砂にもどった中国人? ―論議を呼んだアジア大会でのバスケの敗北

 スポーツの秋、たけなわである。と言っても、当方、自分の四肢が不自由になるのに比例してスポーツのニュースは視界から遠ざかり、どこでどんな大会が開かれようと、ほとんど関心が向かないのだが、インターネットを徘徊していて、おもしろい記事にぶつかった。
 中国の浙江省杭州で開催中のアジア大会で、去る4日、男子バスケット・ボールの準決勝、中国・フィリピン戦がおこなわれたのだが、この試合が物議をかもしているらしいのだ。
 というのは、この試合、初めは中國チームが優勢で、一時は52対32と20点差までリードを広げたのだが、その後、第3クオーター終了時点では62対50と12点差まで詰め寄られ、最終第4クオーターの残り59秒となったところでは、76対74と2点差にまで追い上げられた。そして残り24秒の土壇場でフィリピンに3ポイント・シュートを決められ、そのまま中国の敗戦となった。
 この結果に、メディアはこぞって中國チームのだらしなさを糾弾する文章をかかげ、同じくこのところ不振のサッカーと並べて、「中国の男子バスケはすっかり男子サッカーと化している。いずれもプロスポーツ改革の目玉だったのに、最終的に同じ道を歩んでいる」(『解放日報』)などと落胆の色を隠せない。
 中で私がおやと目を引かれたのは、『南方都市報』という新聞の「驚いた。もしかしたら、われわれは団体のスポーツに本当に向いていないかも知れない」という一句である。
 近代以来、中国が列強に侵略される歴史を歩み始めてから、中國人の国民性が内外で論じられたが、その中でとりわけ孫文の「4億の民がいるが、実際は一枚の皿に載った砂(「一盤散沙」)にすぎない」という言葉が有名である。これは中国人の個人主義的傾向を批判したものとされているが、共産党統治下では滅多に聞かれないことばである。
 手軽に中国の検索サイト「百度」でこの言葉を引いてみると、「西暦1900年の義和団事変当時の写真を見ると、八カ国連合軍が北京城に攻め込む背後で、民衆は無心に手押し車で荷物を運んでいる。そこには自分の国が侵略されているといった受け止め方は感じられない。孫文はその情景を『皿の上の砂』と表現した」とあり、説明は「しかし、五四運動(1919年)がすべてを変えた。民族は目覚めた。そこから抗日戦争、解放戦争の勝利が生まれた」と続く。

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 中國人の民族性については、さまざまな議論がある。中でも孫文のこの「一盤散沙」は有名だし、ほかにも「商の民」(商売がうまい)といった言い方もあるし、「中国人は何処まで行っても中国人」というのもある。中國人は住むところによって比較的気軽に外国の国籍を取得したりするが、それは自分の国籍を捨てるわけではなく、何国人になろうと自分は中國人であるという中心はびくともしないから、便宜上、他国籍を名乗ることに別に抵抗はないのだという説明がつく。
 しかし、引用した「われわれは団体スポーツに本当に向いていないのかもしれない」という言葉は意味深長だ。「本当に」と言うからには、筆者はすくなくともそういう言葉を日常的に耳にしている、あるいはそれが常識として語られている、ということだろう。
そして、「団体スポーツ」に向いていない、という言葉の意味は、他人とあるいは複数の人間と、意思を一つにして行動することには不向きである、ということになる。
 本当にそうなのであろうか? 
 なぜこんな言葉にこだわるかと言えば、そこのところが私にも本当にわからないからだ。毛沢東たちが新国家を建設してからだけを考えてみても、そうのようでもあれば、そうでないようでもある。
 新国家発足は1949年だから、今年の10月で建国74年になる。その間、国民が文句を言わない(言えない)時期と必ずしもそうではない時期があった。
 大躍進とか人民公社、あるいは文化大革命、さらには改革・開放など、上からの呼びかけに国民が脇目も振らずについて行った時期もあれば、その合間には壁新聞や街頭デモや新文学ブームなど、民衆が自らの望むことを大声で叫び合った時期もあった。
 いったいどちらの中国人が本物の中国人なのか。いやどちらというのは間違いで、同じ中国人の2つの顔かも知れない。そう考えてもまだ分からないのは、1989年の6月4日、民主化を求める若者たちを軍隊が弾圧に出て、319人(公式発表)もの死者を出した6・4天安門事件以来、34年もの歳月が経過したのに、いっこうに「次」が来ないのはどうしたわけか。
 昨年末、行き過ぎた「反コロナ禍」に抵抗する若者や市民の間に「白紙運動」なるものが始まった。A4版の白紙を掲げて集まるという運動だが、「スワ久しぶりの大衆運動か?」と色めきだったのは、どうやら外国のマスコミだけで、すぐにこの「運動」は消えてなくなった。
 バスケット・ボールの敗戦ニュースから、話はあらぬ方へ飛んで着地点も見えなくなってしまったが、「もしかしたら、われわれは団体のスポーツに本当に向いていないかも知れない」という記者のつぶやきは、久しぶりに目にした中国人の自問自答である。
 なんでもいい、中國人の自問自答をもっと聞かせてほしい。今、この世界で中国人は中国を、そして中国人自身をどう考えているのか、聞かせてほしい。(231007)

初出 :「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion13290:231010〕