2024.9.1● 9月Ⅰ日は、防災の日、1923年の関東大震災から101年です。例年各地で災害訓練が行われますが、実際には、訓練どころか、各地で台風10号など豪雨の被害がでています。雨が降らない日は猛暑で、熱中症が相次ぎました。今年の日本の夏は、猛暑・豪雨に加えて台風・地震も多く、気候変動を実感させるものでした。お盆までは、本サイトが危惧した通り、圧倒的なパリ・オリンピック「がんばれ日本」報道と、アメリカからのプロ野球報道がメディアを占拠しましたが、その後は、岸田首相の唐突な次期総裁選不出馬会見で、自民党内の政争が始まり、それに対抗すべき立憲民主党代表選が加わりました。アメリカ大統領選挙における共和党「確トラ」を覆す、民主党大会でのバイデンからタマラ・ハリスへの候補者差し替え劇もあり、いよいよ11月のアメリカ大統領選挙の行方から眼を離せない状況が続きます。ウクライナの戦争にも、ガザにおける虐殺にも、大きな影響を与えます。離島の戦争遺跡や自衛隊防衛力強化、特攻攻撃の無意味と犠牲者、昭和天皇の戦争責任の問い直し、女性にとっての戦争、無差別爆撃の国際法違反を改めて問う弁護士たちなど、8月の戦争にちなんだテレビや新聞のドキュメンタリーにも、見るべきものがありました。私も、中日新聞の731部隊とハバロフスク裁判の問い直しで、ささやかながら発言しました。
● 地震や台風のような天災には、時に国家権力による「ショック・ドクトリン」の執行がありうるので、要注意です。ナオミ・クラインのベストセラーは「惨時便乗型資本主義」と訳されましたが、災害に乗じた戒厳令や緊急事態の権力集中は、現存社会主義国や発展途上国でもよくみられます。アフリカの飢饉と内戦、北朝鮮の水害や中国政府の地震に便乗した治安強化・思想統制には、「ショック・ドクトリン」と同じ、民衆にとっての二次被害が孕まれます。この点で見逃せないのは、自民党改憲草案には、緊急事態条項と自衛隊の「国防軍」昇格、天皇制や保守的家族観の強化などがワンパックで入っており、権力による人権制限の余地が大きくなっていることです。そして、世論の不支持で何もできず退陣を余儀なくされたかに見える岸田内閣が、5月の国会審議末期のどさくさにまぎれて、災害時などに国の「指示権」強化をうたった地方自治法改正を成立させていたことです。もっとも災害時の地方自治体の防災・救援では、国による自衛隊派遣等ばかりでなく、直接被害を被る市町村と都道府県の関係が問題で、正月の能登半島地震にあたっては、自民党総裁選で暗躍する森喜朗元首相の愛弟子である馳浩知事による初動対応の遅れが、8か月たっても一時避難所での生活を被災者に余儀なくさせる一因となりました。阪神・淡路大震災で学んだはずの兵庫県知事がパワハラ・おねだり疑惑でスキャンダルとなり、東京都知事が関東大震災時の中国人や朝鮮人虐殺について認めず、慰霊の意さえ表さない状態を見ると、総選挙・国会での総理大臣選出ばかりでなく、都道府県知事を選ぶ際の民主主義のあり方が、問われているように見えます。アメリカ大統領選での接戦州の重要性はよく知られていますが、連邦制のドイツでは、州レベルでの政治での右翼台頭の地殻変動が、国政を動かしかねない勢いです。
● 日本の自民党総裁選の様相は、10人以上の候補者をならべて国政選挙並みの関心を集めそうですが、本来裏金問題など政治とカネの問題で、岸田内閣が改革どころか真相解明さえできず、支持率低迷のもとで退陣を余儀なくされたにもかかわらず、企業団体献金禁止のような抜本的政策を出す候補は皆無で、裏金議員の公認・復権の道を開こうとする有力候補が出てくる始末、いずれ、11月10日投票がささやかれる、総裁選挙後の解散・総選挙を仕切る「選挙管理内閣」用の「自民党の顔」選びですが、今度こそ、9月のメディアジャックになりそうです。対抗する野党は、政権交代のチャンスなのに、どうにも元気がありません。立憲民主党代表選は、自民党と同じ時期に、自民党と同じ国会議員20人の推薦を立候補要件にしたのが、そもそも高いハードルになっていて、前代表・元首相・現代表 の争いになりそうです。政治改革や経済政策で新味が出てくれば、多少はメディアの関心をひくのでしょうが、まだ政権交代は見えません。本来こういう時こそ、路線論争を行って政局に参加すべき与党の公明党、野党の共産党は、ともに立党以来党員主権の公開でのリーダー選びをしたことがありませんから、蚊帳の外です。もっとも公明党は、一応制度的には代表選挙があり、9月18日公示で28日の党大会で決まります。支持母体の創価学会との関係もあり、山口代表への対抗馬が出てこないだけです。もう一つの共産党は、昨年党大会前に党首公選を訴えたベテラン党員二人を突如「除名」し、その手続きに疑問を持った党役員や議員をも「除籍」などで切り捨てて、「革命政党」の暴力革命のために生まれた軍隊的「鉄の規律」「民主集中制」を守ろうと、時代錯誤のハリネズミ状態です。
● 民主主義にとって、自由と人権とは、遠い未来の話ではなく、現在の切実な課題です。党員たちの討論の自由と人権、SNSを含むコミュニケーションの自由、表現の自由を奪った日本共産党の志位和夫議長が、マルクスから「自由とは自由に処分できる時間のこと」という生産力主義的自由観を引きだして、「共産主義と自由」プロパガンダで、高齢化・衰退局面を脱出しようとしているのは、生活苦と低賃金・物価高に直面した日本で、皮肉で空想的なことです。生産力主義的というのは、1928年第6回世界大会採択の「コミンテルン綱領」における自由論・労働論・全面的発達論と、論理構成がほぼ同一であるからです。しかし今や、マルクス、エンゲルスの全文献が、新MEGAを含めて、インターネットで読める時代です。電子版をダウンロードできますから、その時々のドイツ語のFreiheitの用例については、簡単に検索ができ、研究も進められています。英語版 Marx Engels Collected Works,から引く場合は、Freedom ばかりでなく Liberty の用例にも、注意しなければなりません。その場合、ひとまず、マルクスに大きな影響を与えたヘーゲル=エンゲルス的な「自由とは必然性の洞察である」という命題との関係から出発するのが、一般的な学問的手続きで、いろいろな展開がありえます。旧ソ連においても、ルナチャルスキーの建神論やコロンタイの自由恋愛論、ソルジェニツィンやサハロフ、それに志位氏が好きらしいショスタコーヴィッチの自伝なども、「共産主義と自由」を論じる際の重要な素材です。志位氏は、日本政治の重要な時期に、理論的には貧しい自由時間論をひっさげてベルリンに向かったようですが、何よりも、ドイツで東独国家・共産主義党独裁を崩壊させた、ローザ・ルクセンブルグの「自由とは、常に思想を異にするもののための自由である」の神髄こそ、学んでくるべきでしょう。
● カール・マルクスの自由論には、「自由は、国家を社会の上位にある機関から、社会に完全に従属する機関に変える」ことであり、「今日にあってすら、さまざまな国家形態は、それが『国家の自由』を制限する程度に応じて、より自由ないしより不自由である」という『ゴータ綱領批判』の言明があり、それはロシア革命を導いたレーニン『国家と革命』の「国家が存在するあいだは『自由』を論じることはできない」というコミンテルン=共産党の国家観・自由観と鋭く対立します(私の35年前の『東欧革命と社会主義』第3章)。このマルクスのパリ・コミューン後の自由論からすれば、今日の政治の中で、5年で43兆円にのぼる防衛力整備計画、健康保険証廃止を強行するデジタル庁6000億円予算、アベノミクスの総括なきまま11兆円に及ぶ国債利払いの総額117兆円の来年度概算要求を、世代交代風ポーズの総裁選挙の裏側で、粛々と進める岸田自民党内閣の国策=「国家の自由」の制限こそ、今日における「より自由」な社会のあり方なはずです。私は今日の東アジアの平和のためにも、戦前・戦中の日本国家の優生思想と加害責任を認めることが重要と考え、「国家の自由」に対抗する「社会の自由」がなお残されている中で、獣医学者小河孝さん、歴史学者松野誠也さんと共著で、『検証・100部隊ーー関東軍軍馬防疫廠の細菌戦研究』という書物を、9月5日に刊行します。100部隊どころか731部隊の細菌戦・人体実験さえ認めない日本の「国家の自由」に対する、ローザ・ルクセンブルク風「異論の自由」の行使です。やや高価な学術書ですが、本サイトに幾度か寄せられた旧100部隊員の遺言を受けた「匿名読者」との社会内対話も入っていますので、多くの皆さんに読んでいただければと願います。
初出:加藤哲郎の「ネチズン・カレッジ』より許可を得て転載 http://netizen.html.xdomain.jp/home.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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