柳田國男の民俗学は、山人や漂白民に対する関心からはじまったとされているが、彼が山の生活に興味をもちはじめたのは、法制局の参事官になり犯罪の特赦に関する事務を担当していた頃、のちに『山の生活』の中で知られている事件に遭遇したときである。それは飢饉の年に山の中で炭を焼く男が子供二人を斧で切り殺した事件である。里に行っても炭が売れず、今日、明日食べる米も手に入らなかった父親は、山に帰ると飢えている子供の姿を見るのが辛くて昼寝をしてしまった。目が覚めると二人の子供が斧を磨いており、「死にたいから、これで殺してくれ」といって、小屋の敷居の上を枕にして寝たというのである。それを見た父親は頭がクラクラして、その斧で咄嗟に二人の子供の首を切り落としてしまった。そのあと男は死のうとしたが死にきれず自首したというものである。
柳田はこの事件を、自然主義を標榜していた田山花袋に話したところ、事件が深刻すぎるということで小説にできないと取り合ってくれなかったとある。その頃、花袋は『蒲団』を書いて、妻子ある中年作家が女弟子に情欲を覚え思い悩むというその時代の儒教的道徳に真っ向から刃向う破天荒な小説を書いていたのであるが、そういう文学内部の倫理的な率直さをもってしても掬い取れないほど、この山の事件は衝撃的であった。柳田は花袋の自然主義などというものは、内面の問題としてこのような現実に対してはとても太刀打ちできないのだから、高が知れたものだと思ったと『故郷七十年』で回想している。
このとき、柳田は遠くのものをみるような目で、小説より奇異なるより多くの現実のひとつとして山人の生活を覗き見たとは考えられない。もっと深い意味で、ここには今まで自分が暮らしてきた平地とはまったく異質の生活思想や倫理が横たわっているかもしれないとまざまざと思い知ったのである。もしかしたら、これは柳田にとって思想上の転向と呼べるものかもしれなかったのである。転向をめぐる問題については、鶴見俊輔が中野重治の例を引いてひとつの回答を与えている。戦前の1928年に治安維持法が公布され、思想警察によって日本共産党周辺の大学生(新人会)がターゲットになり厳しく思想転換をせまっていた。その上、当時はわが国が満州事変をおこして、それを国民が熱狂して迎える世相もかさなって、学生たちの孤立感に拍車をかけていた。中野重治も長期の拘留のあと転向し、一切の政治活動から離れると約束して保釈され田舎の家に帰るが、待ち受けていた父親から、死を賭してでも思想に殉じなかった体たらくを厳しくたしなめられる。しかし、中野はそれでも書いて軍国主義に意義申し立てをしようと決意するのである。
挫折して転向して戻ってきた息子を叱責する父親の言葉に、自分が信じた思想の世界などまったく知らない別世界の人間の声を聞き分けた彼は、のちの自伝的小説『むらぎの』の中でも、かつて福本和夫の講演会において、福本と学生のドイツ語をまじえたやり取りの場面を見たときを思い浮かべ、いいようのない気恥ずかしさをおぼえたと書いている。鶴見はこの気恥ずかしさの感覚によって、自分が知っている世界がそういうことに全く関係なく生きているひとたちにどのように理解されているかを思い知ったきっかけになった事件をみているのである。
つまり、鶴見は後れて近代化した国特有の閉鎖的な輸入思想や啓蒙思想の皮相さと限界をみてとったのである。もっぱら輸入思想をもてあそぶのはインテリであって、それを無知(とおもっている)な大衆に繰り返して上から諭すように啓蒙し意識向上につなげようとする図式は後進国の宿命であり、明治の近代化以降、戦後においても現代にいたるまで長く続いたわが国の知識伝達方法の構図であった。だが、中野はそのような構図に違和感をもち、まるでアニミズムに似た心境を抱いたと述べているが、それは父親の生活している『村の家』をなんとか理解しようとして自分の心の内側でわきたった葛藤を物語っていたのである。
これに対して鶴見は、他の転向者の多くが、いとも簡単に共産主義から社会ファシズムに思想転換して、政府に積極的に協力していったのに比べ、中野の場合は転向した後、軍国主義に対し持続して抵抗をおこなった特異な良心的思想として、ひとつの「非転向の転向」あるいは目に見えない抵抗の例として挙げているのである。しかし、いうまでもなく、思想転換は共産党や共産主義に対する忠誠度や政府に対する異議申し立てや抵抗の形だけでおしはかれる問題ではなく、わが国のような知識の土壌を背景に隠している環境において、いままで抱いていた思想体系そのものが根底から瓦解する出来事であれば、すべて転向と考えてまちがいないのである。その点において、従来の転向概念の間口を広くとらなければならないとおもう。
転向の問題は帰するところ、自己内面と外の世界との関係において生じた摩擦によって生じ、ある場合には気恥ずかしさや違和感としてあらわれる。それには輸入思想と啓蒙思想に対する気恥ずかしさや違和感はもちろん、国語の話し言葉と書き言葉のちがいや公式の会合での言葉遣いと家における言葉遣いのちがいなども含まれるのである。そのレベルで言えば、中野の中に芽生えたほんとうの挫折感は、自ら操っているインテリ同士の会話をとおしては外の世界の人間とは会話ができなくなる、いわば、失語症的な状況が引き金になったと考えられるのである。そうであるなら、格別、輸入思想や啓蒙思想だけのせいではなく、言語に関する普遍的な認識の問題として取り上げられるべきものなのだ。柳田はのちにお国訛言葉のちがいについて興味をもつようになるが、その前に山の生活という衣食住が全く異なる生活実態に対する違和感に驚き、ひきつけられたものとおもえる。
こうした転向とともに山の生活に深入りするようになった柳田は、明治41年に九州と四国旅行をしたあと『後狩詞記(ノチノカリコトバノキ)』を著している。わが国が近代の坂を登って行こうとしているとき、柳田の民俗学の出発点には今と地続きの「山」地にこめた次のような感慨があった。
≪ここにかりに『後狩詞記』という名をもって世に公にせんとする日向の椎葉村の狩の話は、もちろん第二期の狩についての話である。言わば白銀時代の記録である。鉄砲という平民的飛道具をもって、平民的の獣すなわち猪を追い掛ける話である。しかるにこの書物の価値がそのために些しでも低くなるとは信ぜられぬ仔細は、その中に列記する猪狩の慣習がまさに現実に当代に行われていることである。…中略…山におればかくまでも今に遠いものであろうか。思うに古今は直立する一の棒ではなくて、山地に向けてこれを寝かしたようなのがわが国のさまである。≫『後狩詞記』 柳田國男著
ここで山地に込めた視線は、焼畑農業が太古から引き継がれ、歴史の現在に刻印を残しているのをみて、柳田がそれを共時的に並べる手法を獲得した経緯が破曲線のように示されている。柳田の描いた歴史の今昔は、中世の古武士が阿蘇の荒漠たる火山の麓で弓を引いて、野山の鳥獣を追いかけていた時代からはじまって、鉄砲を手に入れた土民が、糊口の種に鹿を絶滅まで追い込むまで、各時代をこえて次第に土地の名目と猪狩りの作法の詳細と伝聞の範囲を広げていきながら、山の民が「山の神」を恐れ、射止めた猪の心臓を山の神に献上する祭文にまで辿りつく。このときすでに、歴史の区分けをぬきにしてわが列島の歴史は山から始まったという信仰や伝説が、横へ横へと延びていく柳田のフィールドワークの方法とともに踏み固められた。
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