台湾の先住民
「青森を核のゴミ捨て場にするな」― 青森県内で反原発の抗議行動があるとき、必ずといってよいほどこの文言が声そして文字となって登場する。「核のゴミ捨て場」とは六ヶ所村にある核燃料サイクル施設の低レベル放射性廃棄物貯蔵施設を指すだけでなく、終わりのない“中間貯蔵”を強いられてしまうかもしれない高レベル放射性廃棄物貯蔵施設と、加えて来年完成予定であるむつ市の使用済み燃料中間貯蔵施設なども意味する。「トイレなきマンション」と喩えられる日本の原発から発生する核のゴミ問題を解決するため、核燃料サイクル施設という「トイレ」が青森県につくられたが、なんの解決にもなっていない。原発を稼働する限り「トイレ」はいずれ満杯になり「トイレ」を増設しつづけなければならない。原発問題を論じるとき、電気が足りる・足りないではなく、「トイレ」にされる土地の住民にわたしたちは想いを馳せるべきである。
台湾の原発を考えるいま、1995年まで低レベル放射性廃棄物が詰まった約10万本のドラム管が集中して“保管”されている蘭嶼島の住民に想いを馳せてみよう。
蘭嶼島の住民は台湾の少数民族であり、17世紀に大陸の対岸から大量の移住者がやってくる以前、太古の昔からそこに住んでいた先住の民である(漢語では、もともとそこに住んでいた民のことを「原住民」といい、「先住民」といえばもう滅びた民のことを意味する。日本語で「原住民」というと蔑視の意味合いが含まれるとわたしには思えるので、ここはあくまでも日本語として「先住民」と表現させてもらう)。
現在、台湾政府が先住民として認定しているのは14民族であるが、2001年に10番目の先住民が認定されたことからわかるように政府認定の数と実際に存在する数とは、分類の仕方にもよるだろうが、必ずしも一致しない。いまだ認定されない先住民も数多い。約2300万の台湾総人口のうち先住民の占める割合は約1.5~2%といわれる。
蘭嶼島の人びとは「ヤミ(雅美)族」と呼ばれていたが、最近は「タオ(達悟)人」(Tao)という呼称が一般的となっている。
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台湾“本土”の台東の空港に少数民族の展示がされている。タオ人の伝統的で独特な模様のカヌーも展示されている。2012年9月30日。○CAoyama Morito
タオ人は現在4000人ほどであるが1990年代半ばには約3000人といわれていた。台湾の先住民の大半が山の民であるのにたいし蘭嶼島の人びとは海の民であるので、タオ人は先住民のなかでも少数派といえる。東チモールでわたしが会った台湾人の若い女性は、蘭嶼島は台湾でも特別な所ですよ、と話していた。
台湾先住民の諸語はオーストロネシア語族に属し、タオ人の言語もそうである。オーストロネシア語族とは、台湾、東南アジア・オセアニアや太平洋の島々、遠くはマダガスカルに分布する言族である。東南アジアの南端である東チモールの諸言語もこの語族に属する(東チモールではパプア語族に属する地方語も多数存在)。東チモールの最大の共通語かつ公用語の一つ(もう一つはポルトガル語)であるテトン語(テトゥン語、Tetun)もこの語族である。例えば、タオ人の言葉で、mata(マタ)は「目」、 ai(アイ)は「足」、 lima(リマ)は「手」といい、テトン語ではmatan(マタン)が「目」、ain(アイン)が「足」、liman(リマン)が「手」という。遠く離れたチモール島と蘭嶼島の住民の言葉にこのような共通性があることは想像力を否が応でもかきたてられる。
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蘭嶼島には平野部はほとんどない。タロ芋の耕作地となる山岳部が大半を占め、島の民は海に依存する。2012年10月1日。○CAoyama Morito
民族存亡の危機
およそ5世紀前にポルトガル人が台湾を見て、「美麗な島だ(イーリャ フォルモサ)」(ilha formosa)と声をあげ、オランダの東インド会社やスペインによる部分支配をうけ、17世紀に漢民族が大量に移住し始め、清朝や日本からの接触や侵略の歴史のなかで、蘭嶼島の人びとにとって民族の存亡にかかわる危機がやっていたのは、第二次世界大戦以降ごくごく最近のことである。
蒋介石に率いられて大陸から押し寄せた国民党による台湾統治は、その漢文化の強制によって蘭嶼島の自然と民族のアンデンティティーを脅かした。その侵略の第一波は1958年にやってきた。2500人の囚人がこの島に流刑に処せられたとき、囚人の看守は現役を引退した国民党員によって構成され、かれらはタオ人が主食とするタロ芋の耕作地を奪って居住した。かれらは1979年まで居座ったといわれる。そして1960年代には台湾政府は蘭嶼島の森を伐採し、生態系を脅かし始めた。そして学校教育では漢文化と言語を子どもたちに強制し、先祖代々受け継がれてきた風俗・風習が失われ、とりわけタオ人の母語が消滅する可能性が生じてきた。日本による台湾の植民地支配は日本語の教育を施したが先住民を多数派台湾人と隔離する政策をとったことから民族性を脅かすまでには至らなかったようである(しかし日本はあくまでも侵略者であることにかわりない)。
政府が蘭嶼島に建てた住民のためのコンクリート製の家は住民の文化と伝統を無視した侵略の象徴とされた。1995年にわたしが蘭嶼島を訪れたときに、コンクリートが剥げ落ちた家の無残な姿をみせながら「これがかれらのいう文明だ」と島民が怒っていたのを覚えている。戦後の台湾経済の発展のなかで、タオ人は開発の遅れた蘭嶼島に住む貧しい住民として貶められ、若者たちは台湾社会に組み込まれていった。このことがタオ人の民族性にとって一番の脅威なのかもしれない。そうだとしたら蘭嶼島で起こっていることは世界共通の問題を内包するといえる。
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蘭嶼島の伝統的な家。地面に屋根があり地下に家屋がある。
2012年10月1日。○CAoyama Morito
放射性廃棄物の抗議活動から民族の誇りへ
そしてとどめのようにやって来たのが低レベル放射性廃棄物である。タオ人にとってタロ芋ともう一つの主食が飛魚である。伝説では神との契約で飛魚を食べることが許されて、目を含めて無駄なく食べないといけないとされる。飛魚が到来する時期でタオ人は暦にうるう時間を入れる独特の時節の計り方をする。その飛魚が棲む海が放射能汚染の危機にさらされることは生活の根幹を揺るがす。核廃棄物の搬入は、タオ人にとって民族殲滅・ジェノサイドの事態と位置づけられた。これが決定的となり、タオ人をして少数民族の解放闘争として徹底した抵抗運動に蜂起せしめたのである。島民は組織され、民族の誇りと意識を取り戻すため、国際社会に台湾政府による民族殲滅行為をやめるよう訴え、低レベル放射性廃棄物搬入にたいし身体をはった抗議行動を、島内でそして台湾“本土”で展開した。
興味深いのはタオ人には明確な社会階層がないことである。東インド会社による台湾支配は、先住民にたいして土地利用は許す一方で封建的階級制度を採用したといわれるが、この制度は蘭嶼島にはさほど影響しなかったようだ。明確な社会階層のない人びとが外部からの侵略者にたいし強固な抵抗意志を示すことは、かつて西アフリカのギニア=ビサウとカボ=ベルデの解放闘争を指導したアミルカル=カブラルが分析したことであるが、この現象はいま蘭嶼島でみることができる。10月1日、わたしたち訪問者が蘭嶼島のある事務所で低レベル放射性廃棄物への抵抗運動の歴史を説明してらったとき、若いタオ人女性たちが抗議活動に参加した個人個人について話題が及ぶと、誰がどのような地位についているとか、誰がどのような仕事でどのような立場にいるとかという話にはならない。あの人はあんたのお父さんでしたっけ、いやいや親戚ですよ、これはわたしのお父さんです、などと家族の話になるだけで運動組織構成の話にはならないのだ。蘭嶼島の社会では支配層というものはなく、生産活動をするうえでの責任者か司祭が存在する程度であり、お年寄りが尊敬される社会なのである。
郭建平さん(漢名)は1990年代、青森の六ヶ所村を訪れ、また北海道でアイヌ民族との交流をおこなったタオ人の一人である。かれは低レベル放射性廃棄物貯蔵施設の反対運動の顔として何かと被写体として絵になる男である。その戦闘的な表情とは裏腹に神学学校を出ている知識人でもある。1990年代に青森や台湾で会ったときは血気盛んな若者という感じであったが、この10月に久しぶりに再会したかれは中年の落ち着いた父親かつ夫という雰囲気を漂わせていた。1990年代わたしは解放闘争をする東チモールの話をかれにするとずいぶんと興味を示していた。東チモールも独立して10年、いまかれは「シャナナ(首相)に会ってみたいなぁ」と東チモール訪問を夢見ている。いつか実現してほしいものだ。大国に翻弄される少数民族同士、互いの経験は共有するに値するはずだ。
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蘭嶼島の低レベル放射性廃棄物の貯蔵施設(左)と郭建平さん。この空き地に貯蔵施設が増設される土地だった。増設計画は島民の抗議行動で阻止されている。
2012年10月1日。○CAoyama Morito
蘭嶼島の活動家は抵抗運動の行き先に自治政府の樹立を見ているようだ。民族が生き残るためにそれしか道がないのなら、かれらはその道を歩むであろう。
「タオ財団」という団体の文書にこうある―――「わたしたちの闘いは、近代のグローバル市場と消費社会によって無情にも滅ぼされるまえに、21世紀においてタオ人のために、自治連邦政府と持続可能で生態系を守る経済システムの創造的発展に到達するためのものである」。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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