これまで2回(1月5日、6日)、中国で「一強」のはずの習近平体制の、実際はとてもそうは見えない、なにかというと「だんまり」で逃げる癖を指摘してきた。一昨年秋の共産党大会、最終日の開会直前に胡錦涛前総書記が強制退場させられた事件もそうだし、昨年は外交・国防という重要2閣僚が姿を消し、しばらく経って「解任」は公表されたものの、理由は一切沈黙、そして共産党大会1年後の昨秋に開かれるはずの重要な「中央委員会」(第20期3中全会)が開かれないまま年を越したこと、年末に翌年の経済政策を最高幹部が決める「中央経済工作会議」は開かれることは開かれたが、その発表文には経済についての数字がひとつもなかったこと・・・、これだけ首を傾げさせられると、外国人でなくとも、中国の一般庶民でも「この政権、なんかヘンでは?」と思っているはずなのだ。
なぜ奇妙なだんまり戦術がこんなに続くのか。私にも本当のところはもとより分からない。そこで、習近平とすれば、「いくら奇妙に感じられようと、本当の理由を明らかにするよりも、言わないほうがまだマシ」というよほどの事情があるからではないか、という推測を一応の答えとしている。
真相はいずれ分かるだろうから、それまでのつなぎとして、この後は習近平政権の特色、これまでの政権とどこが違うかを(私は大いに違うと考えているので)検証してみたい。
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今の中国(中華人民共和国)の建国は1949年だから、今年は建国75周年、4分の3世紀の歴史を刻んだことになる。その間の国家の指導者をその治世の流儀で辿ってみると、初代が毛沢東、2代目は鄧小平(とその継承者=江沢民、胡錦涛)、そして実質3代目が習近平と、大雑把に分類できる。
それぞれの長さは、毛沢東時代は建国から1976年の死去までの30年弱、その後を引き継いだ鄧小平時代は鄧小平没後の胡錦涛時代までと数えて2012年まで30年強、そして今の習近平時代がその後となる。
この3代の中国社会を次のように区別すると、はっきりと色分けが出来る。まず貧乏な時代、次にすこし楽になった時代、そして金がだぶついて大金持ちと貧乏人の格差が広がった時代、と。
この3代それぞれの指導者はどんな言葉で国民を引っ張ってきたかもはっきりと対照的である。毛沢東は「階級闘争が要である(以階級闘争為綱)」、鄧小平は「発展こそ一番の道理(発展才是硬道理)」、習近平は「2,3,4,5.・・」(これについては後で説明)。
毛沢東を頭とする世代は階級対立の理念(資本家と労働者、農村では地主と貧農・下層中農)を大衆に理解させて、階級敵への反抗心をあおることを武器にして、ほとんど農民の両の手のみで結党以来28年であの大陸に社会主義政権を打ち建てた。そして革命成就後もその延長線上に豊かな中國をつくり上げよう、と考えたのはごく自然であった。
しかし、この路線は階級敵(地主階級や国民党)を倒すには有効であったが、経済の発展にそのまま結びつくわけではなかった。長年にわたって戦火に覆われ、戦後も東西対立の中で西側諸国からは援助を得るどころか、貿易もままならない中では、本来、革命勝利と貧困からの脱却は別次元のことであるのに、貧困克服も「革命勝利」の歓喜の延長線上に道を切り開かざるを得なかった。
毛沢東が建国以後も「階級闘争が要である」と言い続け、反右派闘争、文化大革命と政治運動に人民を駆り立てたことは、いかにも政治闘争が好みであったような印象を与える。しかし、私はほかに方法がなかったためにそうするしかなかったと考える。
建国直後の中国の状況を想像するに、抗日戦争から国共内戦と10数年にわたって戦火が絶えなかった国土は荒れ、多くの地域で国民の生活は生存維持ぎりぎりのレベルであったろう。であれば、新国家建立の昂揚にふさわしいなにかを国民に与えたいと、毛沢東ならずともだれしも思うであろう。
そこで、農地を共有にして共同経営化(合作社→人民公社)を進めたが、それだけで農産物がたくさんできるわけでもなく、また私営の工場を社会の共有(国有工場や公私合営)にしただけで生産量が増えるわけでもなかった。反右派闘争から大躍進、人民公社、さらに毛沢東晩年の文化大革命まで、階級敵の存在をなお仮想してその打倒へそそぐエネルギーを建設の元手にしようとした毛沢東路線は国土を混乱と悲劇の舞台にしただけで、彼は世を去らねばならなかった。文化大革命は彼の後継者たちによって「十年の災厄」と総括された。
毛の死後、2年ほど党内に曲折はあったが、それを切り抜けて主導権を握った鄧小平は、徹底した現実主義者であった。日本流に言えば、「腹が減っては戦はできぬ」に徹した。彼の口癖、「発展こそ一番の道理」はまさに国民の腹を満たせずになにが出来ると言うのか、そのためには国を開いて外国の工場でも何でも取り込むべし、という意味である。ごく若い時期に留学して、フランス、革命直後のソ連を見てきた鄧小平は、中国の農村に留まって、ランプの下でマルクス主義を中国語で読んだ毛沢東とはまた違う革命観を持っていたのであろう。
鄧小平は資本主義を恐れなかった。毛沢東時代には、夏、アイスキャンディーを自転車で売り歩くのも「資本主義の芽」とされたが、鄧は日本流に言えば「ヤミや」「担ぎ屋」の類が小金をためるのを奨励こそすれ、取り締まろうなどとは決してしなかった。外国資本も恐れなかった。土地が欲しければ貸してやれ、人を雇いたければ雇わせろ、ものの生産でない食堂でもホテルでも外国人にやらせて構わない、という態度だった。
そして広東省、福建省には経済特区が開設され、革命前の租界の復活を連想させた。「昔、尻尾を巻いて逃げて行った外国の資本家が、カバンに金を詰めて帰ってきた」という戯言が囁かれた。
鄧は60年代前半には、激しい中ソ論争の中国側代表団長としてモスクワに赴き、社会主義のあり方についてソ連「修正主義」と激しく渡り合った毛の代弁者であった。
そして10数年後、70年代末からの鄧の「改革・開放」政策は大成功を収めた。今、思えば当時、世界の経済はまさに大きな技術革新のただ中であった。早い話、ワープロが登場したと思う間もなく、パソコンが世界の事務所を占領し、ビデオカメラ、事務機、車などが世界の風景を変えた時期であった。
この変革の特徴は素人考えを言わせてもらえれば、工業生産における熟練技術の存在を小さくし、生産技術の様式化を急速に広めたと思う。この時期、中國南部の経済特区にできた日本その他の国の工場では、最新の自動化された機械を農村から出てきて間もない工員たちが短期間の研修で操って、最新型のテレビ、カメラ、パソコンなど人気製品を作っていて驚かされたものであった。鄧小平の果断が見事に歴史の好機をとらえたと言っていいのではないか。
その鄧小平については、同時に付け加えておかねばならないことがある。鄧は毛の死後、「2年ほどの党内の曲折」を経て主導権を握ったと書いたが、そのための手段の一つは文化大革命の間に国民が味わった苦難を国民自身に告発させることであった。「西単(シータン)の壁新聞」という言葉を覚えている人もおられるかも知れないが、「西単」は北京の西長安街の地名で、そこにある長いコンクリート壁に民衆が文革で味わった苦難を書いて貼り付けることを鄧は黙認した。
それは1978年の秋から翌年の春までの半年足らずであったが、昼夜を問わず壁の前には分厚い人垣ができて、「批闘」(迫害)に会った幹部の家族、農村に下放された若者、その他が自らの辛い日々を書き連ねた文章に目をこらした。
文革の悲劇を大衆に告発させることで、反文革が次の政策路線であることを浸透させ、この年12月の前出「11期3中全会」で「改革開放」路線への転換につなげたのであった。
それは利己主義を排除した文革路線とは逆に、個人の行商や小商売、地方の村営企業(郷鎮企業)、外資の」導入、外国企業が工場を設置するための経済特区など、「金儲け」を公認、というよりむしろ賞揚する政策への転換に正当性を与えた。
この政策は大成功であった。「改革開放」の結果、中国は2010年には上海万博を成功させ、GDPでは日本を抜いて、中國は世界第2位の経済大国へと上り詰めた。
この成果をもたらした鄧小平の功績は大きなものがあるが、同時に鄧小平は後の大きな悲劇の種を播いたことにも触れておかねばならない。
鄧正平は1978年秋に現れた「西単」の壁新聞を文革路線から脱却に利用したと書いたが、それは中国における言論表現の自由にはつながらず、日ならずして鄧小平の手で押しつぶされてしまったのである。
1979年2月、鄧小平はベトナム懲罰戦争という軍事行動に出た。発端はベトナムがすでに数世紀も住み着いている中国系移民を中國へ強制的に送り返してきたことに腹を立てて、ベトナムの北部へ出兵したのである。そのさなか、某々司令官の部隊が手痛い打撃を受けたという「ニュース」が壁新聞に登場した。「軍の機密が漏れた」と腹を立てた鄧小平は壁新聞の取り締まりに手のひらを返したのである。
これが鄧小平の改革開放政策も、こと政治の民主化、言論表現の自由といった問題では旧態依然に過ぎないことを明らかにした最初であり、その後、文学の世界でも、学生運動でも、「改革開放」の実を求める動きとそれを抑えつける動きの衝突が間歇的に発生する。
そしてその行きつく果てが、数百人の死者を出した1989年の天安門広場での学生デモ鎮圧、「六四惨案」であった。
今回は習近平体制を検討する前提として、その前の対照的な毛沢東と鄧小平の政策路線について、簡単ながら、社会的制約の中での政策選択という観点から検討してみた。次回はその後継としての習近平の政策路線を検討する。
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