評論  戦争とポスト・モダン

 戦前、戦中の京都学派は、近代国家への不信感から戦争と世界史の理念を継ぎあわせようとした。その際、わが国を世界史の中に位置づける方法として、「世界史の哲学」という大きく身構えた姿勢をとった。また、彼らは西洋哲学史の知識をもとに国家と歴史に対する強い方法的自覚をともなっていた点において、きわだった特徴をもっていた。彼らの主張の主なものはふたつある。ひとつは近世の歴史観はどのように誕生したかという歴史観の出自に関する問いかけである。もうひとつは、そのような歴史観の中で歴史家自身の関わる「歴史主体」の問題に関するものであった。

 歴史認識は、もともと、西欧中心主義としてはじまり、西欧以外を知らないことが当然のように世界観が語られ、近世以降の歴史観を支配した。ここで京都学派がいちように認めているのは、近世において歴史に対する視野が、やっと世界に対する客観性と超越性をもって観られるようになったのは、世界の現実の構造とそれにみあう世界意識の発生に由来していたことである。かつてのローマ国家において国家は宗教を抜きにして考えられなかったが、近世に入ると宗教が国家の足元を離れ、より高みに普遍化して客観的な存在になったことで大きな転換期をむかえた。その一方で、宗教の支えをもたない国家は主観的な世界として現実世界に下降し、自存自立した結果、国家と宗教が離反してあらわれるようになったのである。

 このため世界は諸国家の動向から解放され、普遍的な世界意識が出現したことによって、世界観が歴史観と結んで、歴史家は普遍的・客観的方法をもって歴史世界を眺めることができるようになったとされる。つまり、国家と宗教が個々に入り組んで凹凸をなしていた世界地図から離れて、世界が平板になったことではじめて、世界史観の客観性は保証されたと言われているのである。だが、この場合、国家と宗教の関係の転換は、彼らにとっては歴史家の視界にとどまるものでしかなかった。なぜなら、世界意識の出現ということであれば、その前に、当然、マルクスの言うように政治的国家と市民社会の離反が二重に介在してくるはずだからである。

 つまり、ほんとうは彼らが言う国家の自存自立は、市民社会の個人の自存自立と対応するものでなければならないのである。それにもかかわらず、この点には全く触れられていないから、わたしたちには世界意識の普遍性なるものは書物の中に埋もれた歴史家やキリスト教司祭の胸中に澎湃として生まれてきた産物としか理解できないのである。しかし、もし、このような世界意識に歴史家の肉体を関与させることができるならば、世界観自身も歴史的な出来事であり、その時代の歴史的産物にほかならず、歴史的制約を受けることは一般論としては正しいとおもう。それは、近世になってはじめて宗教と国家の背反から、世界史と呼ばれる認識が誕生したとされる重要なポイントであるからである。

≪なぜなら、歴史観の基礎をなす世界意識、すなわち、世界を如何に見るか(或いはむしろ世界を如何に生きているか)という仕方、及びその仕方のうちに含まれている「世界」の有り方は歴史家という立場の前提である。もしこの前提をも問題に掘り返さんとすれば、本来既に起こった出来事のみに係るべき歴史家の立場はあらゆる過去的性格の此方ともいうべき現在そのものの立場によって破られる。現在そのものの立場が未来への予科を含んだ実践の立場であるとすれば、歴史家の立場は実践の立場によって破られる。実践の立場は、現在の「世界」そのものと世界意識との直接に係るものである。そして、歴史家の立場が前提している現実の世界と世界意識とへ、実践の立場を通して帰らんとする時、それは既に自らの立場の根底に歴史の哲学の立場を開いて来る。世界史学の立場ならば、その根底には世界史の哲学の立場を開いてくるのである。それ故に、世界意識を中心とした現実世界の構造と史観との相関は、ただ歴史家だけの立場からは原理的な把捉に上され得ないものであるが、かかる相関の根底を統一的に自覚に上すものこそ、世界史の哲学の立場でなければならぬ。≫『世界史の哲学』 西谷啓治著

 ここで西谷は歴史家の歴史認識自体、その当時の世界の現実的動向や世界意識から生じてきたのなら、その忠実な反映にちがいないから、その問題を意識的に反省する際、歴史家自身の答えは不明瞭にならざるを得ないと指摘する。つまり、彼はそれを歴史家の自己矛盾とみなしており、歴史家が歴史事実に対して自己意識をつうじて現実の構造に向かおうとすればするほど、歴史家がおかれている現在の立場によって主観性が混じりこみやすくなり、過去の歴史を歪めかねないことを危惧するのである。にもかかわらず、西谷はその現在の世界構造から受ける影響を受け止め肯定することを、「主体的実践の立場」と呼んでいる。たとえば、現在の世界構造とそれにもとづく世界意識があるなら、「世界史の哲学」というのは現実世界と世界意識を事実的世界構造に逆に切りかえす立場とされる。それは現在の歴史主体自身が見届けるべき現実の重さを認めることでもあるからだ。そこで、その歴史家自身の立場から、近代の終焉という世界史的転換の時代において、わが国が世界史的存在となり、日本的原理と世界的原理の双方を体現しなければならないという積極的な主張となってあらわれる。その場合、歴史への視線は「主体的実践の立場」をくぐってもなお、普遍的な価値が保証されていることが世界観の出自に関する最大の答えということである。

 彼らはあくまでも西欧中心のものの見方が残っていた旧来の歴史観を嫌い、主体の問題と客観性の問題を統合する新たな世界史観をもとめた。高坂正顕は歴史的空間、歴史的時間、歴史的主体のいずれに比重をかけるかによって、世界史観の類型化をおこなっている。それによると歴史的空間的方法とは世界の概念を大陸、海洋、河川などの地理的要件を中心にとりだした空間的な歴史区分であるが、シュペングラーなどに代表される。高坂によれば、これは非合理や偶然性や一回性の衝動を歴史の推力とみなし、肉体を精神よりも深い原理とする考え方につながっていた。第二の時間型歴史観は、キリスト教的世界観がアウグスチヌスの「神の国」までの人類救済までの時間区分をおこなったように、歴史時間は一本の直線を描いて進化するとするとらえ方である。キリスト教の教義は人類の堕落を起源として、イエスの出現をとおして人類の最終的な救済にいきつく終末観を唱えた。

 その一方、近代社会の夜明けとともに、知識と文明によって幸福がもたらされるという進歩を原理とする啓蒙主義の考え方が登場する。この考え方は、自由な理性の進歩によって、個人と社会が調和的に切り結ぶことができるというような楽観的な予測にもとづいていた。やがて、ヘーゲルは世界史を理性とその自由の自覚の弁証法においてとらえることになる。ヘーゲルは世界史の究極目的としての理念という考え方を前提にし、世界史は自由の歴史における進歩の段階的発展であり、そのような歴史には合理的なものの力が加わるという。ただし、ヘーゲルの歴史哲学の中では、東洋世界は専制君主ひとりの自由をもっているにすぎない人類の前史のような段階としてとらえられたため、東洋世界の具体的歴史はあつかわれることがなかった。だが、このような考え方をとってしまうと歴史の概念化や先験的な歴史認識におちいってしまうと高坂は批判している。彼は歴史の発展進歩が西欧近代への接近と同義に考えられていた時代の世界史観に釘をさしたのである。

 こうして思弁や自由の抽象性を排除して、真に歴史的事実を事実そのものとしてみることが可能になったのはヘーゲルを批判したランケに代表される歴史家の仕事とされた。京都学派はいちようにランケの歴史哲学を評価して、各時代の具象的な「時代精神」を取りあげなければならないと述べている。しかし、ランケにしても、結局、ヨーロッパ世界の歴史をもって世界史とみなし、西欧世界しか眼中にない一方的な世界史観にすぎず、世界の民族国家の多元性にもとづく主体性に立脚するものではなかったのである。

 これらの世界史観に対して高坂の「歴史主体的」歴史観は、空間的、時間的歴史観をそれぞれ取り込んで、国土、広域圏の象徴的中心化を求めると同時に、普遍的立場から新旧世界秩序の転換をおこないうるものとしての歴史を意味づけた。だが、この変革は過去からではなく現在にはじまり現在を絶えずのりこえるということであり、「永遠の今」という時間概念を提出することになったのである。彼は、ニーチェの人間歴史の意味は超人にあるとの考え方を世界史的民族国家の主体にあてはめ、わが国の超越的で実践的な決断と歴史的形成力の使命を説くのである。高坂は次のように結んでいる。

≪世界歴史は絶対無の象徴の歴史である。歴史における超越の歴史であり、人間の運命を象徴する象徴的人間の歴史である。世界は主体を通じてのみ開かれる。そして逆に世界を打開し建設し得ない主体は主体ではない。しかし真に世界を展開させることは歴史における超越と別個のものではなき故に、常に新たな建設的超越なくしては世界史的世界は再び閉ざされ、主体は世界に埋没して、世界史の中に消失するのである。ここに世界史における道義力とディナミィクがある。かくて世界史は内在における超越、時間における永遠を使命とする人間の運命を象徴しつつ、人間の運命の象徴的な舞台であったのである。歴史は絶対無の象徴の世界である。かくしてそれは永遠に流れる限り、永遠の今を行ずるであろう。-そこに我々は世界史的日本の永遠の歴史を見ねばならないのである。≫『世界史観の類型』 高坂正顕著

 この高坂の今までの世界史観を否定的に綜合したといわれる象徴型の世界史観を説明する美文をとおして、当時、西田幾多郎から引き継いだとおもわれる東洋的無の思想がどれほど読むものの心の底に響いたか、わたしたちにはもはや、はかり知ることはできない。このような気持ちにさせるのは、この「永遠の今」によって歴史家の内面に裂かれた時間概念は、ともすれば世界史が前方をふさがれ停滞している実感が色濃いから、終末の決断を迫る響きにも聞こえるが、それでいてその決断は時間を超越することがほとんど不可能な行為ではないかという諦めの表情も隠しているようにおもえる。この国が置かれた世界史的立場の使命の愉悦と不安が絶えず衝迫となって、歴史の闇に引きずり込むような感慨をおぼえてしまうのである。おそらく、彼はきたるべき超人の出現を歓喜で迎えたにちがいないが、そのとき同時に、その象徴的行為の行きつく果てを見とおしていなかったとはおもえない。なぜなら、この美文は愉悦と不安の二重性の側面において、未来を放棄したような色調にしか受けとめられないのである。それでも、高坂の前に今という現在では、何より民族と国家の決断に賭ける意志のようなものがまさってみえた。

 彼ら京都学派にとっての問題意識は要約すると、歴史観を語る場合、民族の能動的な主体性の問題を避けてはとおれないということ、また、西欧世界による非西欧世界の植民地化から不可避にやってくる西欧世界中心の視線を超える視野をもたねばならないという二点に絞られているのがわかる。そこで彼らにもとめられる課題は、世界意識の中で民族の歴史を刻印する主体によって国家が世界を形成して、世界歴史をつくるという創造的意識の内容を盛り込むことにほかならなかった。そのような国家の理念は実践的な理念となるべきであるが、そのための前提として現在における実践は過去の世界認識と結合した上、その客観的必然性と主観性は、過去と現在とが媒介的に統一されるものでなければならないのである。そこから、現代は単に客観的な世界認識にとどまることができなくなり、主体の実践の立場が呼びこまれ、自らを世界の内に中心化する哲学が成立する。これはもともと歴史家にとって矛盾する立場であるが、これを止揚し統一するのはあくまでも世界史の哲学の内部においてなのである。

 近代国家は宗教的な後ろ盾を失い、おのおのの国家がエゴイズムをむき出しにして世界史上にあらわれたが、国家と世界との関係において世界は客観的なモノでもなく、国家は主観的、恣意的であってはならないのである。彼らの言葉を借りれば、近代国家の特徴は、総じて自由主義、デモクラシーの世界秩序の被造物にほかならなかったが、もはや現代は新しい世界像に転換されなければならない時代に直面していると言われる。その世界像は、それぞれの国家が主体としてありながら、その主体性そのものにおいて普遍的秩序を構成するようなものであるべきなのである。そのため彼らの世界史の哲学においてめざすべき新しい国家像は、近代が捨て去ったもの、つまり、近代と正反対の理念である古代や中世の復活をもとめ、再び宗教的世界観を呼びよせざるをえなかった。ただし、それは古代の国家宗教のような神話的信仰でも、中世の世界宗教のように教派的無信仰ともちがって、国家の自立自存と世界的普遍性をともに止揚すべきものでなくてはならなかったのである。

 彼らが共有している立場は、西洋文化を吸収しながらそれを消化し、日本精神によって独特の文化を創造しながら、しかも同時に一足飛びに世界史まで昇りつめることであった。今まで西洋の文物は進んだ最高の文化と考えられてきたため、他の民族も進歩すれば必ず自分たちと同じになるはずだという独善的な発展段階説が西洋から世界中に発信された。だが、もし、西洋文化と東洋文化の両方の根底をさらったならば、人類の文化に広く豊かな方向性がうまれるのではないか。それは西洋文化によって東洋文化を否定するのではなく、また、東洋文化によって西洋文化を否定するのでもない第三の世界史観のあり方にちがいないという西田幾多郎の考え方は、世界史の中で東洋がせりあがってきた実感を背景にしていた。もちろん、それはわが国がアジアの中で急速な近代化を進め、世界の強国としてのしあがってきたという時局認識によって促されたものだ。つまり、あの時代において、ほんとうの世界史的哲学が自然に萌した最初の地盤がわが国においてみいだされることになったのである。彼らはそれを、「八紘一宇」の精神につらなるという言い方をしているが、これは国家主義でもデモクラシーや世界主義でもないなにものかを指す普通名詞にほかならなかった。

 わたしたちはこの京都学派の主張に、わが国の「近代の超克」の先駆けをみるべきであろうか。もし、その近代が西欧世界の領土、経済、文化の拡張によって世界の歴史が変形し、列強による非西欧世界の植民地化の拡大の代名詞であれば、これに対して東洋の立場の突然の出現によって、近代の限界を象徴的に照らし出したという意味ならば、ポスト・モダンとみえなくはない。しかし、このような西欧近代が描き出した世界像への反発を強める契機になったのは、東洋の果てから遅れて出発した近代化した日本という近代のねじれた自己表現でしかなかった。いわば、西欧近代に対抗しているのは東洋の近代そのものでしかなかったのである。それなら、わが国の立場の実現が哲学的思弁から漠然と予期されるものでしかなく、わたしたちの実感に響きあうものとしてはとうてい受け入れられなくなってくる。

 つまり、固有名詞としてのポスト・モダンではないのである。なぜなら、彼らは歴史の流れを思弁的、哲学的にとらえるのみで、近代資本主義そのものをのりこえる方法をなんら明示していないからである。その上、歴史観の対立概念である主観性と客観性とその止揚という問題の立て方そのものが、どのような主体の超人をとおしておこなわれるのか、まるで不明瞭なままなのである。また、彼らの歴史観をわが国にあてはめてみると、古代と中世と近世の大雑把な区割りしか見いだすことができず、そこでは世界につらなるべき当のわが国の近世とは何か、中世とは何かが空白になってしまっている。そのため、近代社会構造の見取り図もポスト・モダンへの筋道もなく、いわば、着地点を見失った無根拠の思想にみえてしまうのである。彼らはほんとうは世界地図を拡げる前に日本地図を拡げなければならなかったのである。

 京都学派は、戦中には西欧哲学について方法的な知識を披露したため、軍部の皇道派から睨まれたと聞く。また、戦後は「近代の超克」論議によって天皇制イデオローグと一括され戦争責任を問われたと言われている。わたしの考えでは、戦時中、京都学派を攻撃した軍部は、どこにも場所をもたない「世界史の哲学」なる架空の思弁的理念を敵に仕立て上げたとしかおもえない。つまり、西欧中心から東洋の自覚にはじまって、その東洋の盟主としてわが国の主体的立場の強調という考え方には、石原莞爾のような東洋と西欧の葛藤を戦争力学に張りつけた「戦争としての国家」ほどのリアリティがないのである。それ以上に、京都学派には明治維新以降、わが国がとってきた富国強兵策が太平洋戦争まで描いた軌跡から帰納的に歴史観を検証し、近代国家成立の輪郭をつくりだす前提作業ができていない点に最大の弱点をもっていた。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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