昨年6月に「イスラム国(IS)」に占領されていたイラク中部の都市テクリートの奪回は、IS駆逐への挙国政権として新発足したアバディ新政権と政府軍に自信を与えた。アバディ首相は、まず首都バグダッドのいわば“のど元”に当たるファルージャをはじめ中部アンバル州の都市や村落をISから奪回し、それとともにイラク第2の都市モスルの奪回作戦を準備すると表明した。
3月2日から始まった、テクリート奪回作戦には、イラク政府軍を中心に国家警察部隊と緊急即応部隊、国境警備隊の約1万人と、昨年6月のISの大攻勢に危機感を深めた10を超えるシーア派民兵組織を大統合した「人民武装軍団(PMU)」約2万人の計3万人が参加したという。フセイン元大統領の故郷で、7つもあった宮殿を要塞化して一大拠点としていたIS勢力は、武器弾薬を豊富に備え、市内の道路と建物に爆弾を多数仕掛け、激しく抵抗したため、政府軍側の犠牲者が急増、作戦が行き詰まった。このためイラク政府は、最終段階での米軍の空爆支援を要請。空爆支援開始1週間後、ちょうど作戦開始1か月後の4月1日までにIS勢力を一掃し、アバディ首相がテクリートに飛んで勝利宣言をした。
抵抗していたIS勢力の規模は不明だが、一部は早めに脱出、最後まで抵抗していた勢力は数百人で大部分は死亡し、一部は政府軍の捕虜になったという。
この作戦の成功には、重要な注目点がある。まず3千人とされた正規軍が少数ながら政府軍側の中核となり、最終段階の1週間は、PMUが市街地から退去して、戦闘に参加しなかったことだ。本連載の⑭で詳述したように、ISは昨年6月、テクリートを占領した際、元米軍基地スペイシャーでイラク兵多数を捕虜にし、1、700人以上の主に若いシーア派兵士たちを集団斬首したとして、その写真をユーチューブで世界に誇示していた。(政府軍側は700人以上と推定していたが、テクリート奪回後、8か所以上から多数の遺体が発見された)。PMUの戦闘員たちは、ISへの報復を誓っており、テクリート奪回の際、捕虜にしたIS戦闘員たちを皆殺しにするだけでなく、ISに協力した地元スンニ派部族勢力にまで報復する恐れがあった。
このため地元サラハディン州知事が、PMUをテクリート市街地に入れないようアバディ首相に必死に要請していた。報復が現実化すれば、スンニ、シーア派間の宗派抗争が再燃し、せっかくスタートした挙国体制も崩壊しかねない。シーア派のアバディ首相、アルガバン内相らはPMUの指導者と、PMUに大きい影響力があるイラン軍事顧問団を率いるソレイマニ将軍にも要請。テクリート市街地での最終攻撃を始めた3月25日以前に、PMU部隊が市街地から撤退した。それによって、イラク政府軍だけが最終段階を担い、作戦終了後、直ちに多数の警察部隊と行政職員が市内に配置された。報復や略奪は、PMU撤退前に一部で発生していたが、拡大は抑えられた。
また、米国との関係も注目点だった。これも前稿で書いたように、PMUには反米感情が強く、奪回作戦に全面的に参加する条件として、米軍の空爆を行わないことを主張した。このため、イラク政府は空爆支援を断り、政府側部隊とPMUは、まずテクリート市街地の外の周辺町村での作戦を進め、2週間でISを一掃した。しかし市街地はIS“要塞”の防御が固く、作戦が行き詰まった。このため、市街地からPMUを撤退させ、PMUの戦闘を停止させるのを条件に、米軍の空爆支援を要請。最終的には空爆で“要塞”を破壊して、ISの抵抗力を奪い、政府軍がISを一掃することができた。PMUに配慮しつつ、イラク政府・軍と米軍の作戦調整が成功した。
PMUの暴走を抑えるために、イランの軍事顧問団も協力したようだ。イランの核開発問題での、イランと米国はじめ西側との交渉進展にも影響されているに違いない。
こうして、テクリート奪回の成功で、昨年6月、第2の都市モスルはじめテクリートやファルージャなどの重要都市をISに奪われ失墜した、イラク政府と政府軍への国民の信頼が相当に回復したといえそうだ。
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