旧カール・マルクス経済大学(コルヴィヌス大学)のもっとも親しい友人だった畏友ザライ・エルヌー(Zalai Ernő, 1944年8月-2021年1月1日)が逝った。肝臓がん判明から7年、私のハンガリー留学から数えておよそ40年にわたる交遊が終わった。
ザライはハンガリーの数理経済学を担ってきた俊英である。20世紀のハンガリー人天才数学者ノイマンの流れを汲む潮流が、いわゆる経済学のブダペスト学派である。コルナイとともに国際経済学界で名を知られたブローディ・アンドラーシュ(1924-2010年)はマルクス理論の数理定式化に取り組み、代表作Proportions, Prices and Planning: A Mathematical Restatement of the Labor Theory of Value(1974)は話題作になった。ノイマンが経済理論分析に駆使した線型数学を使い、マルクス理論の数理化を試みた著作である。1970年代に大学院生活を送ったわれわれには懐かしい著作である。ブローディは投入産出分析の創始者レオンチェフと共に投入産出分析の国際学会をリードした碩学である。ザライはブローディの流れを引き継ぎ、ノイマン理論がその後の一般均衡論の発展に寄与したことを追跡していた。
コルナイとブローディはアカデミー付属経済研究所の同僚で、コルナイはブローディから数理経済学の手ほどきを受け、共同研究者になりうる数学者の紹介も受けた。ただ、コルナイはノイマンが定式化し、その後に世界の経済学の主流となった均衡理論に反旗を翻し、不均衡理論の構築を目指した。それが彼の代表作「不足の経済学」に結実した。コルナイが国際経済学界で名を知られる存在になり、ハーヴァード大学教授に上り詰めたのにたいし、ブローディは投入産出分析周辺の数理経済学者としてられるにとどまった。そういう事情もあって、コルナイとブローディの関係は微妙だった。ザライはブローディの流れを継ぐ秀才で、コルナイの処世術には批判的だった。ザライの言辞の端々から、ブローディの愚痴が垣間見えるようで興味深かった。
最初に文部省の交換留学でハンガリーへ留学した1978年、私はマルクス経済大学国民経済計画学科に配属された。ザライはこの学科の将来を嘱望された秀才だった。この学科は国民経済計画の理論的裏付けを行うエリート学科で、ここを卒業した秀才が国家計画庁(付属研究所)に勤め、やがて計画庁長官になるというのが出世コースだった。私より1歳年下のネーメット・ミクローシュ(体制転換期の首相)はその典型で、彼は旧体制時代の立身出世の道を歩んだ。私より7歳年上のケメネシュはネーメット内閣で計画庁長官に就任し、体制転換後はデロイト・ハンガリー社長となった。私が国民経済計画学科に籍をおいた時には、すでにネーメットは計画庁に移籍しており、彼との個人的な付き合いはなかった。ケメネシュとはザライを通じて親しくなった。豪快で親分肌の人物である。
ザライはケメネシュやネーメットと兄弟弟子の間柄にあったが、政治の世界とは一線を画し、政治活動に携わらないことを信条にしていた。政治にかかわることはなかったが、誰もが一目をおく人物だった。私はネーメットのような立身出世型のタイプは好きではない。ザライの身辺の浄さが、彼との交遊が長く続いた要因である。この辺りの事情は、拙著『体制転換の政治経済社会学』(第6章「6.1(2)ホルン・ジュラとネーメト・ミクローシュ」)で記した通りである。
私がハンガリー留学を終えた後、1983年に法政大学とマルクス経済大学との教員交換協定を締結した。その最初の派遣交換教員がザライだった。ちょうどその年の初めに、法政大学社会学部創立35周年記念講演へコルナイを招聘することができた。スタンフォードでコルナイの同僚だった宇沢弘文氏や青木昌彦氏の協力を得て、コルナイの日本招聘プログラムを作った。
さらに1987年にもザライは夫人と共に交換プログラムで来日し、別の招聘プログラムで来日していたハンガリー人の改革派経済学者バウエルとともに箱根でセミナーを開いた。この時、普段は論争的な姿勢が目立つバウエルが大人しくしているので不思議に思ったのだが、ザライによれば、バウエルは学生時代に毛沢東主義者として知られ、活発な活動を行っていたという。その後、バウエルは経済研究所でポーランドの「連帯」運動支援に駆け回っていたことは良く知られていた。また、体制転換後は市場原理主義者になった。経済大学時代のバウエルの過去をよく知っているザライの前で、大言壮語したくなかったのだろうと推察した。その後、バウエルの父親が良く知られた政治警察の取調官で、母親の弟も取調官だったことが分かった。ともにライク・ラースロー外務大臣の取調べに加わっていた有能な若い取調官だった。バウエルの気難しい性格や行動様式が、そのような複雑な家族関係に由来しているのではないかと思った。この辺りの事情も、拙著『体制転換の政治経済社会学』(第8章 体制転換の歴史学)に詳しく記した。
1990年1月に海部首相のハンガリー訪問が実現した。日本の首相として初めてのハンガリー公式訪問である。当初はハンガリーが主要な訪問国になるはずだったが、ベルリンの壁崩壊で主役がブダペストからベルリンに移ってしまった。そこで何か目玉になるプログラムを用意したいというのが当時の関榮次大使の意向で、最終的にマルクス経済大学で「学生との対話集会」をメイン行事にすることが決まった。前年に、英国のチャールズ皇太子が、同じく経済大学ホールのカール・マルクス像の横で、学生との対話集会を行ったのを真似たアイディアだった。大使館に専門調査員として赴任していた私がこの対話集会を準備することになった。
当時、ザライは若くして副学長に就任し、大学カリキュラム改革を主導していた。学長のチャーキ・チャバがヴェトナム訪問で不在になるので、ザライがホスト役を務めることになった。私は彼に事情を説明し、対話集会実現の協力を要請した。質問は事前に用意すること、同時通訳の態勢を取ることも説明した。
チャールズ皇太子の対話集会にはシナリオなどない。即興の応答である。ところが日本の政治家の場合は、そうはいかない。外遊直後に総選挙を控え、失態は許されない。早速、官邸秘書官から「事前に質問を集めよ」、「質問の回答を用意せよ」と矢の催促が来る。対話集会の趣旨から、かけ離れた要請である。大使も公使も、「日本の政治家は欧米の政治家と違うから仕方がない」と諦め、なんとかできないかというので、私が質問を7つ作成し、回答も用意した。ザライにはその旨説明し、質問者7名の組織を依頼した。対話集会当日、質問組織者にザライ副学長の部屋に来てもらい、質問順番の番号を付した質問を短冊にして渡した。回答の方は、事前に選定された複数の同時通訳者に渡し、対話集会前日にはリハーサルも行った。この時にお願いした通訳者の一人が、元駐日ハンガリー大使セルダヘイ氏である。当時はELTE大学助手あるいは講師だったと記憶している。
対話集会の早朝、私は首相を囲む日程確認会議に出席した。海部首相はどうして経済大学と法政大学教員交換協定を結んでいるのかという質問を発し、当時の団長だった小和田恆氏が「法政大学は左がかっているから」と即答したのを覚えている。私が説明してどうなるものでもないので、そのまま聞き流した。
対話集会ではシナリオ通りに、学生が次々と挙手して質問し、回答資料にもとづいて海部首相が答えた。ところが、手際が良すぎたために、時間が余ってしまった。この会の議長を務めたザライは、「時間がまだ少しあるので、もう一つ質問を」と、予定外の展開になった。この時、私は舞台裏の袖で集会全体を見守っていたのだが、海部首相の体が一瞬のけぞったのを見た。幸い、難しい質問ではなく、「安倍晋太郎氏がモスクワを電撃的に訪問しているが、海部首相はこの後、モスクワに合流されるのか」というものだった。その質問に会場がどっと沸き、なごやんだ雰囲気の中で、対話集会が無事終了した。小和田団長が「大成功」とご機嫌だった。ザライとは専門分野での交流よりは、このような専門外での交流がほとんどだった。
ノイマンが一時期、経済学に関心を向け、均衡分析の数学的定式化や経済学へのゲーム理論の導入に先鞭を付けた。ノイマンの着想によって、ノーベル経済学賞を受賞した数理経済学者は10名を超える。それほどノイマンの影響は大きいが、数理経済学の世界でノイマンを口にすることは禁句である。天才数学者の片手間の研究が、現代経済学の核心を形成していることを認めるわけにはいかない。だから、数学者として挫折したナッシュが拡張不動点定理(角谷の不動点定理)を使った大学院生時代の論文(ノーベル経済学賞受賞論文)を、戦後数理経済学の出発点だと吹聴することで、ノイマンを避けている(拙稿「ビューティフル・マインドによせて」、『経済セミナー』2002年7月号所収、http://www.morita-from-hungary.com/j-01/01-05.html)。なんとも情けないことだ。
確かにノイマンは戦後の数理経済学の礎を築いた天才であるが、ノイマンの分析は現実経済とはほど遠い抽象数理モデルである。経済学的思考の一部に利用できるとしても、現実経済の分析にはほとんど役に立たない。そういうこともあって、ザライとは経済学の内容で議論することはなかったが、ノイマンを扱ったアカデミー会員就任講演記録を日本語翻訳した(「経済方法論から見たノイマン」、『経済セミナー』2003年10月号、http://www.morita-from-hungary.com/j-01/01-04.html)。戦後、日本の数理経済学者は皆、ノイマン論文の読解から学び始めた。我が師、関恒義教授や倉林義正教授にとっても、ノイマンは戦後経済学研究の出発点の一つであった。そういう懐かしさから、ザライ論文を翻訳した。今の若い世代が、ナッシュを戦後数理経済学の出発点だと信じ込んでいることを批判する意味もあった。
2001年に野村総合研究所を退職し、立山科学グループの現地法人に移動してから、私の交友関係は大きく変わった。経済大学の友人たちとは疎遠になり、他方でブダペスト工科大学や物理学者との関係が密になった。同じブダペスト2区に居を構えていたザライとだけは交友関係が途切れることなく、互いの家で食事を楽しむ間柄だった。
2013-4年頃に、肝臓がんが判明したことを知った。消化不良が続くので検査したら、肝臓がんが見つかったという。その後も、食事だけでなく、コバケン(指揮者・小林研一郎)のコンサートに招き、温熱治療器の開発者であるサース・アンドラーシュとの場を設けるなどして、交遊を続けてきた。抗がん剤治療はきつかったようで、治療から解放された時期に一緒に食事するのが習慣になった。残りの人生を満喫しようと、夫婦でヴェトナム旅行に出かけるなど、闘病者には見えないエネルギーがあった。
肝臓がん治療は難しい。再発や転移の確率が高く、治療はやっかいである。可能な限り転移を防ぎ、局所的な治療に留めるのが余命を延ばす基本だが、多くの場合いったん消えたように見えるがん細胞は再生する。再発の度に、ザライは抗がん剤治療に耐えていた。1昨年辺りから、抗がん剤の効き目が切れ始め、他の臓器への転移が見られるようになった。はたして、その歳になって、抗がん剤治療を行う意味があるのかと問うたこともある。苦しむだけ損ではないか、積極的治療を受けない方が、生活の質を上げられるのではないかと。その考えに一理あると答えていた。
転移が分かった段階から、余命が見えてきた。7年にわたる闘病生活は長かった。年末から年始にかけての10日間は、自宅で長男次男夫婦、長女夫婦の家族に囲まれた最後の時間となった。イルディコ夫人は彼が治療に疲れていた様子を語り、予期された死だったことを淡々と語った。家族の皆に囲まれて旅立った。
年が明けたら、声をかけて一緒に食事しようと考えていた。その機会を永遠に逸してしまった。
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