私は、野村克也は日本プロ野球界が生んだ不世出の監督のひとりだと思います。氏の野球理論は、「世事万般に通ずる」のであり、政治にすら適用可能なすぐれた普遍性を有しております。特に昨今若者たちのあいだでコンフォーミズム(体制順応主義)の風潮が強まっており、極右勢力による、資本主義のいきづまりは日本国憲法に淵源するかのごとき、さらに改憲によって社会の閉塞状況が打開できるかのごとき宣伝に若者が易々と乗ってしまう危険性が日々強まっています。そういう風潮を憂うればこそ、独自の合理的で奥行きのある野球観で球界に一石を投じた野村野球の、若者への啓蒙思想としての働きにいま改めて注目したいのです。
端的に野村のすごさがどこにあるかと言えば、明確で合理的なゲームの方法論・技術論を有していて、かつそれを惜しげもなく公開するところです。そしてその方法論を効果的に運用するために野村が選手たちに課したのは、「常に自分の頭で考える」ということでした。これは日本式野球道である根性野球とは大違いですし、メカニズムの歯車たるを厭わずテクニックの修練に特化する「野球バカ」とも違います。考えることを習慣づけることによって、プロとしての専門性(=ID野球)を培い、かつゲーム運用の判断力(読み)を修得させようというのです。
さらに氏は自らの野球理論を「弱者の戦術論」と性格付け、カネと権力で才能ある選手を囲い込む金満球団に勝つ術を探求するのです。それは東洋風の野球道や上から目線の説教垂れ流しとは違って合理性に富んでいます。したがって合理的な思考を働かせれば、だれでもがアクセスできるのです。天才のイチローのマネはできないが、野村方式ならうまい下手はあってもマネができる、ここが味噌です。王・長嶋やイチローの個人技中心の達人野球とちがって、野村理論は集団的な練磨と向上を可能にします。チーム作りへの努力が結晶化して、野村モデルともいうべき組織理論が完成されましたが、私の眼にはその「平民的理論」から、政党や企業ですら大いに学ぶところがあると感じられるのです。
集団ゲームとしてのプロ野球の監督者として必要な資質を一般化すれば、方法論(技術論)プラス構想力プラスコミュニケーション能力とそれらを総合した人間力ではないでしょうか。野村はID野球という方法論と何年かのしっかりした計画と構想をもって、徹底したコミュニケーションで監督の思想を理解させ、成功体験を積み重ねてチーム・スタッフの信頼を勝ち得え、常勝チームをつくり上げたのです。父親が満州で戦死したため、戦後極貧の母子家庭で育ち、プロでも下積みから這い上がっていった苦労人だけに、野村は共感能力と人間心理の深読みに優れた人間学を身に着けていました。人の心理が読めるのも、跳びぬけた共感能力があるからでしょう。「野村再生工場」といわれたように、プロで脱落しかけた多くの名選手をよみがえらせたのも、技術論と人間学の合理的な裏付けがあってのことでした。
これは政党のリーダーシップ問題にも通じる話です。私がスーチー論を展開するときに脳裡をかすめる人物のひとりは野村克也でした。方法論(政策・組織・運動)、構想力(組織設計や政権構想)、人間性のふくらみにおいてもの足りなさが大いに感じられ、人を生かすことのできないそのリーダーシップの在り方に悲劇性―ビルマの歴史に由来する悲劇―すら感じてしまうのです。つまりその任が求める能力と人格性に不足する人が、トップの地位にあらざるをえないことの悲劇です。先進国ではトップが多少無能でも、それをカバーする政党組織、議会、官僚機構があってダメージを押さえるメカニズムがそれなりに働きます。が、ミャンマーの様な統治機構が星雲状態にある途上国では、トップの如何が国の将来を決めてしまうと言っても過言ではありません。トップが意地悪な性格であれば、意地悪な社会の在り様になっていく、それほどまでにトップの果たす役割は大きいのです。(いや、先進国でもあらゆる機構の劣化が進行していますから、暴走に歯止めがかからないという点では先進国も途上国もないのが、グローバル世界の現状かもしれません)
スーチー氏の話はともかく、今から150年前、日本の近代化という巨大な課題に向き合ったとき福沢諭吉が喝破したように、西洋にあって東洋にないものは、公開的知の有り方と知識獲得のための合理的な方法論の二つでした。たとえば、東洋における知(禅などの教義、華道、歌道、茶道、武道等)は秘伝という非公開知で、公共性にも欠けています。諭吉は日本の近代化のためには知の在り方こそ変えなければならないとして、公開的な議論を奨励し国民一人一人を自立した知の探究者に変えるべく、「学問のすゝめ」を世に問うたのです―当時の人口と発行部数から単純計算すると、日本人の10人に1人が読んだ計算になります!つまり私の言いたいことは、野村野球の理論構成が諭吉の啓蒙思想家としての問題提起の仕方に重なるということなのです。
たとえば落合博満は優れた監督であったにせよ、知の在り方や組織的な人間関係のつくり方という点では日本型監督であり、公開知とそれにともなうコミュニケーションに欠けているという意味では新鮮味がありませんし、人間としてのドラマ性にも欠けています。これでは野球界を超えて日本社会に与えるイノベーティブ(革新的)なインパクトはほとんどなかったでしょう。ところが野村は企業秘密を持ちません。ID野球のパテント料も要求しませんでした。彼には自分を生かしてくれた家庭や学校、そして日本プロ野球界への謝恩と報恩の念が人一倍強く、それが公共的な精神にまで昇華されているようです。自分が得たものはすべて社会に還元する、そういう心意気なのです。「人はなんのために生きるのか」、常々野村はミーテイングで選手たちに問いかけたそうです。野村は選手たちに身体ばっかりではダメだ、頭を使え、哲学をしろ、と促したのです。人は世のため人のために生きるものだというのが野村の回答でしたが、このあたりはなかなか選手たちに理解され難かったかもしれません。
「艱難汝を玉にする」という名言通り、戦争に起因する苦難から野村は這い上がって自分に磨きを掛けました。下層から立身出世した人間は、とかく弱者に対してもともと強者でいた人間より苛酷にふるまいがちです。しかし野村は弱者のハンディキャップをゲーム戦術の有利な要素に変えたという点で、野球の「民主化」に大いに貢献したことはまちがいないでしょう。戦後民主主義のレガシーとしての野村野球、私はそう定義したいと思うのです。
2017年5月19日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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