評論  戦争の想像体験

 平和運動家たちは、たくさんの人命、財産を失ったかつての戦争からあらゆる遺物を蒐集して教訓を引き出そうとした。そればかりか、良心的なひとびとは遺物によっては見えない精神的事実を補うため、従軍した兵士たちに戦争責任はないと訴えた。また、あるひとは兵士の御霊の祭られているのは靖国神社ではなく、郷土の先祖のお墓だと正当に指摘した。つまり、彼らはわたしたちに、戦争について精神的痕跡から考えることを教えてくれたのである。しかし、戦後70年近くを経過した今、わたしたちは、すでに既視感のようなものを抱かずには戦争について語れないことを知っている。なぜなら、第二次世界大戦のあと、世界中のたくさんの戦争にめぐりあってきて、良心の上に幾重に良心を積み重ねても、また、死者の数だけ事実を拾い集めても、一向に戦争がなくならないことを知ったからだ。

 広島と長崎では原爆によって多くの犠牲者がでたことは事実であるが、これらは決して言葉としての真実ではない。なぜなら、わが国においては残虐な行為をした米国に対して溶けることのない怒りがあるのと同じくらい、戦争を早く終わらせるために原爆投下はやむを得なかったとする米国の一般感情があることからも察することができる。それでも毎年8月になると恒例のように慰霊式典がめぐってくる。1970年代のはじめ、時の佐藤首相が、戦後初めて広島を訪れるということで反対運動がもりあがったとき、わたしは一度だけこの式典に行こう(参加ではなく、邪魔しに)としたことがある。被爆者の問題に肩入れしていた党派に誘われてノコノコでかけようとしたのだが、急な事故があって行けなかった。だが、あのときどんな目的で行こうとしたのかおもいだせない。もしかしたら、戦後、戦争責任をうやむやにして長らく被爆者のことを放置したままにしておいて、戦後の決算なる名目を掲げて広島を訪れようとする政治的魂胆が、「人間的」に許せないとおもえたのかもしれない。というより、もっと単純に、得体がしれないくらい大きくみえた政治権力の幅より、「人間性の幅」の方がもっと大きくあるべきだとおもったからかもしれない。しかし、戦争と国家の問題について特別な認識をもっていなかったわたしは、単に、「人間性の幅」から原爆の問題を考えた時点で、幼稚だったのだとおもう。

 あの頃よりまして現在の原爆式典は、戦争体験の風化を如実にあらわすものになっているはずだ。被爆者の多くは亡くなっているし、遺族の方も老齢化している中で、生の被爆体験は文句なく時間に削られてしまっている。今でもそういう体験思想の灯を引き継ごうと努力している方がおられることは承知しているものの、その風化の勢いをとめるのは難しいとおもう。正直なところ、もはや、ヒロシマは世界の核保有国の内面に取り込まれてしまったと考えてまちがいない。世界の核保有国は、一方で、ヒロシマの犠牲者のことを追悼しながら、反面では、相変わらず戦争から自国の「平和」を守るために核兵器を保有するという捩じれた選択をしているのである。その意味において、わたしのおもっていた「人間の幅」はいとも簡単に崩れてしまったのである。それはわが国の核抑止力を担っている米国は、いわば、わが国に原爆を投下したことで、世界の核廃絶まではヒロシマの「敵」でなければならないのにもかかわらず、歴代首相は原爆の追悼式典に参加しながら、式典後、手のひらをかえしたように「核の抑止力」という一見矛盾した言葉を平然と吐くことに象徴されている。

 それを考えると、被爆体験は、むしろ、政治の世界に一挙に吸収されなくてはならないのではないかとおもう。戦後の原水爆禁止運動は、米国の自由主義圏とソ連を中心とした社会主義圏の反戦運動の谷間にあって両側から引っ張られ、長らく冷戦構造の中で凍結されていた。ところが、徐々に人権意識の高まりとともに、核兵器の問題は政治の世界から離れていき、倫理性や人間性に対する最大の冒涜と考えられるようになった。もちろん、これは人権意識が薄れゆく戦後の風景を拒絶したという意味ではなく、原爆体験をより高度な理念に近づいた思想に抽出するために避けてはとおれない道筋だったような気がする。戦後70年近くたってさえ、季語みたいなきれぎれの体験思想のみが残るというのも情けないからだ。果たして同じくらい遠い日清、日露の戦争のことを体験思想と言うのだろうか。原爆は悪いが、通常兵器を使った戦争は善いのだろうか。イラク、アフガニカタンの対テロ戦争は善くて、日米総力戦の結果である原爆のみが悪いのだろうか。そして、片方で、グローバリズムを唱えながら、もう一方で、今でも戦争という切り札を使って外交を展開している米国を中心とする縮小する国家自体の責任はどうなのか。核兵器を作ることが悪いのでなく、戦争をすること自体が悪いのではないか。わたしには次々と積み重なった疑問が渦を巻いてくる。どこかでこれらすべての疑問に答えられるような戦争観に一変しなければならないとおもう。

 わたしたちの戦後は、まちがいなく身内に戦死者をもっていた家族の目線によって、「不戦」の意識からはじまった。もう二度と子供たちを戦場に送ってはならないと誰もが誓ったのだが、折り鶴や銅像をいくら作っても、記憶は時間に追いこされ、いずれ誓いは破られる。それならば、戦争の真実は史実を握るわたしたち自身の手元にしかないことを噛みしめ、わたしたちが戦後に積み重ねてきた想像体験を深める以外にないのではないか。その想像体験の貧しさが、多くの戦争を許してきたにちがいないからだ。真実の視線をみずからのものにできるなら、あの太平洋戦争と米国のベトナム戦争、イラク、アフガニスタンにおける戦争は、決してちがったものにはみえないはずなのである。つまり、この戦争は善くてあの戦争は悪いなどという違いは生じないのである。そして、もう少し理念の根源に想像体験を下降させれば、かつて、憎悪に包まれた敵や味方や国境線のない戦争は存在しなかったのだから、善い戦争や悪い戦争があるわけがないのである。対テロ戦争が人道に適い、ヒトラーの戦争が悪いなどということは絶対ありえない。そういう平和の裏に張りついた戦争や戦争の目的となった平和の理念を放棄しない限り、小さな体験思想は大きな悪意に吸収されてしまうにちがいないのである。

 第二次世界大戦の前、ヨーロッパではヒトラーが政権を握ったとき、戦争の到来を予期していたひとびとが多くいた。とりわけ、ドイツの革命主義者の中には、ヒトラーが近いうちにおこなうかもしれない戦争の不安におののき、政治的混乱が生じていた。反ファシズム闘争をおこなっているもののなかには、近隣の民主主義国の戦争の力を借りようと主張するものもあった。国際的プロレタリアートの主要な敵がドイツのファシズムであるなら、武器を奪われた自国のプロレタリアートにとっては、他国の軍事力を利用してファシズムを押しとどめることが最善策とおもったのである。しかし、当時、ドイツの逼迫した状況に関心を寄せていたシモーヌ・ヴェーユは、革命派からこのような行動手段がうまれる非常識を非難している。それはある野蛮な抑圧に抗して闘うため、別のより野蛮な力を借りるようなもので、抑圧はさらに強まり、人民は更なる奴隷の身分に転落するだけだとおもえたからだ。仮に、その戦争に勝利したとしても、戦勝国の国家機関が敗戦国の人民への抑圧を軽減するようなことはありえない。まして、敗戦国民の中からプロレタリア革命が勃発するのかもしれないときに、手をこまねいているとは信じられなかった。

 ヴェーユには、自国民を奴隷状態におとしめ抑圧する国家機関に対しては、自国の民衆の反抗によってのみ革命は可能であるとする基本的な考え方があった。だが、まわりにはロシア革命から演繹された神話の力が根強く、「社会主義の祖国」という信仰や「革命戦争」によってあたかも民衆が解放されるかのような幻想が確かに存在していたのである。ヴェーユは、そのような戦争と革命の神話の出所を訪ねて、フランス革命時の伝説的戦争観に行きつく。フランス革命の中で、労働者大衆が革命の祖国を諸外国の専制君主から守ると同時に、宮廷貴族や大ブルジョアジーの手から権力をとりもどすための方法として防御的な「革命戦争」の概念が生まれたとしている。ヴェーユは、このような考え方はのちの革命主義者、マルクス主義者に引き継がれているとみなした。やがて、抑圧人民の反乱には「革命戦争」が不可避であるかのような考え方がひとびとに貼りつくようになった。

 エンゲルスやプレハーノフ、メーリングの時代には、労働運動が盛り上がっていたドイツを防衛するために、ドイツの社会民主主義者に対して仏露との戦争に加担するよう呼びかけていた。この場合は、攻勢的であれ防御的であれ、ともかく戦争を判断する際には、この戦争によって結果的に国際的プロレタリアートにどれほど有利かという点を考慮しなければならなかったのである。

 一方、レーニンやローザ・ルクセンブルグになると、プロレタリアートはあらゆる戦争において自国が敗北するように自国の戦いをサボタージュすべきというふうに変わる。当時のレーニンからすれば、帝国主義列強同士の植民地争奪戦が戦争一般と考えられていたから、そのような自国の帝国主義的野望に加担すべきではないとの考えがあったからだ。だが、これに対してヴェーユは、自国が戦争に敗北することは、相手国の帝国主義が利することであり、相手国の労働者大衆への抑圧強化という代償を引き受けなければならない矛盾点を指摘する。それだとプロレタリアートの国際的な連帯が国家の違いによって寸断してしまう難点をもってしまうのである。しかも、レーニンのような戦争観においては、帝国主義戦争であるから「悪」であり、民族解放戦争は「善」というように、政治目標の善悪によって戦争の意味が解釈されており、その目標を達成するための手続きが外交であるか、それとも戦争であるかの是非が問われていない。当時のヨーロッパの革命派にとって、まだ、ロシア革命の影響は大きかったので、現実には実現しようもなかったのだが、トロツキーなどの世界革命論が信じられており、いわば、「革命戦争」の期待を吸いとる土壌があったのである。

 だが、ヴェーユは、当時のドイツ共産党がロシア国家官僚の手下にすぎないことを知っていた。彼女から見たドイツ共産党の誤りは、ロシアの「一国社会主義」路線を忠実に守っているだけで、ドイツ国民を代表するものではなかったことである。ドイツの労働者大衆の利益は、ロシアの利益と明らかに背反していた。ドイツにおける課題は、ファシスト的軍国主義をどう押しとどめるかであり、ロシアにとっては何より、ドイツがフランスといっしょになってロシアを攻撃するのを阻止したいとおもっていたのである。スターリンはロシアへの侵攻を防ぐためなら、ドイツの国家体制が、たとえ、ヒトラーのファシズムであってもよかったのである。ロシアの国家官僚とドイツ共産党との結びつきは、ドイツ共産党が社会民主主義者との統一戦線を組むのを嫌がったことにも端的にあらわれていた。このためドイツ共産党はナチスに無条件降伏したようなものだった。このような正確な情勢認識をもっていた彼女は、早くも戦後のスターリン主義批判の地ならしの役割を担っていたことになる。

 ヴェーユは戦争一般について考えることを拒否したが、それは戦争には軍事の問題が関わり、その軍事闘争が所与の技術的、経済的、社会的条件によって規定されていることを強調するためである。つまり、軍事闘争においては生産における富の集中における経済競争の強化とともに、戦争に向けて経済的体制を組み込むことが条件になる。そこでは軍事の問題と経済の問題は交錯しており、戦争は軍事に関する社会関係、経済関係の反映以外ではないと考えられているのである。そして、マルクスの『資本論』の分析によって、労働力の搾取によって運命づけられた個々資本家の競争の激化が、やがて、全資本家の全労働者に対する抑圧となって表われたものが戦争であると断言することになる。資本家の司令塔は自ら労働しないで労働者の隷属によって富を蓄積し、より多くの富を得ようとすれば、彼らは他の資本家と対立するために、より多くの労働者の隷属を求める。同じく戦争における国家の司令塔は、自らは前線に出ることなく、より多く兵士を搾取するために自国の兵士と対立し、ますます、その対立は激化して、次第にそれは大量殺戮に向かっていく。

≪この指導機関は自国の兵士を強制的に死に追いやる以外に敵に打ち勝つ手段をもたぬので、ある国家と他の国家との戦争はただちに国家軍事機関の自身の軍隊に対する戦いに変化する。そして戦争は最終的には国家諸機関と参謀本部との連合体と武器をもちうる年齢の壮丁全体との戦いの様相を呈することになる。ただ、機械は労働者からその労働する力以外のものは奪わないし、雇用者は解雇以外に強制の手段をもたず、これは労働者が多くの雇用者のどれかを選ぶ可能性をもつため力弱いものとなっているのだが、これに対して、兵士は一人一人が自分の生命そのものを軍事装備の要請に犠牲にすることを強制され、その強制については国家権力による否応なしの処刑の威嚇がつねに彼らの頭上につきまとっているのである。したがって、戦争が防衛的であるか攻撃的であるとか、帝国主義的であるか民族戦争であるかということは、ほとんど重要でなくなる。すべて戦争を行なう国家は、敵がこの方法を用いる以上おなじくその方法を用いざるをえない。…中略…要するに大量殺戮は抑圧のもっとも徹底的な形式だということである。兵士たちは死に身をさらすのではない。大量殺戮へと送りこまれるのである。≫『戦争にかんする考察』 シモーヌ・ヴェーユ著 伊藤晃訳

 ここでヴェーユは、自衛のための戦争であるかどうか、帝国主義戦争であるかどうかは、指導機関が命名したものであり、わたしたち労働者大衆にとっては意味をもたないと述べている。つまり、戦争というメカニズムによって、抑圧は究極的な姿をとることが重要なのである。戦争こそが目的としている究極の抑圧手段である。ヴェーユは別の個所でも権力の内部に対する抑圧と外部の競争のメカニズムを分析している。それによると、権力の二つの闘争とは、ひとつは自身が支配するひとびとに対する闘争であり、もうひとつが自身の競合者に対する闘争なのだが、それらは互いに結びつき油を注ぎあう関係にある。なぜなら、外部で得られた勝利によって、その権力により多くの威厳を与えることで、内部の結束を強化するようになる。これに加えて、奴隷は主人の成功に自らの命運がかかっているかのように思い込み、外部の権力の競争関係の中で配下の奴隷たちも自然と結束をはかるのである。ところが、さらに外部での権力の勝利を期するためには、権力は内部に対してより抑圧的にならざるをえない。この抑圧を持続するためには権力者はさらに外部との競争に向かうことになる。こうして、外部は内部を支え、内部は外部を支えるという循環が繰り返されることになるのである。これを時系列に並べると、権力を支点にして外部の敵と内部の敵の三角関係が成立し、それらが相互に二つの相手を支える構図になる。

 これを奴隷の立場(内部の立場)からみるとどうなるのか。奴隷が外部の権力から自衛するのは、みずからの抑圧的権力によく服していなければならない。そのため、内部の権力が奴隷に対して居直り続けるには、外部の権力との紛争を煽り立て続けなければならないのである。こうして奴隷の内部の権力に対する関係は悪循環をなして、奴隷は主人に対していつまでも服従しなければならない。こういう抑圧のメカニズムに反対するには、平等という旗印しかないとヴェーユは考えた。彼女にとって、「革命戦争」を含めあらゆる戦争は、それ自体のメカニズムにおいて権力が労働者大衆に対する究極の抑圧手段として働くことは自明であった。

 しかし、社会主義を標榜するソヴェト国家が示したものは、社会的平等の実現や権力の廃絶とはまったく逆に、戦争を指導する機構や警察や官僚機構のみが肥大化した中央集権の独裁体制でしかなかったのである。ロシア革命直後、白衛軍と帝国主義列強の干渉から防衛するためという名目で軍隊が再建されると、官僚制と警察が復活し、民衆抑圧機構を整備していったのである。その結果、これらの権力によって行われる「革命戦争」は、反革命のため敗北するか、軍事的闘争のメカニズムによってそれ自体反革命に転化するよりほかなかったのである。ヴェーユはスターリン反対派のトロツキーがロシア革命の結果、官僚主義的歪曲をともなっているが、プロレタリア独裁であり、労働者国家と言っている意味が理解できなかった。なぜなら、労働者が官僚の意のままにあやつられる国家を労働者国家と呼ぶことはできないからだ。ロシア革命のあと、内戦を経て確立した権力のもとでは、どこにもソヴェトは存在していない。ファシズム国家と同様、言論の自由はなく、政党の自由もなく、共産党軍事独裁国家にちがいないのである。

 誕生した国家はロシア革命の歪曲というには、パリ・コミューンで実現した社会主義の原則とはあまりにもちがいすぎていた。彼女の時代は戦争と革命の時代にほかならなかったが、ファシズム、社会主義、共産主義など、どのように呼ばれようと、それらはすべて国家や資本の支配によって個人の物質的精神的安楽の条件を蹂躙してしまうようにおもえた。彼女は≪社会を個人に服属させることこそ真の民主主義であり、社会主義の定義である≫としている。その根拠には彼女なりの理念があった。つまり、官僚的、軍事的国家のうまれるおおもとには、精神労働と肉体労働の乖離が横たわっていたからだ。頭脳によって、社会が労働者個人を抑圧する点においてはファシズムも社会主義も変わりない。だから、精神労働と肉体労働の分離を乗り越えなければ、労働者の知らないところで、戦争が労働者を抑圧する手段として選ばれるのはまちがいないのである。ヴェーユは人間的価値の尊厳を守るために戦争を憎んだが、かつて、わたしが広島の慰霊式典に行こうとした理由と、果たして重なっているのかどうか今では見分けがつかない。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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