明治以降、わが国が歴史観において普遍主義(インターナショナリズム)とナショナリズムのいりくんだ関係を突きつけられたのは、後から出発した近代国家の宿命のようなものであった。この関係はある場合には開化と攘夷、左翼と右翼、都市と農村の対立に、ある場合にはインテリゲンチャの自己内面と外部世界との葛藤に、そして、もしかしたら資本と労働の対立関係に投影したが、戦中期を除いて本質的に振り子がどちらかに振り切れることはなかった。それだけに、かえって文明史の窪みをつくったといえるが、それに泥足をとられずに危うい均衡をたもつことができたのは、柳田國男のほか数えるほどの知識人しかいなかったのである。
普遍主義(インターナショナリズム)とナショナリズムの観点から明治の近代化の過程を振りかえったとき、わが国には国家、社会のヌエ的な構造がひそんでいるのはまちがいなかった。それは復古と維新、攘夷と開国、国粋と文明開化、東洋と西洋という対抗軸の同時性ということであり、いわば、わが国ではアジアの側面と西欧的側面が表裏し、濃縮してあらわれたのである。
戦後いち早く「大東亜戦争」の二面的な性格を指摘し、近代日本の西欧化と脱西欧化のジレンマについての説明を試みたのは竹内好である。竹内は、わが国は太平洋戦争がはじまるまですでに10年近くにわたって中国との侵略戦争状態が続いていながら、なぜ知識人は戦争に抵抗する勢力を結集することができなかったのか、という点を問いなおすことから始めている。この問いかけを通じて彼ら文学者、哲学者らの思想的態度の実体を暴くとともに、彼らの頭をいちように悩ました戦争の再定義づけをおこなっている。竹内の主張のひとつは、わが国の近代国家の形成から大東亜戦争にいたる過程における事件や事変を網羅するにはナショナリズムの問題を避けてはとおれないという問題意識であり、もうひとつは、それはアジアのナショナリズムとの関連においてとらえなければならないということであった。つづめれば、竹内の主張は、本来、右翼ナショナリストの専売であったアジアのナショナリズム、あるいは民族主義問題の装いを変えた提出ということにすぎないのだが、彼は戦中の同時代体験をもっているから、その答えを導き出すために迂遠な論理の階段を踏んでいるようにおもえる。つまり、ナショナリズムの問題は火中の栗をひろうことにもなりかねない危険性をよく知っており、その分だけその論理の幅は限りなく狭くなっているのだ。ナショナリズムの由縁や性格づけのための理由がくねくねした論理にたどられることになるが、そこにこそ彼の文体の特徴が現れていると考えなければならないのである。竹内によると、当時の政治家や軍人だけでなく、戦前の文学者、哲学者だけでもなく、戦後のひとびとによってさえ戦争の意味がたどれなかったのはそれなりの理由があったことになる。彼は正真正銘のファシストである大川周明さえも苦悶せざるをえなかった日華事変の解決不能性を知っていた証拠を上げたあと、次のように続けている。
≪なぜ、解決されないのか。太平洋戦争の二重構造が認識されないままに忘れられようとしているからであり、さかのぼっていえば、明治国家の二重構造が認識の対象にされないからである。明治時代を一貫する日本の基本国策は、完全独立の実現にあった。開国に際しての安政の不平等条約の最終廃棄(関税自主権)は明治四十四年まで持ち越された。しかし一方、日本は早くも明治九年に朝鮮に不平等条約を押しつけている。朝鮮や中国への不平等条約の強要が日本自身の不平等条約からの脱却と相関的であった。この伝統から形成されたのが「東亜共栄圏」のユートピア思想であり、そのために「大東亜戦争」は不可欠の条件であった。≫『近代の超克』 竹内好著
開国に際しての安政の不平等条約の最終廃棄(関税自主権)は明治44年まで持ち越された。その一方で、早くも明治9年に朝鮮に不平等条約を押しつけている。わが国が不平等条約の撤廃を要求したのはアジアとしての方法の自覚であったが、その同じ時期、朝鮮に対して不平等条約を押しつけたことは西欧近代の立場に立っていた。その二面性はあたかも双頭の蛇のような形であったから、どちらかが尻尾を飲み込むようなことになると、先後どちらが頭かわからなくなるのはあきらかだった。そのため、蛇は前に進んだり後ろへ後退したりと、無限に往復運動を強いられることになる。この近代国家の二重構造は、もとは西郷隆盛の征韓論にまでさかのぼって国策の片面に組み込まれていた。そして、このジレンマ解消の力学は、結局、「大東亜共栄圏」というユートピア思想をうみだし、その結果「大東亜戦争」という結語に行きついたのである。一般的に「大東亜戦争」は、アジアの諸民族はいままで西欧の帝国主義によって植民地化され蹂躙されてきたので、それぞれの世界史的立場を忘れかけていたのだが、いま、東亜の諸民族は一丸となってこの桎梏を破り、東亜文化の理念を掲げて世界史的使命の先頭に立って奮起しなければならないというスローガンに要約される。
そして、竹内の文脈からおしはかると、「大東亜戦争」において、いままで欧米列強の力によって無理やり植民地化されてきたアジア諸国のうち、わが国が盟主となって指導権を握り、欧米の利権を駆逐してアジアを解放する使命がわが国に求められることになる。つまり、「大東亜戦争」は、植民地侵略戦争(中国やアジアに対する)であると同時に、米英に対する帝国主義戦争であり、この両側面は事実上一体化していたが、論理的には区別されなければならないとしたのである。なぜなら、日本は中国大陸に対するとはちがって、アメリカやイギリスを侵略する意図はなかった。むしろ、アジアを西欧の軛から解放することを目的とした戦争だった。それからいうと、帝国主義が帝国主義に責任を負わせることはできないのは当然ということになり、東京裁判に対する批判にもつながってくる。こういう考え方のある面の正当性は、対米英戦争の開始された昭和16年12月8日の体験において、多数の国民がこの開戦を無条件に支持した事実によっても裏づけられる。
12月8日にいたるまでには、暗澹とした平和よりも戦争の純一さの方がましだというような雰囲気が多くの国民の心を占めていた。そして、ほとんどの知識人も同様な見方に従って思考を停止したのである。長いトンネルのような中国戦線の泥沼に辟易していた国民の目には、威勢のいい対米英主戦論はある種のカタルシスをもたらした。その一方、当時の共産主義者の多くはすでに転向して内面的に屈折し、もはや現実の推移を追いかける力をもっていなかった。また、近代主義的な自由主義者も言論統制されており、その他の文学者、哲学者たちも、いちように思想的根拠を失って、開戦に際して異議を唱えたものは皆無だったのである。そればかりか転向共産主義者の中には、ナチスへの嫌悪から独ソ戦においては密かにソ連側を応援しながら、そのことをわが国の対中国侵略の虚偽性と結びつけ、太平洋における戦線拡大を贖罪のように受けとめた者さえいた。これらに対して竹内は、あくまでも「戦争体系のなかから戦争体系そのものを変革する意図と実現のプログラムを提出する思想」の所在にこだわっており、そのような「大東亜戦争」の思想的性格の定義の難しさの中にこそ、ほんとうはわが近代史における思想的転機が隠されていたと考えたのである。
戦争理念、つまり、「大東亜共栄圏」をめざした「大東亜戦争」の理念は、一方でアジアを主張し、他方で西欧を主張する使い分けの論理にほかならなかった。だが、急激な近代化を成し遂げたわが国は、明治以降、ぬきがたくアジアに対する無関心と優越意識があったから、アジアの盟主を自認したところで、アジア諸国との連帯は望むべくもなく、相反する意識はたえず二足のわらじの対手を緊張感に誘い、相互対立は深まっていった。なぜなら、アジアの盟主になることはアジア諸国の植民地解放運動を敵にまわすことになり、一方で、みずからアジアの原理を欧米に承認させなければならないからだ。しかし、わが国の実際のアジア政策の中身は、ほとんどアジア的原理を放棄しているに等しかった。そのため、その対アジア、対欧米両面において、いずれ破綻をまぬがれなかったのである。竹内は、その破綻は欧米に対してはアジアであり、アジアに対しては欧米であるヌエ的二重構造の結果であり、どちらにしても「永久戦争」の立場に帰着せざるをえないとみなした。つまり、戦前のわが国の国際的立場は振り子のようなもので、たえず不安定で持続的な緊張と戦争状態を強いられたことになる。
わたしたちは、かつての戦争の傷跡を噛みしめるとき、戦争に抗する思想はありえるのかという問題にとらわれがちだ。そうおもうのは太平洋戦争が始まる前の知識人にとって、満州国の建国や日華事変の戦争状態が続いていることは中国に対する侵略行為であることは自明の事実だった。にもかかわらず、共産主義者はもちろん自由主義的な知識人たちも、戦争に抵抗する思想をつくることができなかった。ここにわが国の近代思想の脆弱さをみてとることもできる。しかし、戦争と思想の関係を論じる上で、思想の強さと弱さを測る決定的な物差しがあるともおもえない。また、思想はすべて現在進行形の形をとるとは限らないから、戦中にかぎって戦争に抵抗することだけをもって、イデオロギー評価をしてみてもしようがない。それなら、人間の内奥までさかのぼって人間にとって思想とは何かというところまでつきつめて問われなければならないのだとおもう。その際、ただひとつはっきりしているのは、マルクスが哲学一般を指弾したように、この世界の支配者は現実的な社会・経済関係において支配するとともに、精神生活関係においても支配する以上、支配的な思想はいついかなる場合であろうと支配者の思想にちがいないということだ。これはマルクスにとっては、思想は決して自分がおもっているほど大空を自由に羽ばたいているのではないことを意味していた。
それに対してマルクスが敵とみなした青年へーゲリアンたちは、いちように支配的な思想を支配的な社会関係と無関係にとらえ、歴史のうちではいつも匿名の思想というものが支配し、あたかも歴史を動かす動因であるかのような架空の図式をでっちあげた。そのため、歴史の実質的な歩みはすべて思想というものに還元されてしまう。ここでは実際の具体的な歴史がどのような政治的・経済的起伏をともない、それがどのような過程をたどるかにおかまいなしに、概念やカテゴリーとして表象した歴史の自己規定のみが、唯一、真の歴史と呼ばれることになる。歴史は歴史そのものである前に、歴史についての概念やカテゴリーでありさえすればよかったのだ。だから、青年へーゲリアンたちは、経験的な実践を介して概念やカテゴリー、表象を叙述するのではなく、逆に、概念やカテゴリー、表象を介して経験的な実践を叙述(解釈)することで満足する。
ヘーゲルの歴史観の帰結が理念の自己展開であったのに対して、青年ヘーゲリアンの描きだす歴史は、歴史というよりもむしろ、概念やカテゴリーに人格化した哲学者、批判家の狭くるしい視界をなぞった自己意識の似せ絵以上ではなかった。哲学者や批判家の概念やカテゴリーになぞり乗りうつってしまえばその任務をはたすことになるこういう方法だと、なるほど自己意識の歪みが多様な像をむすぶのに応じて、対象世界は種々多彩な解釈を許すにちがいない。だが、彼らはいつまでたっても世界の視界を獲得することは不可能なのだ。こうしてマルクスは思弁哲学を批判し、思想を現実の地面の上に着地させようとしたが、その最大の成果は『資本論』であった。このマルクスの方法において戦争を見たならば、哲学者や批評家の個々の解釈で変幻自在に変化する戦争の一般的な定義で満足できるはずがなかった。だが、和製ヘーゲリアンたちは、「大東亜戦争」の理念からはじまって、「八紘一宇」や「世界史の哲学」など、同じ事実を手を変え品を変える手品を駆使して、挙句に「近代の超克」と称するもはや後戻りのできないスローガンを唱和することをはじめたのである。
竹内好は、雑誌『文学界』が太平洋戦争の開始からほぼ1年たった昭和17年9月、10月号に掲載した『近代の超克』と銘打たれたシンポジウムについて仔細に検討を加えている。「近代の超克」という言葉は、保田与重郎を除き当時の論客がほぼ揃った感のあるこのシンポジウム以降、知識人をとらえシンボルとして使われるようになる。このシンポジウムは「文学界」同人グループ、京都学派グループ、日本ロマン派グループの三つのグループで構成されており、司会は河上徹太郎、出席者は西谷啓治、諸井三郎、鈴木成高、小林秀雄、亀井勝一郎、林房雄など13名である。
今日から見ると、『近代の超克』というタイトルは、さしずめポスト・モダンの呼びかけと同じ響きをもっているかにみえるが、竹内の場合、そういう浮ついた風潮に流されることなく、このシンポジウムを戦前における最後の思想的営為と受けとめ、膠着した戦争状態を打開する可能性を期待したのである。だが、この討論が行われたのは対米英開戦緒戦の戦勝ムードに酔いしれている時期であった。そのため彼らの多くは無邪気に開戦を喜び、暗雲が晴れたように気持ちを高ぶらせていた。この感情を割り引かないと、とうてい彼らの思想の実質には届きそうもないが、その片方で、中国大陸の戦争は依然として続いており、戦争は太平洋戦争から始まったわけではなかったのである。このことによる陰影は、出席者すべてに共有されていなかったはずはないとおもえるのだが、竹内によれば、彼らのアジア情勢に対する関心は驚くほど希薄であったとされている。そのことが、『近代の超克』に関わる竹内の最大の問題意識にとれる。本来、どの場所でどの戦争のどのような戦争の側面かが検討されなければならなかったにもかかわらず、出席者のだれも「近代の超克」のためには、戦争一般が不可欠であるというふうな戦争の定義をすることしかできなくなっていた。竹内はそこに既に戦争理念の破綻を読み取っている。
「近代の超克」派の発言のいずれにも、求められていたはずの戦争に当面している個々人の主体性の問題、あるいは生身の人間の問題がぬけ落ちているのははっきりしていた。つまり、その思想は大陸で戦死する兵士たちの価値と競りあってはいなかったのである。それなら事実の側面からいえば、「大東亜共栄圏」の夢は現実のこちら側の人間に掠りもしなかったことになる。アジアの原理(ナショナリズム)とは何か、西欧近代の原理とは何かもよくわからないまま、勝手に思い込んだアジアの大義を掲げながら、ひたすら戦争は拡大して被害は大きくなっている。竹内にとって思想の命運とは、本来、思想が現実の生身の人間の内面の原理をどのようにつかみ、現実の一歩先に歩を進めているかどうかに懸かっているとおもっていた。それなのに思想は情勢に追いつかないまま、戦勝気分に酔って浮かれ、判断停止したままであることを知るだけだった。竹内は中国大陸で兵役に服していた際、見聞きしていた現実において、わが国はアジアの原理からいかに遠く、肩入れすることがいかに難しいか噛みしめるように嘆息している。
ただし、ここで少し立ち止まって考えると、竹内の戦中体験や中国への肩入れの姿勢に関しては保留したくなる点がないでもない。ひとつは、仮に、連帯をもとめるべきアジア的原理なるものが、単なる概念やカテゴリーでなかったかどうかを考えてみる必要があるからだ。もし、それが孫文の三民主義や毛沢東の農本マルクス主義であったり、また、現在の社会主義という看板だけを残した中国の近代化に結実したとする出来合いの表面的な思想であるなら、わたしたちはとうてい納得できないのである。もうひとつは、歴史認識の基本に関わることであるが、竹内自身が語っているように、欧米に対してアジアであり、アジアに対して欧米であることからくる「永久戦争」の論理は、わが国独特の環境によってうまれたものではないということだ。いいかえれば、先進国に対して後進国であり、より後進国に対して先進国であるわが国の二面性の認識は、西欧近代特有の発展段階論をなぞったものにすぎないのである。というのは、より先進国、先進国、後進国、より後進国の序列は、世界に拡散する資本を時間軸に沿ってピラミッドのように形づくった資本主義の歴史的事実であり、もとはといえば、西欧近代の歴史観の落とし子といえるものだ。しかし、このヒエラルキーはより先進国であるか、より後進国であるかという媒介項をのぞけば、あとには先進国と後進国の対立しか残らないから、各国がすべて近代化してしまえば、竹内のいう「永久戦争」観はもとより意味をなくしてしまうのである。少なくとも「大東亜戦争」の論理は、復古や反動だけからできあがったものではなく、西欧の近代的な装いを背負い込むことで成立していた事実は、膨大な犠牲をはらった敗戦によって、攘夷と開国、東洋と西洋という対立軸が霧消したことによって証明された。
さらに竹内の問題意識は、「戦争の論理」と呼ばれる思想は、国民にとってどういう意味をもっていたかについて問いつめている。ここで彼は、「国家としての戦争」や「戦争としての国家」の問題に真正面からぶつかるはずであった。彼は「大東亜戦争」の思想体系を①総力戦②永久戦争③「肇国(ハツクニ)」の理想の三本の柱が一体化したものとみなし、戦時のあらゆる思想はこの「公」の思想との距離感やバランスの上で展開したと考えた。あの総力戦の時代は、一部の軍国主義者だけが戦争を扇動したのではなく、大部分の国民も戦争を支持して「公」の思想を体現していたからだ。その意味で総力戦の体制において、もし仮に、戦争に対して抵抗する思想があったとすれば、抵抗と屈服とは紙一重だったことを言い含めていることになる。竹内のこの見方によると、この「公」の思想をもっともよく代表したのは京都学派の哲学者たちである。
京都学派の哲学者にとって、西欧文化と東洋文化の対立は、ある場合は、個人主義と全体主義の対立、リベラリズムとファシズムの対立と読み替えられ、これらが双方とも過去の遺物としてのり超えられるべきものだった。しかも、彼らの「世界史の哲学」は、西田幾多郎のように西欧哲学に造詣の深いひとたちの手で練られ、西欧文化と東洋文化の対立ののり超えは、西洋哲学の方法をもっておこなわれると自惚れていたのである。本来、西欧的概念を借り西欧的近代を超克すること自体が矛盾なのだが、彼らは西欧、東洋を問わず現在は世界史的な課題に直面しており、もはや西欧の一、二国の歴史認識のレベルをもってそれに応えることはできないと考えたのである。
たとえば、田辺元は、世界史について唯物史観が過去からの継続を重視するのに対して、未来の精神の実現目標を立てると観念論になるとし、そのどちらにも中心化することなく現在の「無の円環的統一」という概念を提示している。彼は過去を種族に例え、未来を個人に例える。そして、過去でも未来でもなく現在こそが真の人類であり、それを保証するのが「国家」であるとする。種族はこうして個人とともに「国家」に吸収されることこそが、「個人の自由」になるという論理を組み立てた。その際、天皇制は国家の統制と個人の自発性を発揮するための中核になると信じられた。これは西欧の個人主義、東洋の全体主義とはまったく異なった原理にもとづく日本文化の特色であり、世界史の中に解放されるべき原理とみなされたのである。わが国の「国体」は全体主義ではなく、天皇制は過去、未来を含む絶対の中心であり、そこに「世界史の哲学」の原理があるとされ、それは当面、西欧に抗してわが国みずから西欧近代的なものの否定、つまり、「近代の超克」そのものであった。そこでは新たな世界的日本文化の創造という使命は、そのまま新しい世界史の原理を確立することであり、それは天皇制の原基ともいえる「肇国」の理想にいきついた。
彼らはその「世界史的立場」としてのわが国の役割を太平洋戦争に結びつけたが、それは日本人がみずからを完成しなければならない変革の第一歩として、いわば、危機意識と隣り合わせになっていた。この変革は過去からではなく現在にはじまり現在を絶えずのり超えることであり、「永遠の今」という時間概念を提出することになったのである。彼は、ニーチェの人間歴史の意味は超人にあるとの考え方を世界史的民族国家の主体にあてはめ、わが国の超越的で実践的な決断と歴史的形成力の使命を説くのである。
≪世界歴史は絶対無の象徴の歴史である。歴史における超越の歴史であり、人間の運命を象徴する象徴的人間の歴史である。世界は主体を通じてのみ開かれる。そして逆に世界を打開し建設し得ない主体は主体ではない。しかし真に世界を展開させることは歴史における超越と別個のものではなき故に、常に新たな建設的超越なくしては世界史的世界は再び閉ざされ、主体は世界に埋没して、世界史の中に消失するのである。ここに世界史における道義力とディナミィクがある。かくて世界史は内在における超越、時間における永遠を使命とする人間の運命を象徴しつつ、人間の運命の象徴的な舞台であったのである。歴史は絶対無の象徴の世界である。かくしてそれは永遠に流れる限り、永遠の今を行ずるであろう。-そこに我々は世界史的日本の永遠の歴史を見ねばならないのである。≫『世界史観の類型』 高坂正顕著
この高坂による今までの世界史観を否定的に綜合したといわれる象徴型の世界史観を説明する美文をとおして、当時、西田幾多郎から引き継いだとおもわれる東洋的無の思想がどれほど読むものの心の底に響いたか、わたしたちにはもはや、はかり知ることはできない。このような気持ちにさせるのは、この「永遠の今」によって歴史家の内面に裂かれた時間概念は、ともすれば世界史が前方をふさがれ停滞している実感が色濃いから、終末の決断を迫る響きにも聞こえるが、それでいてその決断は時間を超越することがほとんど不可能な行為ではないかという諦めの表情も隠しているようにおもえる。この国が置かれた世界史的立場の使命の愉悦と不安が絶えず衝迫となって、歴史の闇に引きずり込むような感慨をおぼえてしまうのである。おそらく、彼はきたるべき超人の出現を歓喜で迎えたにちがいないが、そのとき同時に、その象徴的行為の行きつく果てを見とおしていなかったとはおもえない。なぜなら、この美文は愉悦と不安の二重性の側面において、未来を放棄したような色調にしか受けとめられないのである。それでも、高坂の前に今という現在では、何より民族と国家の決断に賭ける意志のようなものがまさってみえた。
京都学派は、決断としての戦争を信じ、それは人類の魂を浄化することにあり、戦争は歴史をつくるもっともヴァイタルな力であり、近代が行き詰ったところにはどこでも戦争があるという「戦争としての国家」観を極限までひっぱっていった。それは開戦の詔勅を見事に解析し、解釈したことでうまれた発想で、そのような戦争観の場合、戦争は講和や平和を目的とするものではなく、それらの次元を超えたものになり、総力戦は戦争と平和という対立概念を止揚する創造的、建設的な行為とみなされる。このように戦争自体が目的化してしまうと、同時に、戦争の種類や目的、目的と手段の関係全体が見えなくなるのは当然であって、思想的混乱をもたらすことになった。だからこそ、ここにあらわれている思想は、「公」の戦争の論理の破綻をなぞることになったのである。ここにいたって戦争の解決策の不可能性が表面化し、国民の多くにとって戦争の意味がたどれなくなった最大の理由があった。そのため、竹内は京都学派を教義学と呼んでおり、戦争とファシズムのイデオロギーをつくりだしたのではなく、単に「公」の思想を祖述したにすぎないと評している。彼らの思想の力が現実を動かした事実はないとしたのだ。
≪日華事変は解決不能であり、そのために解決の無期延期の手段として太平洋戦争がはじまった。したがって戦争は当然、永久戦争たらざるをえない。京都学派には永久戦争の紙の上での説明はできるが、解決はできない。そうならば「戦争反対」を叫ぶことで、あるいは戦争反対勢力を結集することで解決できるか。それはできるだろう。しかし、総力戦の中からどうやってその勢力を結集するか。どういう論理で戦争を平和に転換できるか。「和戦という低い対立」を観念上で超えるだけならば「絶対無」の哲学でできようが、それは問題にならない。思想が現実にはたらきかけるものとしての、その思想の論理は何であるか。これは戦争中についに発見されなかったし、今でもまだ発見されていない。≫『近代の超克』 竹内好著
わたしたちは竹内のこのような絶望の言葉に触れると、当時の総力戦の異様な雰囲気の中では、どのような思想であろうと無力であることを思い知らずにはいられなくなる。それは京都学派のようにもっとも体系的な形而上学的思弁(思想)であっても、戦争を推進することも、逆に、戦争を抑止することもできないことにおいて、実地に証明されたかにみえる。しかし、竹内の思想の主調色は決してペシミズムではなく、僅かな可能性かもしれないが、大東亜戦争の二重性にくさびを打ち込み、絡んだ糸のもつれを解く方策を提案していたのである。おそらく、竹内の思想の行き着くところは、アジアの原理(ナショナリズム)と近代の原理(インターナショナリズム)を肌身につきあわせながら、近代化する方法の模索に集中していただろうことは予想できる。
しかしながら、わたしは現実の要請に答えられなかったということで、京都学派の思想を棚上げしてしまうことはできないとおもう。戦前、戦中の京都学派は、西欧近代国家への不信感を西欧的思考方法自体の力を借りて世界史の理念に継ぎあわせて、擬制的ではあるにせよ、ナショナリズムと普遍主義(インターナショナリズム)の結合を夢見て、近代国家はこうして超えていかなければならないとする例示をもたらしたのである。しかも、彼らは日本精神や東洋文化の止揚という言い方をしており、竹内のアジア的原理を含んだナショナリズムの近代主義のあり方とまんざら無縁というわけにはいかないのである。また、彼らが超えようとした近代は、戦争こそないが現在も続いており、無力感の質量において先の大戦の折とそれほどちがった思想状況のもとでわたしたちは生きているわけではない。もしかしたら、彼らが提出した近代のゆきづまりの形而上学は、その歴史認識自体において長いスパンで考えてみなければならない課題が秘められていたかもしれなかったのである。
廣松渉は同じく『近代の超克』のシンポジウムに触れ、竹内とはちがって高坂正顕、高山岩男、三木清、西田幾多郎、田辺元など京都学派の思想を逐一取り上げて、彼らは日本の帝国主義の東亜政策、世界政策をイデオロギー的に追認し、それを合理化する性格を色濃く帯びていると批判している。だが、廣松が問いかけているのは戦争に対する加担のあり方の問題であるが、それが直接あるいは間接的に戦争賛美のイデオロギー的役割を担ったかどうかというより、むしろ近代の終焉と超克をめぐる思想課題において普遍性をもっていたかどうかという点に重点をおいている。もとより、近代の終焉の問題は、西欧哲学の懐内から生まれたのはまちがいない。しかも、少なくとも彼らの多くは、竹内のいう攘夷と開国、復古と維新、国粋と文明開化、東洋と西洋というわが国のヌエ的な二重構造がアポリアとして存在することを自覚していた。そこで廣松が問題にしたのは、彼らがその国家の構造と戦争の二面性を意図的に統一してみせたことにあったのである。そのことで当時のイデオロギーの統一性はおぼろげながら姿をあらわし、要するに、京都学派の思想をそのままファシズム一般に還元することはできないという廣松の見方がうまれた。
廣松は、西田哲学が古典的な近代哲学である主観、客観分離を脱却する意図を含め、西欧流の「有」の哲学に対して東洋的「無」の哲学、しかも「絶対無」の哲学を対置したことに着目している。それらの思想はあわさって、英米の自由主義的個人主義、ソ連の共産主義的普遍主義、ドイツ・イタリアの全体主義的民族主義を統一し、総じて、東西両文化の並存、対立、止揚の志向をもったイデーとされた。その中には資本主義の止揚も当然のように含まれていた。廣松はこれら「世界史の哲学」と呼ばれる思想が国体思想を契機に膨らんだとみなしたのだが、必ずしも国体思想という枠組みにとらわれることなく、はじめは特殊的世界の構成物にすぎなったが、それらがやがて結合して全世界が融合して世界の新秩序がつくられると信じられたのである。
『近代の超克』論議は、太平洋戦争の戦勝気分の中で、人類史の新たな1ページを飾るものとして、呪術的なスローガンのように流布されるようになった。そこには単に理屈の上だけではなく、裏側から一種の心情的なロマン主義が支え、国民意識の中に浸透していく地盤があった。しかし、廣松は、『近代の超克』論議は、当然、俎上にあげられるべき資本主義の止揚という観点からみても、国家独占資本主義の再編成以上の目的をもたなかったと批判している。その理由は、彼らの近代哲学に対する理解が一面的であり、さらには歴史的現実と脈絡がつかない抽象論議に終始したことを理由に上げている。つまり、これらは社会有機体説にもとづき、近代哲学の古典的な啓蒙主義に対するロマン主義的な揺り戻しとして位置づけられ、決して近代哲学をのり超えたといえるような代物ではなかったとされている。しかしながら、わたしたちは彼らの歴史哲学が国体論と踵を接する地点において、より深めた議論をしなければならないとおもう。
京都学派が共有している立場は、西洋文化を吸収してそれを消化し、日本精神を加えて独特の文化を創造しながら、しかも同時に一足飛びに世界史まで昇りつめることであった。みずから普遍主義(インターナショナリズム)の立場からナショナリズムに下降して根拠を求めることが彼らの方法であったのである。今まで西洋の文物は進んだ最高の文化と考えられてきたため、他の民族も進歩すれば必ず自分たちと同じになるはずだという独善的な発展段階説が西欧から世界中に発信された。だが、もしも、西洋文化と東洋文化の両方の根底をさらったならば、人類の文化に広く豊かな方向性がうまれるのではないか。それは西洋文化によって東洋文化を否定するのではなく、また、東洋文化によって西洋文化を否定するのでもない第三の世界史観のあり方にちがいないとする西田幾多郎の考え方は、世界史の中で東洋がせりあがってきた実感を背景にしていた。もちろん、それはわが国がアジアの中で急速な近代化を進め、世界の強国としてのしあがってきた時代認識によって促されたものだ。つまり、あの時代において、ほんとうの世界史的哲学が自然に萌した最初の地盤がわが国においてみいだされることになったのである。彼らはそれを、「八紘一宇」の精神につらなるという言い方をしているが、これは国家主義(ナショナリズム)でもデモクラシーや世界主義(インターナショナリズム)でもない匿名の普通名詞にほかならなかった。
そういう点をふまえると、わたしの考えでは、戦時中、高山など京都学派を攻撃した陸軍軍部は、どこにも場所をもたない「世界史の哲学」なる架空の思弁的理念を敵に仕立て上げたとしかおもえない。つまり、西欧中心から東洋の自覚にはじまって、その東洋の盟主としてわが国の主体的立場の強調という考え方には、石原莞爾のような東洋と西欧の葛藤を戦争力学に張りつけた「戦争としての国家」ほどのリアリティがないのである。それ以上に、京都学派には明治維新以降、わが国がとってきた富国強兵策が太平洋戦争まで描いた軌跡から帰納的に歴史観を検証し、近代国家成立の輪郭をつくりだす前提作業ができていない点に最大の弱点をもっていた。それは外側からみたE.H.ノーマンの次のようなわが国の近代資本主義国家の成立に関する実証的な分析にさえ及ばないものだった。
≪日本の封建国家から近代国家への変貌の速度を説明するには、左の二つの過程の偶然の併起をまず念頭におかねばならない。すなわち、(一)封建制度の断末魔の苦悶と、(二)日本に加えられた西洋諸国の圧力がこれである。内部的危機と外部的危機の結合が近代社会への変革を大いにはやめたのであった。つぎの発展段階の特徴をなす急速な成長、すなわち実力を試されず、いまだ農業経済に依存する国から一等国への前進は、たまたま明治変革の社会的・政治的性格に由来するものであった。明治政府の政策は、戦略的諸産業を創設すること、国防兵力を十分に備えること、かぎられた比較的微力な商業・金融階級に潤沢な補助金を与えて工業部門への進出を奨励することであった。この政策は半面においては、農民階級に課せられた過重な租税負担、国防関係企業にくらべて重要度の少い企業の切詰め、ならびに、およそ国内危機を促進し建設事業を妨害阻止するような不安動揺ないしは民主主義的抗議の兆候に対する一般的不寛容をその特色とした。それにもかかわらず、工業、商船隊、海外市場ならびに有力海軍の極めて急速な建設に成功したのは実にこの政策であった。≫『日本における近代国家の成立』 E.H.ノーマン著 大窪愿二訳
もちろん、ノーマンのいう「民主主義的抗議」の中に「主体」の意義をみいださなかった点に、京都学派が書誌学的に歴史を学んだ証拠をみとめるわけではない。だが、彼らの世界意識と主体性の間には歴史認識が介在しており、その歴史「主体」にしても自己矛盾を抱えた無国籍で匿名のものにすぎなかった。その上、ほんとうは国家と個人の自己矛盾でしかないものを、宗教と国家の矛盾とその止揚にすり替えることによって、時代意識の底辺をさらうことができなかったのである。そのため同じ「近代の超克」派と呼ばれながらも、保田与重郎らの戦争という社会的現実に自意識を吹き込んだ政治的ロマン主義の方に、より多くの読者をさらわれたのだとおもう。この不徹底さにおいて彼らは戦争責任をもちようがないのであり、とうてい現実的な戦争哲学としては、わたしたちには批判のしようもないのである。
わたしたちはこの京都学派の主張に、わが国の「近代の超克」の先駆けをみるべきなのか改めて問いを投げかけることができる。もし、その近代が西欧世界の領土、経済、文化の拡張によって世界の歴史が変形し、列強による非西欧世界の植民地化の拡大の代名詞であるなら、これに対して東洋の立場の突然の出現によって、近代の限界を象徴的に照らし出したという意味ならば、ポスト・モダンとみえなくはない。しかし、このような西欧近代が描き出した世界像への反発を強める契機になったのは、東洋の果てから遅れて出発して近代化したわが国の国家意志のねじれた自己表現でしかなかったのである。いわば、西欧近代に対抗しているのは東洋の近代そのものでしかなかったのである。しかし、彼らは歴史の流れを思弁的、哲学的にとらえるのみで、近代と非近代のありかを両方とも明示しておらず、結局、固有名詞としてのポスト・モダンにはならなかった。柳田國男の見方からすれば、わが国を西欧近代世界に嵌め込む方法は知っていたとしても、西欧近代をわが国の現在の中に着地させる方法が決定的に欠如していたのである。つまり、柳田にあったかもしれない近代世界が一様に躓いている「戦争としての国家」の視点がなかったのである。それは歴史観の対立概念である主観性と客観性とその止揚という問題の立て方そのものが、どのような主体をとおしておこなわれるのか、まるで具体像がみえないことに象徴的にあらわれた。彼らの歴史観をわが国にあてはめてみると、古代と中世と近世の大雑把な区割りしか見いだすことができず、そこでは世界に連なるべき当の近世とは何か、中世とは何かが空白になってしまっているのだ。そのため、近代社会構造の見取り図もポスト・モダンへの筋道もなく、いわば、着地点を見失った無根拠の思想にみえてしまうのである。ほんとうは、彼らは世界地図を拡げる前に日本地図を拡げなければならなかったのである。
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