――八ヶ岳山麓から(240)――
中国共産党第19回大会が終った。
習近平総書記(国家主席)は18日の報告で、「中国の特色ある社会主義は新時代に入った」と宣言し、3年後の2020年には「小康(ややゆとりのある)社会」を実現し、建国100周年を迎える2049年ごろには「社会主義現代化強国」を建設するとした。これは(アメリカ並みの)国際的影響力を有する軍事大国、中華民族の意気高く世界の中に屹立する国家を意味する。この報告では「新時代」という語彙は35もあった。また「中華民族の偉大な復興」という言葉は27回使用されたという。
習氏は、5000年以上の文明史をもつ世界の偉大な民族「中華民族」は、アヘン戦争以降、苦難に陥った、だから「中華民族」の「偉大な復興」は「偉大な夢」であり、そのために「偉大な闘争」をおこなわなければならないという。「大国崛起」は江沢民時代からいわれた言葉だが、習近平氏の統治を示す「新時代」の「復興」には新しい意味がある。
習氏は就任した時、たいした権力基盤をもたなかったが、この5年間たくみにおのれの地位を高めてきた。それは、大衆受けする貪官汚吏の腐敗摘発という手段で政界や軍の政敵とそれに連なる経済人を葬り、民主人権派の弁護士をはじめとする数百人の人々を逮捕投獄して苛烈な拷問を加え、香港にまで手を伸ばして言論弾圧をするという恐怖政治であった。
そのことによって、党大会は(習近平の名を)「『習近平による新時代の中国の特色ある社会主義思想』という文言で、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想、鄧小平理論、『3つの代表』の重要思想、科学的発展観と同列に党の行動指針に盛り込むことを全会一致で決定した(人民ネット日本語版)」以下これを習近平思想という。
すでにこの2年ほど中国のメディアでは、「習近平同志の一連の重要講話」「(習近平同志の)治国理政の新理念新思想新戦略」がきまり文句になっていたし、一連の大会議題が習氏の2期目に向けての権力集中を加速させる内容であったから、これは誰もが予想できたことであった。
だが、1982年に廃止された「党主席制度」を復活させることはできなかった。ここにかれの力の限界がある。「中共中央主席」こそは1945年以来毛沢東が終生ゆずることのなかった、独裁政治最高の地位である。
「習近平思想」を規約に書きいれたことによって、「新時代」の思想がなんであるか、体系だったものを示す必要が当然に生れた。
習氏が傾倒する毛沢東は当代一流の中国文化人であったし、側近が代筆したものだとしても幾多の彼の著作とされるものがある。ところが習氏には伝統的教養もまとまった著作もない。鄧小平のような画期的政策転換をしたこともない。毛・鄧と並べると、誰の目にもその評価が隔絶するところは明らかである。
この思いは私ばかりではない。習近平賛歌を歌う中共中央周辺の理論家も同じらしい。だから彼らが忖度する習近平思想らしき論文がいくつも公表されている。
典型は、党大会の直前の中国社会科学院院長王偉光氏の言説である。
王偉光氏は「『普遍的価値』の反科学性と虚偽性、欺瞞性」という、1万4000字ほどの大論文の結論でこう述べた。
中国でも国家の制度として、(辛亥革命以後)欧米風の共和制などさまざまな政治制度を試したがうまくゆかなかった。現行の「中国の特色ある社会主義」が中国にもっとも適した制度であると。
習近平報告にもこれと同じ趣旨の、政治制度は特定の社会・政治条件や歴史・文化伝統から切り離して抽象的に論じられるべきではないとか、「中国の特色ある社会主義」の発展の道は、外国の政治制度を機械的にまねすべきものではないとする箇所がある。
王偉光氏は、とりわけ民主主義について以下のようにいう。
――ブルジョアジーにはブルジョアジーの民主・自由・人権観があり、プロレタリアートにはプロレタリアートの自由・民主・人権観がある。欧米には欧米の、中国には中国の自由・民主・人権がある。
――欧米諸国は、17,8世紀の欧米の市民革命を経て成立した政治形態、すなわち国民主権、基本的人権、法の支配、権力分立などを民主主義とし、これを人類一般に通用すべき普遍的価値としているが、これには反対する。あるいは人間の自由と平等を尊重する立場を普遍的価値としているのにも反対する。
――普遍的価値は資本主義的、唯心主義的、反科学的、欺瞞的な価値観である。個別的、具体的、歴史的、階級的価値観から離れ、しかも独立した存在、一切を超越した不変的価値観なるものは根本的に存在しない。これは欧米資本主義の政治に服務するイデオロギー的手段である。
――普遍的価値は欧米勢力がプロレタリアート・労働人民を主人とする民主専政の社会主義国体と、共産党の指導を転覆しようしているしろものである。
(http://mp.weixin.qq.com/s/uPWkS7ok0Az56WBIJ1qgKg)
たしかに自由・民主・人権は、ヨーロッパでブルジョアジーの成長とともに生れた観念である。
では王氏のいう、プロレタリアートの民主・自由・人権観とはどんなものか。中国の民主・自由・人権はどのように存在するか。氏はそれを「個別的、具体的、歴史的、階級的」に明らかにする義務がある。ところが、氏の論文はブルジョア民主主義を罵倒するだけで、これがまったくないのである。
ならば、わたしは王先生にうかがいたい。
中国の言論人はこの王偉光論文に公然と反対し、批判を発表し、出版することが許されるか。労働者が組合をつくるのを警察がこれを妨害することはないか。資本家と交渉したりストライキをしようとすれば逮捕、監禁、拷問されるといったことはないか。
中国の労働者の状態は、マルクスやエンゲルスが生きた時代の、あるいは戦前の日本の無権の労働者階級の状態に似ている。労働者の基本権である団結権・団体交渉権・ストライキ権など薬にしたくてもない。とくに出稼ぎ労働者においてしかり。
この現状を「中国の特色ある社会主義」として是とするかぎり、氏のいうプロレタリアートの民主・自由・人権はありえない。王氏といえども実在しないものを論じることはできないのだ。習氏も19回党大会報告で「人権」にふれたのは、統治方法を論じた部分においてだけである。
中共19回大会が毛沢東と同じ位置に習近平を並べたことは、中国の未来を象徴している。習氏の毛沢東流統治が容認されたことになるからである。毛沢東の治政は、歴代の皇帝支配と農民的平等主義、レーニン・スターリン流独裁のアマルガムであった。
党大会報告からすると、習氏の統治は毛沢東の治政から農民的平等主義を除き、それに新自由主義を接木した強権政治である。内政がこうだとすれば、国際的には、アジアインフラ投資銀行AIIBを核に「一帯一路」政策を一層拡大し、隣国には高圧的に臨むだろう。東シナ海・南シナ海、中印国境は荒れる。
「北朝鮮はおれの生きているうちに崩壊するだろうが、中共独裁はいつ危なくなるだろうか」と聞いてきた友人がいた。――そうはゆかない。
中共中央は、いや中国人の多くもいまや力は全身にみなぎっていると判断している。経済ひとつとりあげても、日本は中国を必要としているが、中国はすでに日本がなくてもやってゆけるレベルにある。その外交もすでに日本を素通りしている。北朝鮮問題でもほとんど日本を勘定に入れていない。中国外交官が日本に関して発言したのは、安倍政権が露骨な反中国外交を展開した時だけである。
日本はこの隣人と否が応でもつきあわなければならない。アメリカ一辺倒の従来体制では、どのような政治勢力が政権の座に就こうとも、意気天を衝く「中華帝国」に対応できないだろう。(2017・10・29記)
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