2010.10.15 チリ・コピアポのサンホセ鉱山落盤事故で地下700メートルの暗闇に閉じこめられていた33人の鉱山労働者たちが、70日ぶりに全員無事で救出されました。感動しました。人間の尊厳、いのちの重さ、家族の絆、絶望のなかでの希望と勇気、信仰と祈りーーCNNのFreed after 69 days undergroundという記事についたビデオが、33人の一人一人の奇跡を伝え、生きる喜びを実感させてくれます。さまざまな問題で対立する世界の人々が、インターネット中継でつながりました。アメリカでもヨーロッパでもオーストラリアでも、アジアでもアフリカでも、もちろん中南米のすべての国の人々が、国境を超えて固唾をのみ、カプセルの昇降を見守り、奇跡の生還に心を動かされました。その瞬間、地球は一つでした。ウィキペディアでは日本語版もすでに改訂され、地底生活の困難、事故の発生から救出方法の詳細まで報じられています。落盤事故が起きた鉱山は、19世紀から銅と金の採掘所で、1995 年には鉱山労働組合から閉鎖要求が出された危険な鉱山でした。坑道内部は螺旋状に1本道で地下深くに伸びており、迂回路や退避路は設けられていませんでした。現在の所有者ミネラサンエステバン社は(おそらく国際的な銅価格暴騰に乗ろうと)旧い施設のまま2009年に操業を再開し、オーナーは事故発生後9日間、行方をくらましました。17日後に、33人の避難所での生存が確認されて後、チリ政府の強力な指導と世界中からの支援により、3本の救出ルートで救援がはかられ、当初はクリスマスまでかかると言われていましたが、プランBの「フェニックス(不死鳥)」カプセルによるレスキューが可能になりました。通風口とファイアースコープを通じた家族との交信、食料・薬・衣類等の供給が、「希望(エスペランサ)」を持続させました。そして、10月13日から14日にかけて、33人全員が無事救出されたのです。その意味では、旧式の鉱山施設への最新科学技術の投入が絶望を希望に変えました。
被災者たちを励まし、食料備蓄を生き残りのために管理・ルール化し、33人を班に分けて救出に備えた仕事を分担して最後に救出された現場監督のリーダーシップは、危機管理の模範を示すもので、経営学や組織論のモデルになるでしょう。「希望」のドラマを最大限に利用し演出したビニェラ大統領の手腕も、結果責任が伴いましたから、支持率急増も許せるところでしょう。問題は、最後に救出されたウルスアさんが地上第一声で述べた「こういうことが二度と起きないように」という保安・防災上の願いと、事故の原因究明・再発防止策です。すでに損害賠償訴訟も起きているようですが、工業化に必要な天然資源を採掘する鉱山の事故は、世界各地で頻発しています。中国での炭鉱事故による被災死者は急増し一説では年6000人以上、チリの事故の背景に銅の国際価格暴騰による無理な採掘があるのと同様に、先進国のハイテク技術も、レアメタルやレアアースに依拠していることを忘れてはならないでしょう。またハイテク技術の加速度的発達が、電子ゴミなど膨大な廃棄物の中国やインドへの集積をもたらしていることは、昨年1月本サイトでもレポートしました。日本でも、1981年の北炭夕張炭鉱事故は、ガス突出・坑内火災と事故の種類は違いますが、事故発生1週間後に、59名の安否不明者を見殺しにして坑内注水が行われ、最終的に93人の生命が奪われました。当時としては最新の設備を持った新炭鉱でしたが、石油危機後の石炭見直しを断念させ、北炭夕張は倒産、夕張市を「観光都市」に転身せざるをえなくして、かの夕張市財政破綻のきっかけとなりました。当時も論争がありましたが、絶望を希望につなぐ「いのち最優先」は、日本的経営の全盛時代でも貫き得なかったのです。「過労死」という言葉が、ようやく市民権を得た時代でした。
「希望」が必要なのは、今の日本の経済と政治です。北大鈴木章名誉教授、パデュー大根岸英一特別教授のノーベル化学賞ダブル受賞は、確かに「希望」の一つですが、それは1970/80年代の創造的研究でした。鈴木教授が強く訴えているように、長期の財政的支援が必要ですし、根岸教授が憂えているように、若い人々が海外に雄飛する勇気が縮んできては将来が不安です。今回のチリ鉱山事故の「奇跡の生還」に使われた高速掘削機は、アフガニスタンで井戸を掘っていたアメリカ製でした。カプセルを巻き上げた巨大なクレーンは、中国製「神州1号」でした。どちらも日本が得意としてきた分野です。防臭下着や小型カメラは日本製だったといっても、情報戦でのアピールの度合いは違います。ましてや政治の世界では、33人を束ねた冷静なリーダーの勇気や、チリ大統領の現場陣頭指揮が強調されればされるほど、またまた支持率急降下の民主党内閣や、それに対抗軸を出せない野党のふがいなさが際だってきます。10月3日放映のNHKスペシャル「『核』を求めた日本ーー被爆国の知られざる真実」は衝撃的でした。沖縄返還と「非核3原則」でノーベル平和賞を日本人で唯一受賞した佐藤栄作首相の時代に、当時の自民党日本政府・外務省は中国の核実験と反戦平和運動に反発し、密かに独自の核保有を検討し、西ドイツとの外交密議まで行っていたとの話。そういえば、当時の平和運動の中には、「社会主義国の防衛的核」を容認し、原水禁運動を分裂させた勢力がありました。そうした勢力がベトナム戦争反対や70年安保闘争に入っていて、佐藤内閣には脅威だったようです。西ドイツ政府との核保有密議は1969年2月、なぜか東大安田講堂事件・入試中止の直後でした。「核なき世界」をうたってノーベル平和賞を昨年受賞したオバマ大統領のもとで米国臨海前核実験再開という愚挙、「沖縄返還密約」に加え「核保有密議」が明るみに出た日本政府はそれに抗議できず、その歴史的検証も曖昧なままで、普天間基地辺野古移転の日米合意を継続する国会答弁。「勇気なき政権交代」で「沖縄県民の希望」は無視され、11月沖縄知事選に与党は候補者もたてられない民心離反。20世紀にさかのぼって「希望なき政治」の原因を探り出し、「密約外交」の再発防止が必要なようです。