わが国の近代において戦争に対する視線の問題にいちばん意識的だったのは、「常民」の思想を紡ぎだした柳田國男であった。柳田が歴史学と呼んだのは、戦争や飢饉や大災害のような一回性のものではなく、むしろ、見慣れた光景ではあるが、なんのためにそんなことをするのかわからない卑賤軽微な習俗に目を向けることだった。彼の常民という方法は、時間をさかのぼって先祖から幾世代を経て将来まで連綿と続くひとびとの生活の息遣いを漏らさず蒐集して、ひとびとの奥深い思考の底をすべてさらうことを意味した。彼の民俗学の中には、日清戦争も日露戦争の話もでてこない。もし、そのことを積極的に主張してしまうと、ひとびとの思いが幾重にも固まり匿名になった事跡や習俗だけが歴史事実になり、村の誰々が戦争や災害で亡くなったりしたことで沈めた表情は、決して歴史の上で存在しなかったことになる。事実、このような柳田の姿勢に対して、戦争や飢餓や貧困、差別の問題などで、少なくないひとびとが激しく苦しい息遣いをしたことが村の生活の中に反映していないことに不満をもった者もあった。
柳田は戦時下に『先祖の話』を書いているが、その中で遠い先祖の霊を繋ぐには水と米が絆だったと述べている。
≪農民の山の神は一年の四分の一だけ山に御憩いなされ、他の四分の三は農作の守護のために、里に出て田の中または田のほとりにおられるのだから、実際は冬の間、山に留まりたまう神というに過ぎないのであった。…中略…我々の先祖の霊が、極楽などには往ってしまわずに、子孫の年々の祭祀を絶やさぬ限り、永くこの国土の最も閑寂なる処に静遊し、時を定めて故郷の家に往来されるという考えがもしあったとしたら。その時期は初秋の稲の花のようやく咲こうとする季節よりも、むしろ苗代の支度に取りかかろうとして、人の心の最も動揺する際が、特にその降臨の待ち望まれる時だったのではあるまいか。そうしてそれがまた新しい暦法の普及して後まで、なお農村だけには新年の先祖祭を、あたう限り持続しようとした理由でもあったのではないか。≫『先祖の話』 柳田國男著
若水迎えに該当する儀式が魂祭りに付随していたが、柳田はそれを先祖の霊と呼び、それは稲作の霊と深く結びついていたとしている。ひとは亡くなってから50年目、あるいは33年目の法事を終えて亡霊が神になると信じられた。さらに柳田は、死の世界と現世の距離が近かったことを説くために、霊魂の生まれ変わりという考え方を披歴している。霊が賽の川原を越え山の神にならぬ前に転生ということが信じられ、その行先も先祖の生まれ変わりなど極めて近親のものに多かったとされている。そのような考え方が柳田にとっては、常民の「家」というものの骨格をなした。「家」は遠い先祖の霊が立ち帰ってその永続性を保障し、幽かな「神ながらの道」の指し示す精神的支柱のようなものだった。「家」の先祖の霊はこの国土にとどまり、子孫に対して目に見えない力となり威令をもった。そのことで、死は決して永の別れではないという思想が、生きている者や死にゆく者にとってどれほどの励ましになるかしれなかった。
柳田が「家」とは何かと考えていたときは、戦時下の焦眉の課題でもあった。空襲警報が鳴り響いている中、書き綴っている『先祖の話』では戦死した若者たちのことをあげ、広瀬中佐の話を引いて「七生報国」という遥かな歴史的価値さえ口にし、数千年の間繁栄してきた「家」の伝統の基礎にこのような信仰があったことを語ろうとした。だが、このような「家」の思想は国家という制度の枠組みの中では、事大主義と受け取られたのはやむをえなかった。後藤総一郎は、いわゆる人間本来の自然感情であった「家」が、明治国家におけるネーションの形成にとって、家父長的な権威主義的性格とともにナショナリズムの培養器になり、「家」によって育まれた郷土感情は、権力支配の単位として利用されたと指摘した。しかも、その際、かつての「常民」の「家」が、もともと政治的に中性であったとしても、「国家としての戦争」の中でどういう位置を占めるのか、当該国家の輪郭とともに指し示さなければならなかったのである。そういう「家」の思想の根本に対する穿った見方は、その時の柳田が、政治イデオロギーに最も近づいた地点にいたという批判に繋がった。
そればかりか、「家」の思想は柳田自身の身に跳ね返ってきた。戦後すぐの頃、イデオロギー的な批判ではなかったが、柳田が空襲下で『先祖の話』において「七生報国」のことを書きながら、その一方で、徴兵された実子の帰還を日記で綴っていた矛盾を指摘されたことがある。つまり、『先祖の話』で書いていることと、生きて自分の子供の帰還を期待している心情の裂け目に筆が届いていなかった点において、柳田の戦争責任は免れないというものだった。その上で、彼の民俗学が、一回性としての戦乱や貧困、飢餓に伴う具体的な農民の悲喜こもごもの心情や、生活にとって欠かせない年貢の歴史性などを考察の対象の外においたのは、「常民」概念の狭さに起因しており、柳田の民俗学のアポリアではないかと批判を受けたのである。さらに、彼の民俗学が常民についての反省の学問を挙げる意図を中心にみれば、戦争に好意的ではなかった心情との擦り合わせを怠ったギャップが、次第に戦争に対する見通しを失った原因になったとの問いかけもなされた。
≪柳田国男自身の心中にとぐろをまいていたあの戦中の<疑い>と、その口々に大声で語られる戦後の<疑い>との関連、また<疑い>を抱く自己と、口には少しも出さない他の国民大衆との関連の問題、すなわち、「涙もこぼさずいさぎよく出て行く者が多かった」という観察は大いに正当であろうが、はたして、それがどのようないさぎよさなのか、いさぎよいものばかりなのか、と自分の<疑い>の真実性に発して、<疑い>の友を発見していけなかったところに、柳田の問題がある。≫『『炭焼日記』存疑』 益田勝実著
戦後すぐさま、大戦に対する反省がひとびとの間で一般化したのは事実である。益田によると、このような戦後に疑いをはさむのは容易だが、戦中において、戦争に対して兆した微かな異和感を対象化し、「国民共同の疑い」として追及しなかったのは、柳田自身が常民との関係を相対化していなかった証拠であるとした。そして、そのような民俗学の立場は、常民の心情に対して斜めに構えたものであり、単なるとおりすがりの旅人の観察、採集の視点であるとし、主体性喪失の学問であると断定している。こういう益田の主張は、容易に戦争を疑うことができる戦後においては、当然、ありうる批判である。しかし、これは柳田が常民という概念をどのような時間幅で取り出したかを考えていないところから出る疑問にすぎない。なぜなら、柳田が、戦中に心の中に萌した微かな疑いと、それとは裏腹に「家」を中心にした思想を綴ったことは、時間の間合いを長くとれば、決して矛盾するものではないからだ。おそらく、益田は、戦後、皆が戦争に対して当たり前のように反省するときに便乗して戦争批判をするのではなく、戦中の心の中に留めた時間を抱えながら「国民共同の疑い」をもつべきだと言いたいのだろうが、その間に流れる時間は、せいぜい「家」の一世代の歩幅にすぎない。柳田が、「家」という場合、先祖から折り畳まれた記憶の束に近いものであって、それに比べれば益田がいうような一世代ほど遡ってかこつ「国民共同の疑い」の連帯など、たかが知れていた。
疑いをもったということであれば、むしろ、柳田が戦前、戦中をつうじて目の前で戦争にさらされている「家」の現実と、先祖から続く「家」の思想のはざまで寂寞感をかこったところにこそ、ほんとうの意義があった。なぜなら、柳田の常民概念は、もともと「疑い」を持つものと持たないもの、いいかえれば、「観る人」と「観られる人」の矛盾がなくなる将来に照らしてこそ、有効性を持っていると考えられたからだ。その時点で、柳田にとって過去に振り向くべきものの裏側に、同時に、辿りつくべき理念としての常民性が貼りついていたのである。しかし、今のところ「観られる人」は「観る人」にはなれないで、民俗学の対象にすぎない。だが、民俗学のより深い浸透と発展によって、いずれ「観られる人」は同時に「観る人」になりうる。そういう「価値」意識が背景になければ、「観られる人」としての常民概念は柳田の中には成立しなかったのである。
それは「観る人」と「観られる人」を往復する柳田の心中のドラマにほかならないが、戦争することが当たり前の時代に、つとめて戦争に対して無関心を装った姿勢が、その「価値」意識の方向を指すとするなら、それは評価されるべきものではないか。ここでいう戦争するのが当たり前の時代とは、わが国は明治維新以後、日清、日露の戦争を経て、絶えず、東アジアにおいて戦争を仕掛けてきた。そのために戦争することを前提において、政治、産業、教育のすべてにわたって組織され、「富国強兵」の国家目標に掲げてきたのである。この時、戦争を推進する政治は、わが国の発展のためには戦争が必要だというような言説を弄して国民を駆り立てたのである。このような時勢の中において、柳田の戦争への対峙の仕方は、戦争でもなく国家でもない民俗思想の在処を支えているのである。そこには、人間の過去から現在と将来に伸びる価値は、決して一回性としての戦争や国家の変遷をどう意味づけるかということによって覆されることはないという決意のようなものを読み取ることができる。大切なのは戦争なのか、それとも「価値」としての人間のありようなのか、そういう選択の仕方が柳田の方法には存在するようにおもえる。
当時は「観る人」の思想は、支配の学として「思想としての戦争」に吸収されるのは間違いなかった。また、「観られる人」は現実的に生き死んでいく。その間に一本のつながりのような橋をかけることこそが学問ではないのかという柳田の寂寥感こそが大切なのである。この向かっていく時間に対する理念がなければ、柳田は、おそらく書き物としての資料の過重さや、文字のあるところでないと歴史はないかのように考える従来の歴史学を超えることはできなかった。柳田が、「観る人」という自覚に、まやかしとうしろめたさを感じたことが近代の自己意識の始まりであり、それをどう始末したかという経路こそがおのずと民俗思想の方向性を開くものだった。
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