連合国の対日処理と「掟破り」 ―あらためて考える「歴史問題」 2

著者: 田畑光永 たばたみつなが : ジャーナリスト
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 前回では日中韓の「歴史問題」が、なぜ戦後70年に至っても歴史に送り込まれずに、現実の政治課題であり続けるのかについて考えた。極東アジアでは古来、中国大陸、朝鮮半島、日本列島は中華を中心とする冊封朝貢関係・華夷秩序のもとに、概して安定した共存関係を保ち続けてきた点で、民族の勃興、角逐、衰退の渦の中で土地と民族が入れ替わるような激しく長い戦争を繰返してきたヨーロッパとは、戦争についての考え方が違うことをまず指摘した。
 そして、19世紀後半から欧米への同化路線を推進した日本が、従前の体制を守り続けようとした中国、朝鮮に武力、威力をもって立ち向かい、20世紀前半の半世紀の間に中国からは戦争によって領土の一部(台湾、東北地方)を奪い、朝鮮を威嚇によって併合したのは、極東アジアの長い共存関係に対する裏切り、掟破りであったことが、歴史問題が容易に終わらない原因であるという私の見方を提示した。
 今回はアジアのローカル・ルール違反ともいうべき「掟破り」が戦後の国際関係の中でどう扱われ、どう処理されて来たか(あるいは処理されてこなかったか)を考えることにする。
 しかし、その前に明治維新以降の欧米追随路線を走る過程で、中国、韓国に向き合う姿勢を変えることについて、日本自身はそれをどのように認識していたかを見ておくことにしたい。

「つき合い方を変えろ」
 明治維新が尊王攘夷を掲げる討幕派の勝利に終わった後、新政府は手のひらを返したように、1869(明治2)年に「外国との和親に関する勅諭」を発して、攘夷どころか諸外国と肩を並べることを対外政策の基本にすえた。手始めに近隣諸国と近代的な条約関係を結ぶことに着手し、1871(明治4)年に清国とは日清修好条規を結んだものの、朝鮮はそれにも容易に応じず、江華島事件を経て明治9(1876)年にようやく日朝修好条約がむすばれたのであった。その後、日本が鹿鳴館に象徴されるように「近代化」の道をひた走っても、中国、朝鮮はいっこうにそれまでのあり方を変えようとはしなかった。
 それを「遅れた隣人」と見たのが福沢諭吉である。1885(明治18)年に『時事新報』紙上に発表した有名な「脱亜論」で彼はこう言い放つ。
 「一村一町内の者共が愚にして無法にして然かも残忍無情なるときは、稀に其町内の一家人が正当の人事に注意するも、他の醜に掩はれ堙没するものに異ならず。・・・我日本国の一大不幸と云ふ可し。左れば今日の謀を為すに我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず。寧ろその伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ。悪友を親しむ者は共に悪名を免かる可らず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」(句読点は引用者)
 分かりやすく言い直せば「近所が悪ければ、自分も同類と見られる。これが日本の一大不幸だ。だから近所が目覚めるのを待って、一緒にアジアを興すなどという余裕はない。むしろそういう仲間とは縁を切って西洋の文明国と同じ行動をとり、中国、朝鮮に対するのも、隣国だからと言って特別の配慮は無用、西洋人が彼らに対するやり方でやるだけだ。悪友と仲良くすれば、自分も悪く言われる。日本は心の中でアジアの悪友とは関係を絶つのだ」ということだろうか。
 福沢はここで「近隣づきあいに特別の遠慮は無用、西洋人が彼らに対するやり方でやるだけだ」と、つき合いのルールを変えることを主張している。「掟破り」を自認しているわけである。それは日本が西洋に追い付くための努力をしているのに、それを怠けている隣人がいて、それと同一視されるのを避けるためである。その限りでは、掟破りにも正当性がありそうだが、問題は掟を破って、その先何をしたかである。
 日清戦争、義和団鎮圧参加、日ロ戦争、韓国併合、対華21か条要求、満洲事変、日中全面戦争と続くその行動記録は「西洋人が之に接するの風」をはるかに凌駕する激しいものであった。その挙句が太平洋戦争となり、自ら無条件降伏に至ったのであるから、福沢の目に必要と映った掟破りの範疇に収まるものではなかったし、当の日本人自身にしても1945(昭和20)年の惨状が明治の掟破りの結果という意識は持たなかったであろう。
 しかし、その被害をこうむった側にすれば、そもそも古来平穏に共存してきた三国の関係の中から、何故ににわかに日本が牙をむいて中国、朝鮮に挑みかかったのか、その不当を責めることが、あの半世紀の歴史の始点であり、終点であるのは当然であろう。

戦後処理では?
 そこで今回の本題である、その掟破りが終戦処理の外交作業の過程でどのように扱われたか、である。
 日本は連合国のポツダム宣言を受諾して降伏した。この宣言は1945(昭和20)年7月26日に米国大統領、中華民国主席、大英帝国首相の名前で発せられたが、宣言を練るために7月17日に実際にポツダムに集まった首脳の中には蒋介石の姿はなく、かわってスターリンがいた。つまり内容は蒋介石抜きで決まったものである。26日の発表には事後承諾した蒋介石は加わったが、まだ対日参戦していないスターリンの名前はなく、8月8日の参戦後に登場する。
 なぜそんなことにこだわるかと言えば、ポツダム宣言を起草した人々はアジアの掟破りとは無関係の人々だったことを指摘しておきたいからである。その結果、日本に対する非難は極めてドライである。
― 無分別なる打算により日本帝国を滅亡の淵に陥れたる軍国主義的助言者により・・
― 無責任なる軍国主義者が世界より駆逐せらるるに至るまでは・・・
と、軍国主義者の無分別、無責任は糾弾されているが、道義を持ち出して「謝罪せよ」などとは言っていない。その一方でカイロ宣言を引いての領土条項、日本軍隊の完全武装解除、戦争犯罪人に対する処罰、実物賠償の取立てといったペナルティについては明確かつ具体的である。
 1951(昭和26)年のサンフランシスコ平和条約では軍国主義に対する非難もなく、戦争の終結を確認し、その後に具体的な領土、賠償、請求権などの処理が謳われている。ただ第11条の戦犯についての条文に「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする」とあるのがやや目を引く。時にこの前段が戦犯法廷の考え方を受け入れよと言っているように誤解されたりもするのだが、ここでの「裁判を受諾し」の「裁判」の正しい訳語は「判決」であって、要するに講和条約が結ばれたからと言って、まだ刑期の残る戦犯をかってに釈放してはいけないという意味にすぎず、精神的なペナルティを意味するものではない。
 つまり敗戦日本に対する連合国による法的処理には「掟破り」を問題にするような条項はない。謝罪する、しないという問題は存在しない。それが戦争処理の一般的な形である。謝罪が問題になるのは中国、朝鮮、日本の3者間である。そして最初にそれを口にしたのは、じつは日本なのである。
 敗戦直後の8月16日に組閣の大命を受けた東久邇宮稔彦首相がその人である。皇族であり、陸軍大将であり、中国戦線で指揮をとったこともある同首相は組閣3日目の同18日に中國中央通訊社の特派員と会い、中国に謝罪使を派遣したいという意向を伝えたのであった。このアイディアは各方面に支持され、その謝罪使候補にはまず盧溝橋事件当時の首相、近衛文麿の名前が挙がった。近衛自身もその気になったとも伝えられた。しかし、同内閣が短命に終わったために、謝罪使派遣は実現に至らなかったのだが、東久邇首相にはたんに戦争の勝者、敗者というだけでなく、日本側は道義に悖る立場に立っていることの自覚があったのである。
 もし東久邇内閣がもう少し長続きして謝罪使派遣の話が具体化しても、マッカーサーの占領統治が始まったばかりであり、実現したかどうかは何とも言えない。むしろ実現しなかった可能性のほうが高いかもしれない。しかし、アイディア倒れに終わったにしても、このことがすっかり忘れさられてしまったことは残念である。もし敗戦直後の首相が謝罪の意思を明らかにしたことが、しっかり日本の政界に引き継がれていたとしたら、後の首相たちも「謝罪」でそれほど頭を痛めないですんだかもしれない。それはともかく謝罪問題を含む歴史問題は世界共通の問題ではなくて、アジア3国の問題なのである。
 それでは中国、韓国との直接の外交折衝では「掟破り」はどう登場したかが次回のテーマである。(続く)

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