続・第二のふるさと訪問記

―-八ヶ岳山麓から(270)―-

前回書き残したことを順不同でいくつか書く。

ほめたたえよ
西寧から高速道路で2時間ほどの、チベット人地域チェンザ県の元「千戸」のナンチェンの屋敷へも行った。ここは2度目だった。周囲を二階建ての部屋が囲み、中央に大きな庭をもつ、城砦風の建物である。「千戸」というのはモンゴル帝国以来、歴代王朝が少数民族の支配者に万戸・千戸・百戸などの官位を与え、懐柔に利用した制度である。
ナンチェン屋敷の展覧室の壁には、習仲勲の偉大な業績をたたえる文章と写真のある、新しいパネルがずうっと並んでいた。彼は1949年西北を制圧した彭徳懐将軍率いる第一野戦軍(西北軍)の政治委員だった人物である。ご存知習近平主席の父親である。
中国では革命期の解放軍の寛容さを示すとき、ナンチェンが解放軍に降伏した事件がかならず登場する。チベット人数千を率いて解放軍に長らく抵抗したナンチェンを、第一野戦軍は武力を用いず、十数回も忍耐強く説得したというのである。パネルでは、その説得工作に当ったのが習仲勲ということになっていた。
事実は異なる。おもにナンチェンの説得にあたったのは、中国共産党の「大西遷」に同行したチベット人幹部のタシ・ワンチュクである。それがうまくゆかず、最終的には優勢な解放軍がナンチェンの屋敷を取り囲み、迫撃砲を討ちこんで屈服させたのである。砲弾の跡が今も中庭に残っている。

パンチェン・ラマ十世の生家と、彼が幼時修行したインドゥ・ゴンパ(寺)にも行った。パンチェン・ラマの生家も元「千戸」だったので、ナンチェン砦ほどではないが、一般民家よりは一回り大きい。
ここにも展覧室に習仲勲の業績を称える新しいパネルがずらりと並んでいた。パンチェン・ラマはもともと中共寄りの青年であった。だが1958年から始まるチベット叛乱の鎮圧の凄惨なありさまを知った時、彼は「このままでは民族も仏教も滅びてしまう」という内容の「七万元書」を上げて、中共中央に民族政策の転換を求めた。毛沢東はこれを「党に対する毒矢だ」として、彼を14年間監禁、時々吊るし上げという目に合わせた。
パンチェン・ラマをめぐるこうした歴史は、いまだって書けるわけではない。習仲勲は他の高級幹部よりは少数民族に理解のあった人だといわれている。公平な人でもあったらしい。だが、パンチェン・ラマ十世の生家である。習仲勲ばかり持上げるだけでなく、パンチェン・ラマの業績ももう少し書いてもよいではないかと私は思った。パンチェン・ラマは文化大革命後釈放されると、随分少数民族のために発言し、尽力しているのだから。

西寧の町には、おもな交叉点の信号の隣に「党へ絶対的に帰依しよう。習近平同志を核心とする党中央と一致しよう」というネオン・サインが点滅していた。北京ではこんな現象はなかった。首都よりも地方のほうがへつらい加減がはなはだしい。

北京っこの声
北京に戻ると、一日目空気はきれいだった。友人のひとりは風があるからだといった。なるほど、次の日薄い霧が漂った。街路を10分も歩くと喉が痛くなった。紅葉をみるために北京北西の香山に登ったが、頂上からは煙霧に妨げられて北京市街は何も見えなかった。
北京の集中暖房の燃料は石炭から石油に代わりつつある。郊外の工場も酷い廃棄ガスを出しているところはかなり整理された。だが、すべてが完成しているわけではない。集中暖房は11月7日から入る。そうすると濃いスモッグの発生は避けられないとのことだった。いまその通り、例年通りのスモッグが北京を覆っている。

北京市の蔡奇書紀が昨年年11月大興区で「区画丸ごと取壊し、全住民強制立退き」を強行したことについては、すでに本ブログで田畑光永氏が詳しく紹介した。その後坂井定雄氏も北京市の強引なやり方を肯定する人の声を伝えている。わたしも友人たちに聞いてみた。やはり「蔡奇市長のやり方が強引だって?そんなことはない」という答えが返ってきた。
「彼らは住む当てもなく放り出されたじゃないのかね?」
「くにに帰れば畑も家もあるじゃないか。生きてゆけるだろう」
「そうはいったって、彼らは農業じゃやっていけないから北京へ出てきたのじゃないのか?」
これに対して友人はこういった。

農民工が北京のビルやインフラの建設に貢献したことはわかっている。かつて彼らは安い賃金で危険な重労働に従事した。にもかかわらず、市民にばかにされたり、請負師に賃金を踏み倒されたり、賃金の上前をはねられたりした。北京の繁栄には彼らの汗と血が浸みこんでいる。
だがもう基本建設は終ったし、大興区の住民はあの世代の農民工じゃない。いま北京の農民工は野菜や果物を売ったり、室内の修繕をしたり、屑屋をしたり……いわば自営業だ。住んでいるのは粗末この上ないところで、上下水道もないのに家賃を払わなければならない。
残念ながら、そこは不衛生と犯罪の巣だ。市民の誰もが嫌がっていた。蔡奇のやり方に誰もが賛成しているわけじゃないが、撤去されてもやむを得ない。

北京でも西寧でも、新聞が手に入らないのが不満だった。以前は街頭に日本の鉄道の売店にあたる「小売部」があって、ここで新聞・雑誌、若干の小物などを売っていたが、これがまったくなくなった。北京だけではなく西寧でも「小売部」がなくなっていたから、これは「お上のお達し」によるものではないかと思った。
「習近平2期目から報道統制が厳しくなった。それで新聞や雑誌が面白くないうえに、内容がほとんど同じだから誰も買わないのだ。買わなければ閉鎖する。閉鎖されても特別の不便はない。ネットがある。中国ではたいていの人がスマートフォンを持っている。ネットだって規制されているが、スマホには政府の広報だけでなく、いろんな情報が入ってくる。社会批判・政府批判もときどき紛れ込むしね」
友人は、言論統制はいまに始まったことじゃない。革命以来一貫している。当今はそれが一層強化されたというにすぎないといった。言論の自由が極度に制限されても不満はないのかという質問に、こういう答えが返ってきた。

そう多くはないとしても、やはり不満を持つ人はいる。だから政治風刺や批判を書く人がいる。それがうまくネットに載れば人々を喜ばせたり笑わせたりするのである。こういう手段もこのところ極端に少なくなったとはいえ存在する。
だが、中国人民のほとんどは政治問題を避けようとしている。文化大革命のように、親子を切離して家庭を破壊したり、罪もないものを殺したり、投獄したりするのなら問題だが、おのれの生活をそっとしておいてくれれば誰が権力をにぎったってかまわない、というのが本音だ。
私は、十数年に及ぶ中国生活をかえりみて、なるほどその通りだと思った。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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