選択的夫婦別姓を阻んでいるのは戸籍制度 最高裁2度目の「夫婦同姓」合憲判断について

 6月23日、最高裁は「夫婦別姓」の法的結婚を認めよという請求に対して「ノー」の決定を下しました。2015年に続き、2度目です。曰く、「法的には夫婦同姓は合憲。これは裁判所が判断することではなく、国が議論すべき」だと。だってその国が法改正を進めようとしないのに。15人の裁判官のうち4人だけが少数意見を述べたそうです。公表された文書の大半はこの少数意見の紹介だったそうな。最高裁も後ろめたかったのかしら。いやいや「法律通り」なのでしょうね。ぜひ、4人の裁判官の意見を読んでみてください。

 何べんも書きますが、わたしは1959年に結婚するとき「夫婦同姓強制」の壁に阻まれて「夫の姓」で婚姻届けを出しました。国は「それは個人の自主的選択であって強制ではないから憲法に反しない」というのです。しかし、わたしが「改姓」しなければ夫がわたしの姓になるほかなかったのです。わたしが「自分の姓」を使いたいと言えば彼が意に反して妻の姓にならなければならない。だから「同姓」は「自由な選択」ではなく、「強制」なのです。

 以来62年間、私は「通称」としての「旧姓」を使い続け、しかし預金口座も給与支給もクレジットカードも、およそ「公的」と名の付く場面で「通称」は認められず、研究者としての論文発表や著書の出版、いくらかの社会活動の場では「通称」を使い続けたために、わずかな印税や講演料も「振込先」を指定されたとき「戸籍名」の口座では「本人ではない」と認められなかったこともありました。今はどこへ行っても「マイナンバーカード」の提示を求められ、「持っていない」というと「写真付きの身分証明書を」と言われます。パスポートにはローマ字で旧姓併記してありますが、漢字のサイン欄は「戸籍名」しかありません。住民票に「旧姓併記」を認めることになったというので書類を取り寄せてみましたが、「両姓併記」が義務となり、今後あらゆる公的文書にそれで署名しなくてはならない。しかも「一度併記を選択したら離婚しない限り変更できない」とキョーハクじみた説明まで書いてありました。
 
 これまで何べんも「ペーパー離婚」しようかと思いながら、「選択的夫婦別姓」実現を待ち続けて60年以上も経ち、年老いた今ではもし「事実婚」を選択したら、それこそあらゆる契約の名義変更をはじめ大変だということと、わたしの死後の後始末のため遺された子どもたち(なぜかつれあいよりも後に死ぬと思っている)に余計な手間をかけさせることになるだろうと思うと「面倒」になってきたという実感もあります。「そんなに自分の姓にこだわるなら通称呼称すればいい」という人はやってみて御覧なさい、と言いたい。

 「選択的夫婦別姓」を阻んでいるのは「戸籍制度」です。明治維新以前、一般民衆は「姓」など持っていませんでした。戸籍制度は、男性上位の家父長的「家制度」の根幹をなす制度でした。戦後「家制度」は廃止されたと言いますが戸籍制度は温存され、たしかに「戸主」としての男性の優位性は消えましたが、今でも「戸籍筆頭者」の大部分は男性です。そして同一戸籍には同一の姓の「血縁家族」だけが別記載できる(別姓の夫婦は記載できない)。これが「選択的夫婦別姓」を阻む一大原因です。

 わたしは数か月前に「おひとりさま」の姉を見送り、きょうだい(きょうだいが死亡した場合はその子)が相続人になるという規定に従ってわたしが相続代表人になりました。そこでぶつかったのが、わたしは結婚して姓が変わったため、姉と同一の戸籍からは抹消されているということです。もちろん兄や弟たちも結婚しましたから父親を筆頭者とする戸籍からは抹消されてべつの戸籍をつくったわけですが、昔の古い戸籍には手書きで抹消されたものの名前にバツ印が付いていたので、きょうだい関係は一目でわかりました。

 ところが戸籍は何回も改正され、今はデジタル化されています。その活字化された戸籍を取り寄せてみて、姓が変わったわたしはバツ印どころか、全く消えてしまっていることを発見しました。男兄弟の名は残っているのです。彼らは結婚しても姓が変わらないから。これは「家制度」そのものではないか、と思いました。おかげでわたしと姉が「血のつながった、つまり同じ父親を持つ姉妹」であることを証明するためには古い戸籍を取り寄せなくてはならないのです。姉は戦後戸籍を東京の居住地にうつしていますが、わたしは70年も前に亡くなった父親の出身地の役場に、古い戸籍謄本を郵送してくださいという依頼状を、料金として「定額小為替」というものを同封のうえ送りました。その戸籍の筆頭者は会ったこともない「祖父」らしき人の名前になっているそうです。
 ことほどさように戸籍制度の存在が夫婦を単位とする家族ではなく、「一族郎党」の「血のつながり」を証明し、したがって生活保護受給のときの「扶養照会」のように「身内で面倒見なさい」という「自助」意識の支えになっているのだという気がします。

 もう10数年も昔、「生きている間に選択的夫婦別姓の実現を」という意見書を書いたことがありますが、今やその望みも危ういのだろうか。このまま死んだら化けて出ようか。でも「馬の耳に念仏」だか「蛙の面に水(しょんべん?)」の今の政権には通じないだろうから、もう少し生きて「別姓」を要求しよう。すみません、馬や蛙だってこれほど鈍感だとは思いませんけれどね。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

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