない物価目標達成によって、国民経済に大きな損失をもたらす責任がとれないところに、現在の政策問題の本質がある。
事実上、財政赤字を積み上げて悪性インフレを起こし、国家債務を増やす道が、20年後30年後の日本にどういう影響をもたらすのか。誰もその責任を負えない。これは原発事故の責任を取れないのとまったく同質の問題だ。

金融投資は合法カジノ 
「辞任すれば済む」というのは金融経済界に蔓延する悪しき慣行。手がけた投資案件が成立して、膨大な成功報酬を手に入れる。利益が見込める場合には、会社の自己資金で投資するが、景気動向によって、それが不良資産になってしまうことがある。このようなケースでは、投資を呼び込んだ担当者は会社を辞めて、別の会社へ移ってしまう。景気によって価額変動が起こったのだから責任がないとも言えるが、そういうリスク資産を抱え込んだにもかかわらず、自らは大きな成功報酬を得て、後は「野となれ山となれ」というのは無責任だ。損失が会社の存亡を左右するほど大きい場合には、社員全体が給与から損失補填(強制寄付)させられる。一時の成功報酬は「私のもの」で、後から生じた損失は「全員で負担」というのは、どう考えても合理性がない。それもこれも金融投資は「カジノ」のようなものだから。1回1回の勝負で勝ち負けを決め、処理できない損失は胴元で引き受けるとうことなのだ。

 こういうことがあるから、証券投資や投資銀行業務を行っている会社や部局は、1か月ごとに損益の精算を行っている。儲けも損も短期で処理して、儲かっても何時までも喜ぶことなく、損しても何時までも悲観することなく、次の相場や投資案件に向かって進むことが必要なのだ。
 経済記事や株式・為替相場で良く使う言葉に、「市場が反応する」という表現がある。あたかも日本経済の市場全体が、ひとまとめに反応しているような表現だが、この「市場」は「金融市場」のこと。しかし、金融市場だけで国民経済が動いているわけではない。実物経済市場は金融市場とはまったく別のメカニズムで動いている。実物経済の一面は金融市場に反映されるにしても、ほんの一部にすぎない。なぜなら、金融市場で日常的に動いているお金は余剰資金や「あぶく銭」で、しかも巨額の「あぶく銭」の動向が証券や為替の相場に影響を与えているが、「あぶく銭」は実物経済とはほとんど無関係に動いているからだ。

 金融業と違って、実物経済の根幹である製造業はまったく別の世界だ。たとえば、500億円の「サムライ債」発行で幹事会社は1%程度の発行手数料が得られる(格付けによって異なるが)。この程度の規模だと、大手の証券会社は法人客を相手に2-3日の電話交渉で売りさばく。証券幹事会社が数日で稼ぐ5億円の利益を、製造会社が出すのは簡単でない。先行投資が大きい案件の場合には、実際の利益が出るまで10年以上もかかることがある。だから、いくら貸出利率が低くても、収益の見通しが立たない限り、簡単に金を借りて投資できない。日本のように成熟した経済ならなおさら、新しい製品を開発し、販売するのは難しい。国が補助金を出してくれるなら別だが、返済が必要なお金は、利子がゼロでも簡単に借りられない。開発したけれど物が売れなければ、お金を返せないからだ。金融投資の世界では、「損が出れば、次の投資で取り返せば良い」が、製造業では「資金借入と倒産リスク」は背と腹の関係にある。いくら貸出利率が低くなっても、簡単にお金を借りることができない。だから、金融緩和が進んでも、製造業の投資は活性化しない。

 製造業の難しさを棚に上げて、「円安やインフレになれば、景気が良くなって物が売れるようになる」と考えるは間違い。金融緩和の資金を手っとり早く利用できるのは金融投資。金融投資が盛んになれば、証券会社も潤うから、金融セクターのアナリストの分析は眉唾で聞いておいた方が良い。金融投資で儲けたお金は割安感のある不動産にも投資され、投資先が分散化される。こうして、金融資産や不動産の資産インフレが高進していく。証券投資や不動産投資を活性化が、直接的に製造業を活性化するメカニズムはない。

円安の進行や株式市場の上昇を見て、「やはり経済は期待で動く」と主流派経済学の正しさを主張するエコノミストは多いが、それは金融市場だけに通用する話。製造業や消費者が「将来期待」で動くと想定するのは現実を無視した分析。金融市場の論理を国民経済全体のメカニズムにまで普遍化して、「期待」で経済行動を説明するのは間違い。だから、専門外の学者に、「経済学はニュートン力学以前」と軽んじられる。製造業の実態も知らないで、目に見える金融市場の動きだけを見て国民経済全体を語る経済学者は「群盲象」の類だ。これこそ主流派経済学が現実経済の分析に無力な理由だ。実物経済は金融経済の論理で動く世界ではない。製造業復活の戦略もないのに、通貨量だけを増やせば、悪性インフレになるだけだ。

リスクと責任 
国外から見ていて良く理解できないことの一つに、「原発事故の責任は菅首相にある」という責任の矮小化だ。これこそ、歴代自民党政府の原発推進責任を放免する悪質なデマゴギーだ。菅首相の対応に問題なしとは言えないだろうが、そこに原発事故問題の本質があるわけではないだろう。
 原発事故の本質的問題は、原発の「グローバル・リスク」を歴代自民党政府が放置したことだ。人間が使用する機器や装置、インフラにはすべて何らかのリスクが随伴している。しかし、万が一、誤用や故障が生じた場合でも、リスクは局所化(ローカライズ)されるという前提があって初めて、広範な使用に供される。もし誤用や故障によってリスクがグローバル化される場合には、そのような機器や装置の使用は認められない。だから、自民党政府は「グローバル・リスクはゼロ」という前提で原発建設を推し進めた。

 たとえば、高速道路で事故が起これば確実に死亡事故につながる。しかし、事故は局所的で、高速道路全体に及ぶものではない。したがって、これは自己責任の範囲内で処理可能だ。ところが、いったん事故が起きると、その影響が大域的になる場合には自己責任では済まない。ところが、日本の原発建設では技術の過信と政治的理由から、グローバル・リスクを排除し、グローバル化する事故が起きた場合のリスク局所化の備えをしてこなかった。そのことが原発事故を大域化させた。歴代自民党政府と電力会社の責任以外の何物でもない。

 ところが、菅首相の事故対応の陣頭指揮を批判することによって、リスク局所化への備えを怠った歴代自民党政府の責任はうやむやにされた。責任転嫁以外の何物でもないが、こういう詭弁に国民が疑問を抱いていないのはどうしてか。もっとも、ヴェトナム戦争もイラク戦争も、日本が積極的に関与したにもかかわらず、あたかも何もなかったかのように検証作業が行われないのと同じと言えば同じである。それにたいして、国民も無関心だ。歴代政府の責任も政治家個人の責任も問われることなく、首相の交代で「一件落着」させる日本の社会は異常である。一つ一つの事件から教訓を学び、後世に伝えるという作業を怠り、首相が変われば「ご破算なり」という「政治のカジノ化」現象である。

 通貨量をどんどん増やして、インフレを起こそうという政策でも、誰もその結果として生じるカタストロフィーに責任をもたない。物価上昇率2%の達成というローカルな目標達成では済まないグローバルな結果が待ち受けている。だから、日銀の総裁や副総裁が辞任したぐらいで責任が果たせないのはもちろん、首相が辞めて済む話でもない。しかし、今の日本では誰の責任も問われることはないだろう。せめて後世の歴史家がきちんと総括してくれることを期待したい。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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〔eye2230:20140413〕