言わずにはいられない!

――八ヶ岳山麓から(274)――

ことしの元旦に「リベラル21」編集委員会による「今年は護憲派にとって決戦の年――2019年の年頭にあたって」が掲載された。安倍改憲案を葬るために汗を流そうという趣旨に大いに共感したが、同時に一抹の不安を覚えたのでそのことをここに記してみたい(上記記事は以下「元旦所感」という)。

「元旦所感」の情勢判断は、一口に言って護憲派に有利というものである。事実なら結構な話だが、本当にそうか。
「元旦所感」はその根拠として、日本経済新聞とテレビ東京の昨年12月の世論調査で安倍首相に期待する政策を複数回答させたところ、「憲法改正」は10%の最下位だったこと、また同月の朝日新聞の世論調査などでは「安倍首相は2020年に新しい憲法を施行したいとの考えを改めて示しました。この安倍首相の姿勢を評価しますか」との問いに対し、「評価する」33%、「評価しない」48%だったことなどをあげている。
たしかに2017年NHK 調査でも、憲法9条を変える必要はないとする人が57%であった。ところが、2018年3月のNHK世論調査だと、憲法を改正して自衛隊の存在を明記することに賛成か反対か聞いたところ、「賛成」が36%、「反対」が23%、「どちらともいえない」が32%だったという。この変化はなぜかわからないが、私にとってはがっかりする結果だった。
また同じ2018年内閣府の自衛隊に関する調査では、自衛隊の存在目的を「災害派遣」とするものが最多で81.2%だった。「災害派遣」は当然としても、周辺海域における安全確保、島嶼部に対する攻撃への対応、すなわち軍事目的とするものも74.3%だった。日本人の大半は尖閣諸島を守るためには自衛隊で対処すべしとしているのである。

世論調査は調査の項目や質問の仕方によって結果がかなり変ることは、経験済みである。だが、私は「元旦所感」のように、国民の過半が安倍改憲案に反対するものと判断するのには躊躇する。
あらためて安倍改憲案を見てみると、自民党の改憲案にある「国防軍」設置とは異なり、憲法9条と自衛隊二つながらの共存を望む世論を巧みに利用した、非常によく考えられた案である(もちろん9条2項の後に自衛隊を明記したら前後矛盾するから、日本語としてわけのわからないものになることは目に見えている。英文にしたらどうなるか心配になる)。
しかも安倍晋三氏は、「自衛隊をこのまま日陰者にしていてよいのか」と人情に訴える手も使っている。自民党案では軍国化が露骨すぎて反感を買うことを見通した狡猾な演出である。これは意外に人々支持を集めるのではなかろうか。
                       
「元旦所感」は以下のように「専守防衛」を盾に安倍改憲案と戦おうとする世論を支持している。
「(憲法に自衛隊が明記されると)自衛隊員は米国のために戦う可能性が一段と増すでしょう。これは、多くの国民から支持されている『専守防衛に徹する自衛隊』像から逸脱します。しかも、このところ、安倍内閣は、9条改憲の前に自衛隊を『専守防衛』から解き放そうとしているのではないかと思わせる事象まで起きています。例えば、安倍内閣は事実上の『空母』の導入に踏み切りました」

もともと専守防衛は保守政権が言い出したもので、1970年防衛庁長官だった中曾根康弘氏がこれを連発したのだから、ずいぶん使い古された言葉である。もちろん保守政権の専守防衛は、冷戦時代のソ連を包囲し壊滅させるというアメリカの戦略に従ったものだったから、当時は軍備増強のまやかしに過ぎなかった。
専守防衛の原則にのっとった作戦行動は、相手の攻撃力を殲滅するものではないから、再びの侵略はありうるが、冷戦が終わって30年の今日では、この原則を国際的に明確に提示すれば、相手方も先に手を出しにくいという点で有効だと思う。
逆に安倍改憲案が通って、自衛隊が米軍に従いところかまわず共同作戦を行うことになれば、中国をはじめ周辺諸国はこれを脅威と受け止め、軍事的に対応せざるを得ないだろう。当然国際関係は緊張し、日本の安全保障にとってきわめて好ましくない状況に陥る。
だから護憲派が保守政権の専売特許だった専守防衛を逆手にとって、安倍改憲案にに対抗するのは賢明だと思う。

しかし、専守防衛の原則を貫き通そうとすれば関門がある。
いま日本では、日米安保体制すなわちアメリカの核抑止力を容認しながら安倍改憲案に反対するといった人は無視できないくらい多い。
だが、アメリカの核抑止力は、日本の上に核の傘をさしかけて雨露をしのぐように、他の国の核攻撃から日本を守ってくれるといった類のものではない。アメリカの核抑止力は先制的に核攻撃し壊滅させる意思を示して相手方を威嚇し、攻撃をあきらめさせるというものだ。自衛隊は、韓国軍と異なり作戦行動の指揮権を持ってはいるものの、アメリカの核戦略の下に置かれ、そのミサイルの矛先は北朝鮮や中国に対して向いているのである。
アメリカの核抑止力に依存しながら専守防衛の自衛隊を構想するというのは明らかな自己撞着である。私も含めて、こうしたあからさまな矛盾をほとんど意識しないで専守防衛を支持するという感覚は、日本を目下の同盟者とするゆがんだ日米関係が70年も続いた結果だと思う。
もうすでに20年前の経験だが、中国人青年と中国の核ミサイルの脅威について議論したとき、彼から「アメリカの核の傘の下にいながら、日本人が中国の核兵器を問題にするのは滑稽ではないか」と逆襲されたことを思い出す。

私は国家には本来的に自衛権があるという考えだから、専守防衛が直ちに憲法に違反するものとは思わない。だが、二心なく憲法を読めば、前文と9条において非武装平和の原則を強調していることがわかる。これと専守防衛の自衛隊の存在とはなじまないことは明らかだ。
だから、いつになるかわからないが、国家の軍事行動を明確に限定するために、個別的自衛権と専守防衛原則を憲法に書きこまなければならない日はかならず来ると思う。

今年の参院選で安倍自民党に対抗する立役者は立憲民主党である。その安全保障政策はやはり専守防衛である。同党は「現実的な安全保障政策」や「健全な日米同盟」を目指すというのだが、これは何を意味するのだろうか。立憲民主党が将来もアメリカの核抑止力に頼るというのならば、あなたがたの専守防衛の中身もやはり矛盾したものである。
立憲民主党といわず護憲派は、安倍改憲案に勝利するためにもう一歩進んで日米安保体制を検討し、アメリカの核抑止力に頼らない、「独立国」にふさわしい防衛政策を国民に提示すべきではなかろうか。
1960年日米安保条約改定を企図した岸信介首相は、対米自立ないしは対等な同盟関係を目指して改定交渉に臨んだ。当時反体制派は日米安保体制からの離脱を目指し、安保条約の破棄を要求して岸政権と戦った。
しかしその後の保守政権はアメリカの核抑止力に頼るだけの路線を選んだために外交力を失い、NATO諸国にくらべて恥かしいほどアメリカに媚びへつらい、現在ますますその度合いを強めている。このため沖縄県民は、国家がやるべき対米従属というくびきからの脱出を、自力でなしとげようと悪戦苦闘しているのである。

私たちがあくまで専守防衛を目指すなら、日米関係の再構築を視野に入れて、民族の誇りを賭けて安倍改憲案と戦わなくてはならない。そのことをいま特に強調したい。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion8328:190124〕