着々と大統領への道を固めたシーシ

著者: 坂井定雄 さかいさだお : 龍谷大学名誉教授
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「革命3年後のエジプト」②

 クーデターで、初めて民主的な選挙で選ばれたモルシ大統領とその政権を打倒し、最高権力者を握った将軍シーシは、着々と大統領選挙で正式に大統領に就任する道を固めてきた。前回も触れたとおり、大統領選挙ではシーシが圧勝するだろう。
 クーデターと同時に、軍は憲法を停止し、非常事態を発令、モルシとその出身母体のムスリム同胞団への徹底的な弾圧(詳細を後述)を開始。ほぼ同時に発表した政治工程表に沿って暫定政権の発足から、新憲法案作成、その国民投票・制定(2014年1月)を経て、間もなく正式に公示される大統領選挙(4月中旬までに実施)へと進めてきた。残る政治工程の国民議会選挙は、新大統領の権限で定める選挙法で実施されるので、議会もシーシ与党が多数を占めるだろう。シーシ独裁体制が始まるという予想が欧米メディアでは公然と語られるようになった。

▽シーシを抜擢したモルシ
  シーシを軍トップの最高評議会議長兼国防相に抜擢したのは、モルシ大統領だった。モルシは政権発足の1か月後、ムバラク時代から軍政を経て、その職にあったタンタウイ軍最高評議会議長兼国防相を高齢の理由で退任させ、シーシを後任に任命した。軍側の反抗も予想されたが、タンタウイも軍も静かに受け入れた。モルシは、軍を掌握したかに見えた。
 モルシがなぜシーシを選んだのか、その理由はわからない。シーシは、1954年11月生まれの59歳。軍情報・偵察本部長官で、軍最高評議会の最若年メンバーだった。他の将軍と違って実戦経験もなかった。エジプト軍では伝統的に空軍、陸軍の権力が強く、ムバラクは空軍司令官・元帥だったし、2012年の大統領選挙でモルシと決選投票を争ったシャフィークも空軍司令官だった。それに比べシーシは1977年に軍アカデミーを卒業後、機械化師団、国防省情報部長、参謀長、北部軍区司令官を歴任したのち情報・偵察本部長官になった。空、陸軍の中枢部の有力者とみられたことのない軍人だった。モルシはシーシの、ハンサムで決断力があり、説得力がある話し方と誠実そうな人柄を見込むとともに、軍中枢を占める将軍たちとは距離があり、動かしやすいと考えたともいわれている。事実、就任当初から、シーシはモルシに協調し、モルシが憲法上の最高司令官としてトップダウンでやった、軍主要ポストの若返り人事を平穏に受け入れた。

▽モルシを裏切り、同胞団を徹底弾圧
 しかし、新憲法制定へのモルシとムスリム同胞団の進め方に、司法界はじめ旧勢力とリベラル・世俗政治勢力の反発が強まり、一方でモルシが軍のビジネス特権に手をつけようとして軍がはねつけた12年秋ごろから、シーシとモルシとの距離が広がり始めた。そして13年春、外貨準備不足によるディーゼル油の欠乏と価格高騰はじめ物価上昇と治安の悪化への国民の不満が高まり、デモが頻発。6月末には、モルシの大統領辞任を要求する数十万人規模の巨大なデモに拡大、シーシはモルシに辞任を迫り、モルシが拒否したためクーデターを起こした。シーシがいつごろから、クーデターによる権力奪取を考えていたのかはわからない。しかし、クーデターで最高権力を掌握したのちのムスリム同胞団への過酷で、徹底した弾圧を見ると、軍トップに就任した当初から、ムルシ政権を打倒し、ムスリム同胞団の“息の根を止める”まで弾圧することをひそかに考えていた、という推測を排除できない。その徹底ぶりは、シーシが信奉するナセル以上だともいえる。(続く)

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〔opinion4781:140308〕