被災地にまわらない復興予算、増税を原子力村の延命に使わせてはならない!

著者: 加藤哲郎 かとうてつろう : 一橋大学名誉教授・早稲田大学客員教授
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◆2012.10.16  久しぶりで震災被災地をまわってきましたので、一日遅れの更新です。今回は岩手と福島です。陸前高田の旧市街は、がれきが大分片付いていましたが、ホテルや道の駅の大きな残骸はそのまま。町そのものは市役所・病院・商店・仮設住宅他丸ごと高台に移したかたちで、復興はまだまだ。よくテレビで報じられる大船渡の被災地中心にできた仮設商店街・屋台村は、客も品揃えもまばら。復興の意気は感じられますが、仮設は仮設です。地元の人々の懸命な努力と想いが、痛いほどにわかるだけに、ここに投入さるべきだった震災復興予算19兆円の使途には、驚き、あきれます。自衛隊機の購入調査捕鯨のグリーン・ピース対策大阪・姫路の税務署の耐震改修、はては「もんじゅ」や核融合の研究まで入り、なんと原子力村の延命・再編にも使われています。他方で、被災地の個人事業主が知恵を集めた『中小企業グループ補助事業』では、予算不足で申請の6割が却下されている不可解。これが、所得税・住民税増税でひねり出された震災復興予算の実態です。消費税増税の行き先をも、暗示しています。新幹線が福島に近づくと、それまで0.05μSv/hだった放射線量が、目に見えて大きくなります。福島駅で0.20,福島市内では0.60以上も記録しました。福島から川俣町、飯館村、南相馬市に入り、6号線を浪江町から双葉町へと南下して、途中で立入禁止となり南相馬へ逆戻り。このコースで最も高い線量は、南相馬でも浪江町でもなく、30キロ圏外の飯館村で、広く1.00を越え、山道に入ると1.20-1.40に達します。南相馬市街地では0.20-0.50でしたから、同心円での避難区域設定のいい加減さ、SPEEDIが生かされなかった昨年3月決定的時点の決定的無策が、改めて悔やまれます。無人のスーパーやコンビニの看板も不気味ですが、浪江町「警戒区域」には時間の止まった津波の被害がまざまざ。仮設住宅に10万人、県外避難者6万人がさまようこんな状態で「収束」を強弁し、けっきょく不要だった大飯原発を再稼働させ、いまだに脱原発の腰が定まらない野田内閣に、改めて怒りを覚えます。

◆10月上旬はノーベル賞の季節、一昨年のノーベル平和賞は亡命者中心の独立中国ペンクラブ劉暁波に授与され、矢吹晋・加藤哲郎・及川淳子『劉暁波と中国民主化の行方で論じましたが、今年の文学賞は、中国政府公認中国ペンの莫言に授与されました。しかし国際ペンクラブホームページは、劉暁波と莫言の写真を並べて、獄中作家の釈放を求めています。平和賞はEU(欧州連合)に。国際赤十字などは第1回のアンリ・デュナンから三度ももらっていますから、国際組織の受賞そのものはよくあること。でも、このタイミングでの受賞には意外の感。そして、医学・生理学賞の山中伸也教授の受賞は、素直に喜びたいところ。特に共感できるのは、次の2点。第1に、「特許」についての山中教授の考え方、新自由主義・市場原理主義の時代には「独占させないための特許」が必要という考え方、ウェブ上の問題にも、応用できそうです。第2に、現代日本で最も生産的な京大iPS細胞研究所ですら、その担い手の9割が、任期付きか非正規雇用の研究員たちであり、そのことに山中所長が大きな危機感を持っていることです。国の財政危機のしわよせをまともにうけた、日本の科学技術体制の危機です。最先端で応用性も高いiPS細胞研究ですら、貧弱な研究予算で人件費が出せないのですから、基礎研究、人文・社会科学研究は推して知るべし。その小さなパイをめぐって競争が激化し、産学協同から軍学協同、果ては経歴詐称から虚偽業績申告まで産み出す構造的問題。かつて廣重徹『戦後日本の科学運動』(こぶし文庫)が告発した体質の再現です。そしてそれが、1954年に日本で「原子力の平和利用」が出発した背景であり、原発「安全神話」が作られ、安富歩さんのいう「東大話法」が跋扈し、原子力研究者のほとんどが「原子力村」に組み込まれる一因になりました。

◆前回更新で入れた1954年3月21日『読売新聞』夕刊トップ、アメリカ大統領アイゼンハワーの「アトムズ・フォー・ピース」演説の3か月後、ビキニ水爆実験で被爆した第5福竜丸乗組員のケロイド写真と「原子力を平和に、モルモットにはなりたくない」という見出しには、当時の中曽根康弘ほか改進党議員たちが提案した2億3500万円の原子力予算通過の事情が隠されています。この写真の2週間前、3月4日に吉田自由党内閣補正予算中に滑り込ませた原子力予算は、衆院を通過していました。3月11日には日本学術会議が「平和利用」の条件付きで承認にまわり、3月13日『毎日新聞』社説は「原子力研究を期待する」と宣言しました。第5福竜丸被爆帰港の『読売新聞』スクープは、その3日後、3月16日でした。その1週間後がこの「原子力を平和に」の写真です。その詳しい経過は、先日9月29日の早稲田大学20世紀メディア研究所第70回公開研究会で「日本の原発導入と中曽根康弘の役割 1954-56――米軍監視記録Nakasone Fileから」と題して報告し、10月8日号『エコノミスト増刊 戦後世界史』の加藤哲郎「原爆と原発から見直す現代史」にも「1954年3月が分岐点だった」と書いておきました。予算が通ったら反対から条件付き承認へと1週間で「転向」した科学者側の事情については、山崎正勝さん『日本の核開発』(績文堂)が詳しく述べています。その条件とされて最終的に55年末原子力基本法に入ったのが、もともと占領期に「原子力の平和利用」の唱道者であった武谷三男が発案した「平和利用3原則=自主・民主・公開」でした。

◆この過程を「議論にあけくれる学者を札束で目をさまさせた」と公的な『原子力は、いまーー平和利用の30年』(日本原子力産業会議編、1986年)の冒頭に書き込んだのは、自ら被爆者で湯川秀樹の愛弟子の一人であった森一久でした。山崎さんも引用していますが、これは当初茅誠司に中曽根康弘が「札束で頭をひっぱたいた」と語った話として核物理学者に伝えられ、武谷三男が「原子力と科学者」(『著作集』2,396頁)で広めたものです。当時、朝永振一郎は「札束で学者のおしりをひっぱたいた」話として紹介し(『毎日新聞』54年4月2日)、中曽根自身は、1965年の「原子力開発への準備」(日本原子力産業会議『原子力開発十年史』)で公式に否定した後、『政治と人生』などでは、茅に対して「札束でほっぺたを打って目を覚まさせる」と言ったのは同僚議員の稲葉修だったとしています。ここでは「札束=予算のエサ」で学者をひっぱたいたことは共通していますが、「頭」なのか「おしり」なのか「ほっぺた」なのかが対立しています。私は朝永の「おしり」説が一番説明力があると思っています。というのは、「頭」や「ほっぺた」にはいかにも政治家が学者を脅迫・強制したようなニュアンスがありますが、どうやら54年3月時点では、学者のなかにも原子力研究をやりたい、でも原爆体験からの慎重論・反対論があるから大きい声ではいえない、研究費が少なくて海外情報収集さえままならないから何とか予算がほしいという雰囲気が相当ありました。日本学術会議内では茅誠司・伏見康治の提案にもとづき原子力の基礎研究を再開すべきか否かの検討を始めた段階でした。そこに、いきなり原子炉作りのための2億3500万の予算が提案され、造船疑獄で揺れる「政争の具」として、あっさり通ってしまいました。そこで茅誠司藤岡由夫伏見康治らは、予算がある以上、条件さえつければ、学者の力で軍事研究への応用は阻止できる、原子力研究を統制できると考えて、一気に「平和利用」の名目での中曽根・稲葉の誘惑、原子力研究費の魔力にとびついた、というあたりが真相と思われます。脅迫や強制ではなく、すでに前のめりになっていた科学者たちに、「研究費」のエサを与え、「おしり」にムチを入れたら一気に走り出した、ということでしょう。

◆後に中曽根康弘伏見康治の対談「黎明期、そして今後の原子力開発は」(『原子力文化』29巻7号,1998年7月)で、中曽根は当時の新聞に「原爆予算」「中曽根が予算を出して、また原爆を作るんだろう」と批判されたと認め、伏見は、日本学術会議の「平和利用3原則」を「我々の提案は、中曽根提案が出てから大急ぎでつくったんですよ。我々の間では『中曽根さんはきっと原子兵器を作るに相違ない。それにはくつわをはめなくちゃだめだ』と(笑)」いうものだったと認めています。この対談で中曽根は、予算提案時に学術会議から公式に抗議に来た茅誠司が、「できちまったから仕方がない」と述べたことも明かしています。「これは内心は通してくれというんだ。私はそう読みました」。こうして、1年半後の1955年12月13日、国会での原子力基本法の提案理由の説明で、中曽根康弘は「各国の共通の特色は、この原子力というものを、全国民的規模において、超党派的な性格のもとに、政争の圏外に置いて、計画的に持続的にこれを進めているということであります。どの国におきましても、原子力国策を決定する機関は半独立自治機構としてこれを置いておきまして、政争の影響を受けないような措置を講じております」と述べ「政争の具」ではなく「国策」であると強調して、原子力基本法と原子力委員会発足をほぼ満場一致で通過させます。統一したばかりの日本社会党右派の松前重義(東海大学学長)を味方につけた、科学者の弱みを握った政治家中曽根らの工作で、日本の原子力発電は出発します。

◆ 「平和利用3原則」は基本法に入りましたが、「安全」は原則になりませんでした。5人の委員のうち3人、湯川秀樹藤岡由夫有澤広巳が学界から入った原子力委員会は、初代委員長正力松太郎の強引な運営と財界の支援のもとで、基礎研究をじっくり進めるどころか、すぐに外国の原子炉を輸入して実用化する方向に進みます。湯川秀樹はそれに抗議し、「健康上の理由」で委員を辞任します。その代わり、科学技術庁も発足して、原子力研究の予算は他分野から突出して優遇され、多くの原子力村住人を育てます。あまり注目されることはありませんが、55年原子力基本法制定時の中曽根康弘の提案理由には、「日本の原子力の問題というものは、広島、長崎の悲劇から出発いたしました。従って、日本国民の間には、この悲しむべき原因から発しまして、原子力に対する非常なる疑いを持っておるのであります。すでに、外国においては、原子力はかっては猛獣でありましたけれども、今日は家畜になっておる。遺憾ながら日本国民はまだこれを猛獣だと誤解しておる向きが多いのです。これを家畜であるということを、われわれの努力において十分啓蒙宣伝をいたし、国民的協力の基礎をつちかいたいと思うのであります」と原爆を猛獣に原発を家畜にたとえ、「安全神話」作りを提唱して、産業としての原子力に道を拓きます。歴史的には、原子力を「 エネルギー源の問題を主として外国は取り上げておる。日本は広島、長崎のエレジーとして今まで取り上げてきておった。この国内の雰囲気の差と国外の界囲気の違い、これを完全にマッチさせるということが、まず第一のわれわれの努力であります。広島、長崎のエレジーとして取り上げている間は、日本の原子力の進歩は望むことができません。外国と同じように、動力の問題として、産業の問題としてこれを雄々しく取り上げるように、われわれは原子力政策を推進したい」というのは、英語の「Energyエナジー=エネルギー」と「Elegyエレジー=悲歌」をかけた、ハイカラ青年政治家中曽根らしいレトリックでしたが、あいにく英語は苦手の当時の国会議員たちにはほとんど通じなかったようです。「ヒロシマからフクシマへ」の転換点となった日本における「原子力の平和利用」の出発は、「原子力の夢」と研究予算の誘惑に負けた科学者たちと、いつかは原爆を持ってアメリカと対等にと願う政治家たち、それに巨額予算に新たな儲け話をかぎ取った産業界の合作でした。湯川秀樹博士のノーベル賞受賞で湧いた「科学立国」の夢が背景にあって、ジョン・ダワー風に言えば、「原爆を抱きしめて」原発が経済成長の土台になっていくのです。山中伸也教授の受賞が、これを他山の石として、日本の科学技術の新たな展開への手がかりとなることを期待します。

「加藤哲郎のネチズンカレッジ」から許可を得て転載 http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.ne/
〔eye2070:1201017〕