辺見庸Ⅲ―わたしの気になる人⑬

 耳を澄ませば、くつの足音がする。辺見庸のエッセイ集を読みすすめれば、その足音はしだいに高く、高く聞こえてくるのである。
 2001(平成13)年3月、辺見庸のエッセイ集『眼の探索』は、文庫化されている。この角川文庫を、わたしは、新座市内の小さな書店で購入したのだった。
 「一九九八年一月七日の夕まぐれ、欠けた寒椿の花びらが、人の口から落下し、風に細かく旋回して、ひたっと着地するまでのひどく緩い数秒。」
 引用したのは、収録作品「花食む男」のなかの1節だ。辺見庸が散歩の道すがら認めたワンシーンである。辺見庸の目玉は、きょろきょろ動いていないか。そのからだも、柔軟に動いていないか。
 また、辺見庸は、べつの収録作品「背理の痛み」のなかでは、こう書く。「死刑制度」は「すべては一切の人間的眼を排した国家の闇のなかでとり行われた」と。さらに「文庫版のあとがき」のなかでは、こう書いている。「風景の奥の奥を見とおす視力を、私たちは鍛えなければならない」と。
 『眼の探索』には、36編が収録されている。1997(平成9)年8月3日から翌年8月31日まで、朝日新聞に連載されたものだ。そして、文庫化にともない、1編が追加される。書き下ろしの「虹を見てから―『眼の探索』の補遺として」である。 
 37編は率直で、激しい文章だ。こんな文章の書ける作家が、ほかにいただろうか。しかも、辺見庸の文章は優美なのだ。読後、わたしは、強い衝撃をおぼえたのだった。作家、辺見庸との出会いである。
 その優美な文章の背後には、詩のセンスが感じられるのである。

 わたしは長いこと、文芸評論家で明大教授だった平野謙の文章を読んできた。辺見庸の文章にあって、平野謙の文章にないもの。37編を読みながらそのことに気づいたのだ。
平野謙は、漢語を和語に変換して文芸評論を親しみやすいものにした。一般の人にはなじみの薄かったこのジャンルを興味ふかいものにした。平野謙には人物、作家批評がおおいのだが、人間存在のふかしぎを生活実感をもってとらえた。女性読者をよびこむことに成功もした。この功績はおおきい。  
 そうだ。平野謙は大学院の授業でこんなことをいった。〈うーん、ぼくは詩についてくわしくないんですね〉と。これは、〈平野先生は詩について講義なさらないのですか〉という、学生の問いかけに答えたものだ。詩だけではない。俳句、短歌についても、平野謙はくわしくなかったはずだ。東大に何年も留年して小説読みに没頭した。そのせいだろうか、平野謙の文章には描写力がある。いきいきしている。文章への愛情は、だれにも負けないほど深かった。
 辺見庸は、平野謙より34歳年少だ。だが、平野謙にないものをもっている。それが辺見文学の特徴であろう。視野がひろがっていること。問題意識が鮮明なことも、平野謙にはないものかもしれない。なによりも、平野謙の文章は、書斎にすわって書いている人のものだ。しかし、辺見庸の文章からは、足音が聞こえてくる。頭と眼と心が、その足と連動している。肉体をくぐりぬけた言葉で表現されているのである。
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 辺見庸は、詩との出会いについて、収録作品「詩の流星」のなかに書く。4半世紀以上つとめた会社、共同通信社をやめて10か月になるが、集団から離脱したら、嗅覚が鋭くなった。キンモクセイ、ジンチョウゲ、ラベンダー、スイカズラなど、におわないものはない。感官が開放されたのか、詩を読むようになった。「詩の群れ」は、「いまここにある世界の実質を、じつに簡明な言葉で教えてくれる。」そして「夜半にひとり言葉の包丁を研いでいる」のだ、というのである。
 その成果は、収録作品のあちこちに見られるにちがいない。

 37編のなかには、印象的な表現技法が用いられている。比喩法の直喩と隠喩。擬態語と擬音語。そして、擬人法。これらはたんなる飾り言葉ではない。生きた言葉になっている。「ゴキリと骨の鳴く音」という表現がある。収録作品「骨の鳴く音」のなかに出てくる。処刑の麻縄が首を食み「こなごなに頸骨を砕いた音」をいう。ゴキリという擬態語・擬音語に、さらに骨が鳴くという擬人法。3つの技法の背後には、辺見庸の心情と思想も移入されていよう。
 「鉢植えの二重桔梗が、暮れがたの空気に刺青のように滲むのを見ているうち、裏道の行き方に迷った。」
 辺見庸が東京拘置所の塀の周りを歩いているときのことだ。夕暮れの空気がキキョウの花びらににじむさまを、刺青(いれずみ)のように、とたとえている。直喩だ。感覚的な表現だが、ちょっぴり不気味さを感じる。
 「暑熱に溶けかかった路面が不意にぐらりと波打つ。」
 ぐらりという擬態語。品詞は副詞で、用言の動詞・波打つにかかっていく。波打つようすが、ぐらりという擬態語を用いることで、よりリアルになる。辺見庸の目玉をとおしたおどろきが表現される。
 「百日紅の花のしゃれたちりめん皺。」サルスベリの花びらのやさしい皺(しわ)を、辺見庸はさりげなく隠喩でたとえる。たしかに、花びらは表面が皺になっていて、きれいだ。辺見庸は、この皺を手でふれたのかもしれない。8月のころ、わたしたちは道を歩いていれば、花の色がことなるサルスベリに出会うだろう。辺見庸のこの隠喩を知ってから、わたしは、注意ふかく見るようになった。
 辺見庸は、こんなふうに技法を用いつつ表現する。対象物を巧みに的確にとらえているのだ。それらを「簡明な言葉」で表現する。辺見庸の詩人のセンスを認めたい。 

 収録作品の「骨の鳴る音」と「背理の痛み」。この2編こそ本書『眼の探索』の基調となる文章だと、辺見庸はいう。
 永山則夫の処刑に抗議し、死刑制度に反対する立場を明確にしたものだ。また、「国家による殺人が意図的にその色や音を消され、抽象化され、概念化され、隠蔽されてしまうこと」を、マスメディアがこぞって手助けする背理を、辺見庸は嘆く。さらに、「国家は人を殺すことの苦悩は死刑執行官の生身に預けたまま執行を命じる」と、つづける。
 辺見庸の批判は、遺族と世間の人たちの盲点をつくものだ。彼らには見えていない、隠された側面を、辺見庸は鋭く切りこんでいく。そして、明るみに提起してみせる。辺見文学の独特の視座と手法だと思う。この背後にある、辺見庸の「人間的眼」にしかと注目してほしい。現実に存在する死刑執行官の苦悩へ、辺見庸は、想像力の射程を伸ばしていくのである。

 永山則夫は、1968(昭和43)年にホテル警備員、タクシー運転手ら4人を拳銃で射殺した。永山19歳のときのこと。
 ある日、「辺見庸ブログ」に永山のみすぼらしいアパートが掲載された。胸をつかれる思いだった。たしかに、貧しい時代であったとはいえ、永山の家庭環境がどんなに過酷で悲惨なものだったか。1枚の写真が証明していよう。
 1990(平成2)年、永山の死刑は確定した。この年、作家、永山は編集者のすすめ で日本文芸家協会に入会の申請をする。しかし、入会委員会が決定を保留。「偏見」「特権意識」「守旧性」などによる拒絶だ、と辺見庸は指摘する。結局、永山が申請をとりさげた。ねばってほしかったのに。辺見庸はこうもいう。入会をすすめた人たちは、「そうすることで国家が彼を殺すのをなんとか妨げることができれば、という」「文芸家として当然すぎるほど当然な思いをも込めていた」と。
 永山は、文学者の拒絶にどんなにくやしくて、がっかりしたろう。辺見庸はさらに、拒絶者を「人というものの、無限の可変性を否定する野蛮な知性」だと批判する。永山は獄中で小説を書き、発表してきた。その文学的営為のプロセスで自己とむきあいつつ、自己を鍛錬してきたはずだ。
 1997(平成9)年、永山が処刑されると、入会を拒否した「作家某」が、「法律は法律だし、文学作品を書く人の業績は業績」と、コメントした。この某にたいして「酷薄」だと、辺見庸は痛烈に批判する。そのとおりだ。某とは長老作家の青山光二ではなかったか。青山は、大阪女の作家も、そんな人がそばにきたら怖いわ、といっていると、紹介した。1年の半分をニューヨークに住んで、その地でノーベル文学賞をとるために画策していたという女性作家だ。ある編集者から聴いた話である。そして文芸評論家。
 この3人の発言に、当時、とくべつ注目していた。かれらは、平林たい子文学会の理事なのだ。わたしは『平林たい子全集』(潮出版社)全12巻の書誌の仕事をしていた。文学会の関係者を取材すれば、理事長の女性作家をはじめ、理事たちの、権力をほしがる姿が浮上した。平林たい子文学賞を決定するまでの不明朗も耳にした。書誌の作業はじつに骨の折れるもの。でも、この土台作りなくして全集は成立しないのだ。理事たちのだれが、その苦労に配慮してくれたろう。永山の苦悩に味方なぞできっこない。彼らは、自分の名誉や出世をほしがる俗人たちなのだから。辺見庸は、「せめて文学こそ地下茎の味方でなければならなかった」と、収録作品「地下茎の反逆」のなかに書く。個人の苦境へ救いの手を伸ばせぬ、「地下茎」をもたぬ、心ない人たちだったのだ。

 辺見庸のこの2編は、問題意識のあざやかな理論的な文章だ。そこには、「人間的眼」をとおして獲得した辺見庸の、人への信頼、やさしさが認められる。だから、人の裏切り、ずるさに、辺見庸は怒らずにいられないのではないか。それは、ぶれない思想的姿勢にうらうちされている。
 情と理を兼ねそなえた辺見庸の文章は魅力的だと、わたしは思う。
 この文庫の書き下ろし「虹を見てから」には、その特徴がはっきり出ていよう。もう1人の死刑囚、大道寺将司のことを書いたものだ。辺見庸の大道寺によりそう愛情がつよく感じられる。大道寺はどんなにか、辺見庸の書いた自分にかんする文章に心打たれたろう。
 大道寺は、1974(昭和49)年の三菱重工本社爆破事件などにかかわり、翌年、逮捕された。1987(昭和62)年に死刑が確定。彼は東京拘置所で俳句を詠んでいた。『友へ 大道寺将司句集』(ぱる出版)を刊行。辺見庸は文中、彼の俳句を紹介しながら大道寺像を浮き彫りにする。
 また、彼の著書『死刑確定中』(太田出版)の文章から引用する。
「人は、どんな状況に置かれても生きる喜びを見出すことができるものです。娑婆で生活する人たちにとっては取るに足らないような事々、たとえば、鉄格子ごしに見る月や星も、換気口から入ってくる小さなコオロギも心を温めてくれるものです。」
 獄外の人たちが見失っているものを、死刑囚だらこそ感じとれるのかもしれないとも、大道寺は書く。これをうけて辺見庸はさらに述べる。
 「獄外の私たちはたくさんのことを忘れている。日々、記憶をかなぐり捨てている。」しかし、獄中の大道寺は「たくさんのことを覚えている。日々、記憶と格闘している。」「あの驚くべき作戦計画のことも、むろん、忘れてはいない。」
 獄外はまるで「消費資本主義のゴミ捨て場」のようなもの。「恥知らず」で「傲岸」で「酷薄」な人たちは「記憶をごっそり抜かれた群れ」のようなものだと、辺見庸の悲嘆は大きくて深い。だから、娑婆の人たちは、日常のささやかなよろこびを噛みしめることもできなくなっている、というのである。

 辺見庸は、このことをおよそ20年前に書いている。そして、このことを2017(平成29)年という現在に置きかえてみよう。そのことどもは、いまに充分通用しないか。いや、その病状は進んでいるといえるかもしれない。辺見庸の予感と予言は的中していると、わたしは認めたい。わたしたちは「思惟する力」「記憶力」を失っている。くわえて言葉が衰退している。「言葉のどこを輪切りにしても血の一滴したたること」(収録作品「言葉の退化」)がないと、辺見庸はいう。そのうえで、辺見庸がわたしたちに問いかけ、訴えてくるのは、「模糊とした風景を解像するつよい視線をもつ必要がある」(「文庫版のあとがき」)ということだ。

 大道寺将司は、他界する。2017(平成29)年5月24日に。68歳だった。わた しは、翌日付の静岡新聞で知った。哀しい気持ちになった。浜松市内のケアセンターに入所していた。昨年6月、帰郷し、ほどなく脳内出血のために倒れた。リハビリ専門のS病院に6か月、入院する。(「リハビリ日記ちきゅう座」を読んでみてください)。そこを退院してケアセンターに移っていた。退所して生家にもどるまでの1年あまり、「辺見庸ブログ」は読めないできた。昨年5月末日の「うさんくさいナショナリスト加藤」典洋の「メディア再登場」という批判を読んだのが、さいごだった。
 入院中、辺見庸についてじっくり考えてみた。
 辺見庸は、才能の人である。あわせて、努力の人である、とわたしは思う。
 辺見庸は2004(平成16)年の大病後、回復のためにリハビリをうけているはずだ。リハビリはたいへん根気の要るもの。それに耐えながら精力的な仕事をして、大作を発表している。10月6日のブログに「歩き最悪」と辺見庸は書く。大病から13年が経過する。やっかいな病気をかかえながら、病気になる前よりも、深みのある多くの仕事をこなしている。辺見庸の、その努力はいかばかりか。
 わたしは、初めての体験におさき真っ暗だった。S病院の有能な理学療法士、T先生のひたむきな技術とこまやかな心配りによって、歩行が可能になった。さいごの日に〈執筆を継続してください〉と、T先生は言った。しんみりした。うれしさが込みあげてきた。
 いまこうして、連載の「わたしの気になる人」に「辺見庸Ⅲ」が書けて、わたしはちょっぴりの仕合わせを感じている。

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