英語試験の外部委託は語学教育改革の放棄

著者: 盛田常夫 もりたつねお : 経済学者、在ハンガリー
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 大学入学共通テストの英語試験を民間に外部委託する方針は誰が推進したのだろうか。英語を社内共通言語にしている楽天会長・社長の声が大きかったようだが、それに賛同した政治家はいったい何を目的で賛同したのだろうか。試験を外部委託すれば、教育改革なしで語学力を高められるとでも考えているのだろうか。あまりに安直である。だから、利権の存在が疑われても仕方がない。

 英語の4技能習得というが、これは日常的に外国語を使うことがない人々が、頭で考えたことにすぎない。完全な観念論である。4技能をまんべんなくこなすことは不可能である。いかなる言語であれ、きちんとした文章を認めるのはきわめて難しい。日本語でも英語でも変わらない。日本語のできちんと文章を書けない人が、日本語以上の文書を外国語で書けるはずがない。ペラペラよくしゃべる人が良い文章を書けるわけではないし、講演がうまい人の書き起こし文章がそのまま使えることはない。
会話ができるから文章が書けるわけではない。どの言語でも文章能力のハードルが一番高く、一般常識、専門知識、文章読解力や訓練なしにまともな文章を書くことはできない。楽天が英語を共通言語にしているといっても、かなりの曖昧性を伴う日常会話が辛うじて成立しているだけで、正式な文書作成は英語を母語とするスタッフが行うか、既成の文書例をわずかな字句修正で使用しているだけだろう。民間の英語試験の点数がどれほど高くても、それは文章作成能力を証明するものではない。長期の留学と訓練なしに、文章能力を高めることはできない。

 外国語の論文や書籍を日本語に翻訳する時に必要になるのは、専門能力と日本語能力である。これだけで翻訳能力の7-8割を占める。語学力は2-3割でしかない。とくに論理性が重視される自然科学や工学、あるいは社会科学の場合には、そうである。文学作品は当該国に長期に生活した経験がなければ翻訳不可能である。
他方、日本語から外国語への翻訳は母語の専門家の手助けなしには不可能である。双方向の会話ができるバイリンガルと呼ばれる人でも、双方の言語で優れた文章を書ける人はほとんどいない。それぞれの社会の常識、語彙力、文章読解力をもち、文章訓練を積まなければ、どんな言語であれきちんとした文章を書くことはできない。
 これにたいして、会話(話す聞く)は一定の語彙力と経験があれば、それなりに成立する。会話には常に相当の曖昧性が伴うことも、日本語での会話と同じである。しかも、会話能力はスポーツと一緒で日常的に使う状況になければ、話す力も聞く力も衰える。日本のように、日常的に外人と会話する機会が少ない国では、話す力や聞く力を学ぶインセンティヴを維持するのが難しい。だから、英語より、国語の4技能の方がはるかに重要である。
 さらに、日本の周辺国は英語圏ではない。日本人にとって朝鮮語と中国語が一番身近な外国語である。中国や韓国に長期に滞在する人は、英語で生活するより、それぞれの言語を学ぶ方がはるかに現地でのコミュニケーションが容易になる。西欧に関心のある学生はドイツ語やフランス語あるいはスペイン語に関心があるはずだ。外国語の選択肢を広げる方が急務である。いかに対米従属国日本とはいえ、インターナショナルな時代に、英語だけを外国語と考える発想は時代遅れである。

 高校時代は何も英語だけ勉強しているわけではないし、誰もが国際的な環境の仕事に就きたいわけでもない。数学や物理学・化学・生物学、あるいは文学作品や歴史に没頭して、英語の勉強がおろそかになる学生もいる。英語以外の言語を学びたい学生もいるはずだ。そういう学生に、一律に英語の4技能を強制するのは馬鹿げている。英語の一律強制はそれぞれの個人の持つ可能性の開花を阻害する。言語学者になろうとする場合を除き、語学はあくまでも手段である。だから、必要になったときに、勉強することで十分に足りる。
 ハンガリーでは幼児教育から外国語を学ばせるところが多く、小学校や高等学校では複数の外国語の学習が可能である。大学の学位取得には外国語の国家試験で、中級以上の資格を取得することが要求されているが、もちろん英語だけに限定されておらず、あらゆる外国語が資格要件の選択肢に入っている。資格は何時取得しても構わない。高校時代に取得することも可能である。ハンガリーでは大学入試資格として、語学の中級(国家試験)資格の取得を検討していたが、政府は導入を断念した。語学だけに時間を集中させるのは多様な能力の発達を阻害するという判断である。大学卒業までに、最低一つの外国語の中級資格を取得すればよいというのが現在のハンガリーの状況である。ただ、大学に入学すると、語学にたいする関心が薄れ、語学の勉強が疎かになる。語学資格試験を避けたために、いつまで経っても学士号を取得できない学生も多い。

 学校における外国語教育改革を行うことなく、試験を外部委託して問題が解決されると考えるのはきわめて安直である。試験の外部委託ではなく、学校教育や大学教育における外国語教育の抜本的改革が急務である。大学入学用の試験は英語に限らず、言語の選択肢を広げ、かつ資格認定で済ませるのが良い。異なる民間試験の結果を比較するのは無駄である。まして、異なる言語の点数を比較することに意味はない。資格認定として民間試験を利用する場合には、一定以上の点数を合格(有資格認定)として、絶対点数を入学判定に使わないことだ。教育の機会均等を守るために、語学の国家資格試験を導入することも考えるべきだ。
大学入学前に必要なのは発音能力の習得である。これだけは、大人になってから学ぶのが難しい。今年の流行語大賞One Teamを「ワンチーム」などと発声している限り、いつまでたっても日本人の語学能力は進歩しない。teamを「チーム」と発声したのでは、理解されない。「ティーム」と発声しなければならない。「シートベルトをお掛けください」というアナウンスも、きわめて滑稽である。シートはsheet(紙)である。seat beltは「スィートベルト」である。こういう日本語化された英語発声を放置しながら、4技能を強調するのはとてもアンバランスである。インポッシブルではなく、インポッスィブルである。シンガポールではなく、スィンガポールである。発音・発生を重視せずに共通一次の英語から発音とアクセントの問題を外すというのは間違っている。もともと、日本の英語教育では発声や発音を厳しく教えることがない。しかし、日本語化された英語発声は外国で役に立たないことを知るべきだ。日本の語学教育の何が問題なのかを当事者たちが理解していない。

 大学における語学教育も問題が多い。専門分野によって、必要な語学能力要件は異なる。自然科学、工学、社会科学の場合には、論文の読解力・作成能力やプレゼン能力が必要とされる。論理的な文章の読解・作成訓練が必要である。ところが、日本には言語学部が少なく、言語教育の専門家は少ない。日本の大学で語学を教えている教員の多くは文学部出身の文学専攻者である。文学部出身の教員は文学作品を題材にして、授業し試験問題を作成する。しかし、感性的な文学作品を理解するのは非常に難しいし、専門論文やプレゼン能力の向上にほとんど役に立たない。語学を担当する文学部出身の先生の多くは、「言語の技術を教授するのが自分の仕事ではない。自分は言語学者ではなく、文学者である」と考えている。しかし、言語教育は文学教育ではない。言語授業と自らの専門研究は区別しなければならない。教員は学生が所属するそれぞれの専門分野に応じた語学能力の教授に努めるべきである。文学部出身であっても、それぞれが所属する専門学部で必要な言語能力の教授に努力すべきである。文学研究者の職の確保のために外国語教育が存在するのは本末転倒である。これは日本の大学が古くから抱える語学教育の根本問題である。
 いずれにしても、英語試験の民間への外部委託で、日本の外国語教育問題が解決されることはない。

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