学者の矜持
自然科学と社会科学とを問わず、優れた学者は自らの研究成果のもつ意味と限界をよく分かっている。基礎的な研究がすぐに実際の役に立つことはない。実際に役立つようになるためには、実用に向けた無数の研究開発が必要になる。自然科学や工学の分野の基礎研究が、実際の製品にまで結実するためには長期のたゆまない努力が不可欠である。
社会科学も同じである。経済学は複雑な国民経済を極端なまでに単純化し、そのモデルの枠の中で思考実験を行っている。ところが、経済学者は前提としているモデルの枠組みが、現実経済からどれほどかけ離れたものであるかを分析することはない。モデルを現実そのものの完全な抽象化だと考えている。だから、モデルから得られた政策提言通りに経済が機能しないのは、現実に攪乱要因があるからだと説明する。トートロジーである。経済学者の多くは、何時の間にか、自らのモデルが現実で、現実は仮の姿だと考えるようになる。本末転倒である。こういう経済学者の提言が、現実経済を動かす有効な政策にならないことは目に見えている。
それでも、一昔前の優れた経済学者は、自らの理論の限界をわきまえ、時の政府に経済政策を進言するというような安直な行動を差し控えていた。ところが、アメリカで経済学を学んだ学者は、アメリカの経済学者と同じように政府に政策進言できると考え、積極的に政府の政策形成にかかわるようになっている。しかし、昔の経済学者と異なり、権威に惹かれる経済学者は自らの限界をわきまえていない。とくに、頑迷で傲慢な学者にはそれが分からない。
さて、浜田内閣参与は黒田日銀の量的金融緩和政策が機能していないことを認めたが、かといってデフレ現象が実体経済を原因とするものであることを認めているわけではないようだ。その背景には、金融経済はイメージできても、実物経済をイメージすることが難しい点にある。一般に、経済学者は同質性の高い金融経済を抽象的に扱うことには得意だが、多種多様な産業からなる実物経済や家計(消費者)を現実に即して考えたり、処理したりすることができない。高々、GDPという価値ノルムを実物経済の集計値として扱うだけである。しかし、GDPは一つの量的指標に過ぎず、「GDPを操作すれば実物経済が理解できる」ことにはならない。経済学者にはそれが分からない。だから、経済学者の現実経済にたいするイメージは極めて貧弱である。
混迷する思考
『文藝春秋』(2017年新年特別号)に寄稿された「『アベノミクス』私は考え直した」を読むと、浜田内閣参与はますます理論的な混迷を深めているように見える。しかも、そこで語られる言説から分かることは、現実の経済や国民生活の知識が極端に不足していることだ。学者の世界のディスカッションから直に現実経済の政策提言を行おうとする姿勢は、経済学者の役割を誇大に妄想する傲慢さを如実に現している。
この寄稿の中で浜田氏が述べていることは以下の点に尽きる。
(1)「デフレはもっぱら貨幣的現象であり、金融政策によって影響できる」と考えていた従来の思考をあらためる必要がある。
(2)「金融政策が効かない原因は『財政』にある」というシムズ(プリンストン大学教授、2011年ノーベル経済学賞受賞)の指摘に、「衝撃を受けた」。金融政策の「より強い効果を出すためには、減税など財政拡大と組合せよ」という「斬新なアイディア」に「ハットさせられた」。「量的緩和によってインフレが起こらない理由は、『財政とセットで行っていないからだ』ということが分かった」。
(3) 「リカードが主張しているように<公債は民間の資産とは言えない>が、リカードも述べているようにそこまで利口な国民はいません。いま、お金を持っていれば、『私は富んでいる』と錯覚する…。むしろ、国民がデフレで困っている状況下では、その錯覚を利用して、公債という「ニセ金」で皆を富んでいる気持ちにして消費を刺激した方が経済は活性化するのです」。
(4)「一時的に政府に赤字が出ても、お金は税収として戻って来るのです。...ここまでうまく働いた金融政策の手綱を緩めることなく、減税を含めた財政政策で刺激を加えれば、アベノミクスの将来は実に明るいのです」。
浜田氏にはデフレが実物経済に起因するものでないかという推測はあるようだが、しかし実体経済なるものの具体的なイメージが持てないようだ。学者の世界だけで生きた人には、実際の企業活動や平均的な家計状況を想像することが非常に難しい。だから、「考え直した」と言うが、実際の政策提言には何の変化もない。国民経済の実態と歴史的動態を構想できる想像力が欠如していることが分かる。
上記の論考の前段で、経済政策の二本柱は金融政策と財政政策だと言いながら、この段になって、「(量的金融緩和政策は)財政政策がセットになっていなかったことに気づかされた」と告白するとはどういうことか。アベノミクスは「機動的な財政政策」を提唱しており、安倍内閣は十二分に赤字国債を発行している。財政赤字をもっと増やしてでも、財政規模を大きくすることが必要だったというのだろうか。どこまで赤字を増やせば金融政策が機能するというのだろうか。もともと、ノーベル経済学賞は平和賞と並んで「胡散臭い」賞とみなされている。現実の経済問題とはほとんど無関係なテーマをもてあそぶものが多い。経済政策の専門家でもない1人の経済学者の単純な指摘に「目から鱗がとれたよう」と驚嘆すること自体が、現代経済学の権威主義と貧困を教えてくれる。
国民の錯覚を利用して消費を刺激すれば良いというのは、学者の観念論以上の何物でもない。そもそも国民は錯覚などしておらず、将来の年金や健保の財政状況が悪化することは確実だと考えている。大学者浜田先生の感性より、はるかに現実を捉えた直観である。だいたい、「消費を刺激して」というが、国民にいったい何を買えというのだろうか。抽象理論モデルしか扱ってこなかった経済学者には現実感覚が欠如している。国民はデフレで困ってなんかいない。そもそも、デフレといっても、物価が下がり続けているわけではなく、上昇していないだけのことだ。賃金が上昇しない状況下で物価が上がらないことがどれほど助かっているか。浜田先生はまったく庶民の感覚が分かっていないようだ。
そして、「財政赤字が拡大しても、経済成長が達成されれば、税収となって入ってくる」から心配することなどまったくないという楽観論は、政権与党の政治家が期待する「高度成長をもう一度」という根拠のない希望と大差ない。「大学者」がこの程度のことしか言えないのだろうか。日本経済の歴史的動態の理解が完全に抜け落ちている。日本経済の青年時代はすでに終わっており、今まさに実年から老年の時代へと移行しようとしている。いつまでも「高度成長」を夢見る経済学者は、本当に学者と言えるのだろうか。これでは心ある弟子たちが、「殿ご乱心」と心配するのは無理もない。
学者は齢を重ねる毎に、思考の柔軟性を失い、自らが到達した抽象的な過去の発見に拘り、現実の状況を顧みることなく、単純な結論を堂々巡りするばかりになる。だから、栄誉と報酬を得るために政治の世界に飛び込む人は仕方がないとして、学者としての晩節を汚したくない人は、自らの役割を過大評価して政治に足を突っ込むことは止めた方が良い。ただ、人は歳を取ると、そういう分別ができなくなる。何とも寂しい限りだ。
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